12.同じ世界

波打ち際にふたつの人影があった。


「世界はひとつしかないのに、私とあんたで見えてるものが違うのね」


そう言って、コンスタンサは愉快そうに声を立てて笑った。波しぶきや、浜辺の砂や、彼女の長い髪や、着古した麻のドレスの裾が潮風に巻き上げられる。少女の背後で、夕日が大西洋へ沈んでいく。


「そうだよ」


声変わり前の幼い声でルイシュは答えた。少年の手の中には小さな貝殻があった。


「おまえがピンクの貝殻だというこれは、俺の目には白い貝殻にしか見えない。あの夕日は俺にも赤く見えるけど、俺の知っている赤と、おまえの考えている赤は、きっと違う色だ」


薄い色、特に、薄い赤やピンクがルイシュには生まれつき見えない。


「でもそれは俺とおまえに限ったことじゃない。人間は、いや、生き物は、まったく同じはずの世界をそれぞれ違う風に見てるんだ。俺たちは生まれてから死ぬまで、自分の目を通してしか世界を見ることができない。自分の目で見えるものしか、見えない」


「そんな言い方、何だか淋しいわ」


コンスタンサは拗ねたように唇を尖らせ、それから遠くに何かを見つけて急に走り出した。少女は砂に半分ほど埋もれた黒いものを拾い上げ、息を切らしてルイシュのところに戻ってくる。


「見て、いいもの見つけた!」


手の平くらいの黒い石だった。光沢があり、すべすべとしていて透明度が高い。


コンスタンサはルイシュと肩を並べ、黒い石を目の高さに掲げた。ふたりは顔を寄せ合い、少女は左目で、少年は右目で石の向こうの景色を見つめる。モノクロの夕日が水平線で輝いていた。


「どう? もしかして今、私たち同じ世界を見てるんじゃないかしら」


「さあな。光の感じ方とか、多少は違うんじゃないか?」


「何よ、あんたマジでむかつく奴ね。ばーか、ボンボン、マザコン、短足」




     *




思い出はいつも優しい。だが、それに甘えていては前に進めない。夢の残滓を頭から振り払い、ルイシュは目を開けて上半身を起こした。


正面に窓があり、半分ほど開いた鎧戸の向こうに王宮内の林が見えた。木立の奥から真っ赤な朝日が昇ってきていた。


「あら、大臣、お目覚めですわね。お加減いかがですか?」


女の声が聞こえ、ルイシュは声がした方を振り返った。王宮の女官らしき娘が水差しを手に部屋に入ってきたところだった。ルイシュの礼服の上着がドア横のポールハンガーにかけられていた。


「……俺は、昨夜、どうかしたんだろうか?」


強張った身体の筋を伸ばしながらルイシュは靴を履く。


「“王の庭”でお倒れになられたんですよ。王宮医師の診断によると、過度の疲労ということです。遺跡のことでお疲れだったんでしょう」


説明しながら、女官はルイシュに杯を手渡す。ガラス製の杯はポートワインで満たされていて、ルイシュはそれを一気に飲み干した。


「そう言われると、久しぶりにしっかり眠った気がするな。世話になった、ありがとう」


懐中時計を見ると6時だった。9時間も寝てしまった。頭も身体もすっきりと軽い。だが、脳はほとんど働いていなかった。懐かしい夢の余韻に首まで浸っている。


「いえ。王女殿下から大臣へご伝言をお預かりしています。“目が覚めたら温室へ顔を出すように”とのことです。よろしければ、こちらをお使いください。今、従者の方をお呼びしますわ」


女官は窓辺の鏡台を視線で示し、そこに置かれた洗面器へ水差しから水を注ぐ。ルイシュは鏡台の前に座り、冷たい水で顔を洗った。やがてコスタ家の使用人の青年が現れる。コエントランだ。


「大臣は働き過ぎです。ご無理なさらないでくださいね。お顔色はよろしいようですけど」


コエントランはルイシュの長い髪を整えて首の後ろでリボンでまとめ、髭を剃る支度をしながら眉をひそめた。ルイシュは鏡に映る自分の顔を凝視した。


「そうか、俺の顔色は、いいか」


他人と色の見え方が違うとルイシュが知ったのは10歳の頃だった。病床の母に「庭の白い花を摘んできて」と頼まれ、一番大きくて美しい真っ白な花を摘んで母に手渡した。


その場にいた大人たちは顔を見合わせ、3人の兄たちは「それはどう見てもピンクだ。母上は白い花がほしいとおっしゃられたんだぞ。人の話をきちんと聞け」とルイシュをからかった。


母の主治医がルイシュを心配し、後日、改めて診断をしてくれた。ルイシュの目には薄い色、特に、薄い赤やピンクが見えていないことが分かった。


10歳になるまで本人も家族も気がつかなかったほど、日常生活に支障はなかった。だが、他の誰もが見えているものが自分にだけ見えないという劣等感や疎外感は、子供心に切なかった。


次兄と三兄の間で流行ったのは、ルイシュの白いシャツに水で薄めた赤ワインを垂らし、弟がそれに気がつくか試すという遊びだった。ワインの濃度を徐々に上げて、ぎりぎり気がつかないところを攻めていくのが面白いのだと兄たちは楽しそうにしていた。


母は気にするなとルイシュを慰め、「あなたは相手の顔色が分からない。だから相手の言葉の端々や、目の動きや声色によくよく注意して、相手の気持ちを慮りなさい」と助言した。


その1年後、母は他界し、さらに1年後に新しい母親がコスタ家にやってきた。12歳のルイシュが実家を飛び出してポルトへ向かったのは、その3ヶ月後だった。


転がり込んだ香薬師の元で出会ったのが1つ年長のコンスタンサだ。ルイシュが母からの助言について打ち明けると、彼女はこう言って笑った。


「相手の顔色をうかがうのが難しいなら、顔色なんてうかがわなきゃいいのよ。私なんて見えてたって、他人の顔色をうかがったことなんてないわ」


できないことがあろうと別の手段を使って努力すれば目標へ到達できる、そう教えてくれたのは紛れもなく母の愛だったとルイシュは思う。だが、コンスタンサの言葉に心が救われたのも事実だった。「無責任なこと言うな」と口では応じたが。


師匠のセルジオは初めは難しい顔をしたが、最後にはいい加減な励ましをくれた。


「香薬師が患者の顔色を認識できねえってのはかなり問題だが、まあ、患者の話を聞きゃ、治療はできる。要は香試でバレなきゃいい。何とかなるだろ」


香試には受かったが、結局、ルイシュは香薬師にならなかった。コインブラ大学で法律や政治について学び、祖父のコネで国土保安開発省に入った。初めはブラジルやアルガルヴェといった遠方へ派遣され、そこで実績を出し、10年ほど前にポルトへ戻ってきて前大臣の副官となった。大臣に就任したのは2年前だ。


「面倒かけたな。助かった」


身支度を終え、礼服の上着を羽織ると、ルイシュは女官にもう一度、感謝を伝えた。


「そうだ、知っていたら教えてくれ。“王の庭”で倒れた俺を見つけてくれたのは誰だったんだ? まさか、国王陛下じゃないよな?」


ルイシュが“王の庭”にいたのは国王に呼び出されたからだった。女官はうっとりとした目で答えた。


「マガリャンイス伯爵夫人のお連れの方ですよ。大臣を軽々とお抱えになって、こちらへ運んでくださったんです」


「それは、もしかして、男物の服を着たゲルマン系の美女か?」


「ええ、そうです。オリオン様、お優しくて、お強くて、お美しくて、とっても素敵でしたわ……」


身悶えしている女官を置いて、ルイシュは「そうか、ありがとう」と言って退室した。コエントランは半歩遅れてついてくる。


ルイシュが寝かされていたのは王宮医師の部屋の近くだった。3年前までコンスタンサが使っていた王宮香薬師の部屋もこの辺りにある。


早足で温室へ向かいながら、ルイシュの胸中は悪い予感で埋め尽くされていった。オリオンの名を聞いて、昨夜のことを思い出したのだ。


ルイシュは“王の庭”の大理石の椅子に腰かけ、アマリアを案じながら暗い空を見ていた。ここのところ睡眠不足が続いていたが、アマリアに滋養強壮の香薬を焚いてもらったばかりで体調は良かった。


そして、真後ろから近づく何者かの気配にルイシュは気がついた。そこから先の記憶がない。


ルイシュが熟睡している間に、アマリアの身に何かが起こったことは想像に難くない。ルイシュにとってアマリアはこの世の誰よりも平穏に生きてほしい存在だ。肝は冷え、はらわたは煮えくり返り、ルイシュは冷静さを失っていた。


「コエントラン、馬車の用意をしておいてくれ。王女殿下にご挨拶したらすぐに帰る」


広い裏庭に出て、ガラス張りのドームを擁する温室の姿が見えた頃、ルイシュはコエントランへ言った。


「分かりました。そうだ、大臣、実はエウゼビオさんから、これを預かっていました」


使用人の青年が差し出したのは折りたたまれた手紙だった。封蝋に押印はないが、“ルイシュ・ダ・コスタ様”と書かれた宛名の文字はアマリアの筆跡だった。


「アマリアから大臣へのお手紙だそうです。では、僕はお帰りの支度を」


コエントランが立ち去り、ルイシュは緊張しつつ手紙の封蝋を割った。その時、王宮の正門の方から走ってくる男が見えた。王宮護衛隊の兵士に追いかけられているところを見ると、無理やりに検問を突破したのだろう。


「おおい、四短! 遺跡破壊省大臣! ちょうどいいところに!」


男は走りながらこちらへ手を振ったが、ルイシュは男を無視して温室へ向かった。温室の入口には王宮護衛隊の兵士がふたり立っていた。ルイシュは彼らに早口で頼んだ。


「不審者だ。追い払ってくれ」


ルイシュが指し示したのはコインブラ大学の考古学博士エンリケ・クラヴェイロ・ロペスだ。シャツもウェストコートも編み上げ靴も泥で汚れたり擦り切れたりしているが、赤茶けた髪はきちんと整え、首の後ろでサソリのような形に結っている。年齢は29歳のはずだが、小柄で中性的なので美少年という印象だ。


ふたりの兵士たちは目を吊り上げ、両手を広げてエンリケの進路を阻む。彼を追ってきた兵士たちが加わり、計5人の兵士に取り囲まれたが、コインブラ大学の博士は風のような俊敏さで包囲網をかいくぐった。


エンリケの異常な身のこなしに驚きつつ、ルイシュは「やはり、そうか」と納得した。エンリケの素性について、少し前から部下に調べさせていたのだ。


「大事な話があるんだって! 聞かなきゃ後悔するぞ、四短!」


エンリケの声を背中に受けながら、ルイシュはガラス張りの温室へ逃げ込んだ。王女の姿はまだない。エンリケはずかずかと遠慮なく温室へ入ってくる。


「古の王墓から出たであろう遺物が、街の古物商や質屋に流れているのを見つけたんだよ! おそらく君が雇った失業者の誰かが転売したんだ! つまり、君のせいだぞ、四短!」


温室には歴代の探検隊がブラジルから持ち帰った様々な熱帯植物が繁茂している。ブラジル勤務を終えた際にルイシュが王女に贈った苗木も大きく育ち、オレンジ色の小さな花をたくさん咲かせていた。ルイシュはその木の手前で立ち止まり、エンリケを迎え撃った。


「そいつは一大事だな。でも、犯人を見つけたわけでもないのに俺のせいだと断言するのは“短慮”なんじゃないのか? もしかしたら、夜中に盗掘されたのかもしれないだろ」


無責任なルイシュの言動にエンリケは逆上し、その胸倉をつかんだ。


「そうだとしても、原因は警備不足だろ。君の落ち度だ」


不審者を追って温室へ足を踏み入れた兵士たちは不穏な光景を目にして慌て、ルイシュからエンリケを引き剥がす。エンリケは抵抗しつつルイシュを睨め上げた。


「この話には続きがある。でも、ここでは言えない。人払いしろ」


「別に聞きたい話じゃない。帰れよ。こっちは忙しいんだ。犯人は探す。古の王墓の警備の数も増やす。古物商や質屋に流れた遺物はできるだけ回収する。他に何かあるか?」


「とにかく、人払いしろ」


そう繰り返した彼の目は思いの外に真に迫っていた。ルイシュは王宮護衛隊の兵士たちへ温室から出るように頼み、エンリケはふたりきりになったことを確認してから口を開いた。


「一昨日の朝、君が雇った失業者が王墓の壁の一部を壊しただろ? 崩れた壁のパーツをつなぎ合わせたら、あの壁には不自然な空洞が存在したことが分かった。つまり、壁の中に何かが埋め込まれていたんだ。でも、それは現場で見つかっていない。壁を壊した奴に持ち去られたんだ」


「まあ、宝飾品なんかだったら、持って行くかもな」


「そんなものじゃない」


エンリケは声を荒げ、懐から丸めた紙を取り出し、木の根の上に広げた。黒いインクで、どっしりとした杯が描かれていた。脚には何か細いものが絡みついている。


「壁の空洞の型を取って、それをスケッチしたものだ。こういうものを持ち込んだ奴がいないか、ポルト中の古物商や質屋に聞いて回った。そうしたら、見つけたんだ、物乞いみたいな身なりの男から、青銅の杯を買い取ったって古物商を」


「そんな明らかに盗品だと分かるものを買い取る店があるのか?」


「もちろん、古物商も盗品だと分かっていたさ。でも、買い取らざるを得なかったんだよ。もしも自分以外の邪な古物商の手に渡ったら、国宝が永久に行方不明になってしまうかもしれないって」


「国宝?」


「鈍いな四短。この形、よく見ろ。ヒュギエイアの杯だ。王様が香薬の種を生成する杯。それにそっくり、よく似た杯が、あの古の王墓の壁に隠されていたんだよ!」


エンリケは鼻息も荒く叫び、ルイシュの両肩をつかんで揺さぶった。ルイシュはため息をつき、彼の手を払った。


「ヒュギエイアの杯なんて、大昔からよくあるモチーフだ。単なる類似品だろ。ちゃんと調べろよ」


「調べたくても、できないんだよ。古物商が王宮に伝手ツテのある知人に相談したら、何と、その杯を買い取りたいと王妃様から申し出があって、王妃様へ引き渡したんだと」


「王室でなく、王妃殿下が個人的に買い取ったってことか?」


違和感を覚え、ルイシュは問いただした。


「そう聞いた。古物商が相談した知人ってのが、王妃様の妹君で、それで王妃様個人へ話か通ったらしい」


王妃の妹といえば、マガリャンイス伯爵夫人フランシスカだ。昨夜、アマリアは彼女に連れられて王宮へ来ていた。血の気が引き、目眩がして、ルイシュは額を抑えた。エンリケは構わず続けた。


「本物のヒュギエイアの杯を近くで目にしたことのある方々が、ただの類似品ではないと判断して買い取った、それは間違いないんだ。僕はこれから王妃様のところへ行って、杯を見せてもらおうと思ってる。君も一緒に来て、口添えしろ。元はと言えば君のせいなんだからな。たしか君、王様と親しいんだろ?」


「俺は今、それどころじゃない」


ルイシュはアマリアからの手紙を握り直した。一刻も早くアマリアの無事を確認したい。悪い予感も胸騒ぎも、すべて杞憂だったと確信したい。危ないことをするなとアマリアを叱って、ごめんなさいとヘラヘラ笑う顔を見たい。そのためなら何だってする。


それに、ルイシュはアマリアに「真実をすべて話す」と誓った。約束を交わした時、肩がすっと軽くなるのをルイシュは感じた。本当はずっと、アマリアに何もかも打ち明けたかったのかもしれない。


「おい、四短、大丈夫か? 顔色めちゃくちゃ悪いぞ?」


エンリケが困惑顔で尋ねた時、大きく育ったブラジルヤシの葉の向こうで何かが動いた。

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