11.女教皇の下僕たち

「アマリア、おい、アマリア!」


何者かに肩を揺さぶられ、アマリアは目を開けて半身を起こした。暗く狭い部屋の小さなベッドに寝かされ、窮屈な夜会服から寝巻きのようなドレスに着替えさせられていた。


室内には簡素な机と椅子とベッドがあるばかりだった。机の上には燭台と水差し、下には蓋つきの寝室用便器チャンバーポットが置いてある。


「大丈夫か? 痛いところはないか?」


燭台のロウソクの火が揺れ、アマリアを起こした男の顔を照らし出す。エウゼビオだ。


「エウさん、ここ、どこ?」 


アマリアは状況を飲み込めないまま、記憶を手探りした。王宮へ来て、ルイシュと王女に遭遇し、エウゼビオの弟たちに絡まれているところをオリオンに助けられて、そして、彼女に何かされたのだ。その後の記憶がない。


「ごめんなさいね。痛くないようにしたつもりだけど、具合はどう?」


闇の向こうからオリオンの声がして、アマリアは目を凝らした。まったく気配のなかったその人は、ドアの前の暗がりに立っていた。


「ねえ、これ、何なの?」


アマリアはエウゼビオの礼服の胸倉を両手でつかんだ。


「ごめんな、驚いただろ。手荒なことはしたくなくて、色々と考えたんだけど、どれも失敗して」


エウゼビオの応答はまったく要領を得ない。アマリアはベッドから降り、閉ざされた窓に向かった。木製の鎧戸を開けると、満天の星の下に緑に囲まれた王宮が見下ろせた。窓から顔を出して上を見上げ、下をのぞき込み、ここが白い円塔の5階だということが分かった。


「ここは“星見の塔”だ。王宮の敷地のはずれにある。今はほとんど使われていない」


背後のエウゼビオが説明した時、王宮内の林を横切り、こちらへやってくる人影が見えた。服装や背格好からしてマガリャンイス伯爵夫人フランシスカだ。彼女の左右にはランタンを持った侍女と、蓋つきの木箱チェストを抱えた侍女が付き従っている。


フランシスカたちが塔の階段を上ってくる足音が近づくと、オリオンはドアを開けた。狭い部屋に入ってきたのはフランシスカだけだ。侍女に持たせていたチェストはオリオンが受け取った。ドアが閉まると、エウゼビオ、フランシスカ、オリオンが一斉にアマリアを見た。


「アマリア、ちょっとした実験に付き合ってもらおう」


伯爵夫人は強張った表情で切り出し、オリオンの抱えるチェストの蓋を開けた。そこから取り出されたものは上等な布にしっかりとくるまれていた。フランシスカが慎重に布を解くと、金の蛇の絡みつく青銅の杯が露わになった。


「ヒュギエイアの杯ですか?」


美しい宝物に心を奪われつつアマリアが問うと、フランシスカは苦笑した。


「あれは私などが勝手に扱えるものではない。本物のヒュギエイアの杯は厳重に守られていて、国王、宰相、大司教が持つ3つの鍵がそろわないと取り出せない」


「じゃあ、それは」


「これはおまえの後見人が見つけた古の王の墓から出てきたものだ。ヒュギエイアの杯によく似ているが別物で、私たちは仮に“サルースの杯”と呼んでいる。サルースとは、ギリシア神話において健康を司る女神ヒュギエイアの別称だ。持ってみろ。それですべて分かる」


フランシスカはアマリアの右手をつかみ、青銅の杯の脚を握らせた。ひんやりと冷たい。けれど、全身の血がたぎるような不思議な感覚を覚えた。両手で持っても重い。ボウルの中は空だ。


「その蛇の眼、美しいだろう? 何だか分かるか?」


伯爵夫人に問われ、アマリアは杯を目の高さまで持ち上げてじっくりと見た。2300年前の古代文明の遺物はアマリアが普段愛用している食器より数万倍も精巧だった。杯の脚に巻きつく艶かしい蛇の両眼には赤い宝石が輝いていた。


「いえ、分かりません」


アマリアが顔を上げた時、杯の中に何かがころころと転がり込む音がした。まるでサイコロをいくつか投げ込んだような軽やかで甲高い音だった。アマリアは杯の中を覗いた。


そこにあったのは5つの、無色透明の飴玉状の物質だった。見慣れた香薬の種だった。


「アマリア、見せろ」


杯を引ったくるように取り戻し、フランシスカは杯の中へ指を差し入れる。


「見た目は香薬の種だな」


伯爵夫人は細い指で香薬の種を1粒つまみ、傍らのオリオンへ手渡す。オリオンはそれを口に含み、己の鼻先を指で触った。


「鼻の通りが良くなりました。香薬の種だと思います。一般的なものより少し大きいようですが」


「生成したばかりだから大きいんだ。種が協会へ納品されるのは生成の翌日、それが香薬屋へ卸されるのは、さらに数日後だから、巷に流通している種は昇華して小さくなっている」


フランシスカは興奮気味に説明し、それから満足そうにアマリアを見下ろした。


「おまえは自分を両親の分からぬ孤児だと思っているようだが、香薬の種を生成できるということは、出自にふたつの仮説を立てられる。ひとつは単なるルシタニア人の末裔。もうひとつはジョアン6世の血を引く者。私は後者だと思う」


世間話のような口調で告げ、フランシスカはサルースの杯をチェストに戻した。


「私が、ジョアン6世の子孫……?」


突拍子もない話に、アマリアは茫然としていた。


「そうだ。さらに言えば、私や姉は以前からこう考えている。おまえは国王と前王宮香薬師コンスタンサ・フェレイラ・ディアスの娘だと。確たる証拠はないし、健気に真実を隠し続けてきたルイシュ・ダ・コスタは否定するだろうがな」


暗い笑い声を立て、フランシスカはチェストを抱えてドアへ向かう。


「明朝までこの部屋にいろ。おまえには私たちとともにジュネーヴへ来てもらう。このサルースの杯とおまえがそろえば、女教皇猊下のご病体を香薬で癒して差し上げることができる」


「ジュネーヴ? 待ってください、意味が分かりません! 何かの間違いです!」


アマリアはようやく我に返り、部屋を出ていくフランシスカを追いかける。それを横から止めたのはオリオンだった。女傭兵はアマリアを優しく抱きしめ、フランシスカは侍女を伴って螺旋階段の下方へと姿を消した。


「あなたみたいないい子が、可哀想に。でも、心配しなくて大丈夫」


オリオンは淡々とした口調で言った。


「あなたが協力すれば、フランシスカ様も手荒なことはなさらないはずよ。それに、あなたが殺されることは絶対にない。あなたには大きな価値があるんだもの」


「殺されることはない……?」


それはアマリアが生まれて初めてかけられた言葉だった。


「そうよ。でも、殺された方がマシだと思うようなことも、この世にはあるわ。フランシスカ様にも、女教皇猊下にも、くれぐれも従順でいることね」


オリオンはアマリアに助言を授け、フランシスカを追って退室した。女傭兵が螺旋階段を駆け下りていく靴音を聞きながら、アマリアはその場にへたり込む。石の床は冷たかったが、立ち上がる気力はない。何が起こっているのか、まったく理解できない。


「そこは冷えるだろ。こっちへ座れよ」


エウゼビオはアマリアを立たせ、背もたれのある椅子に導いた。彼は机上の水差しからガラスの杯へワインを注ぎ、それをアマリアへ手渡す。震える手で杯を口まで持ち上げ、甘いポートワインをのどに流し込むと、ようやく声が出せた。


「これ、夢だよね?」


疲れた日にときどき見る、説明のつかない奇妙な夢。これはきっと、それだ。


「違う」


エウゼビオは苦しげに言った。


「じゃあ、私のこと、みんなでからかって遊んでる? そうじゃなきゃ、おかしいよ。絶対におかしい」


エウゼビオは今にも泣き出しそうな顔になり、アマリアを固く抱きしめた。


「アマリア、ごめんな。でも、大丈夫だ。俺が絶対におまえを守る」


エウゼビオの言葉を聞く限り、彼はすべてを知っていたのだろう。アマリアは騙されたとも裏切られたとも思わなかった。ただ、目の前のよく知ったアニキが、まったく知らない他人以上に怖かった。


「私、どうなるの?」


「俺たちはジュネーヴへ向かう。ジュネーヴに着いたら、アマリアは女教皇猊下のために香薬の種を生成し、香薬を焚くんだ。猊下はリウマチと、その治療に用いてきたアヘンのせいで心身を蝕まれ、もう長くないと言われてる。猊下が亡くなるまでの数年間、その苦痛を和らげて差し上げることを、猊下ご自身も、王妃殿下やフランシスカも望んでる。すべて終わったら、またポルトに帰って来られる」


医師が鎮痛剤として処方するアヘンは副作用が大きく、アヘン中毒により心身に異常をきたすリウマチ患者は少なくない。一方、香薬師の処方する鎮痛剤はほとんど副作用がないため、患者の負担が圧倒的に少ない。


「あのサルースの杯はコスタ大臣が発掘している王墓から出土したんだ。失業者が遺跡の壁を破壊してニュースになっただろ。その壁の中に埋め込まれていたらしい。壁を壊した奴がこっそり古物商へ売ったものを、巡り巡って王妃殿下が入手され、女教皇猊下へ献上されることになったんだ」


「不正に入手したポルトゥカーレの宝物を、私というオマケを添えて女教皇様にプレゼントする、そういうこと? 王様はご存じなの?」


「国王陛下はご存じない。だが、アルメイダはすべて知ってる。今朝、アルメイダがおまえを養子にすると言い出したのは、穏便におまえを連れて行くにはそれが一番いいだろうと王妃殿下がおっしゃられたからだ。突然におまえが姿を消したら、コスタ大臣はどんな手を使ってでもおまえを探すだろうから。オリオンがあの場にいたのは、アルメイダが王妃殿下のシナリオ通りに事を進めているか見張るためだ」


「じゃあ、エウさんが私に求婚したのも?」


「そうだ。結婚するという名目でおまえを連れて行けたら好都合だし、俺の配偶者ならジュネーヴでもそれなりに遇されて、危険な目に遭うことも少ないだろうと思った」


「どちらも失敗したから、私を舞踏会に連れてきた、ってわけ? そして、弟さんたちに私を襲わせ、それを助けたオリオンさんが私をここに運び込んだ、そういうこと?」


「弟どものことは計算外だ」


アマリアはエウゼビオの身体を押し退け、椅子から立ち上がる。開け放たれた窓に寄って新鮮な空気を吸い込み、深いため息を吐き出す。


「女教皇様はお気の毒だと思う。治る見込みのない、進行するばかりの病と闘って、アヘンに蝕まれて、お辛いだろうとは思う。でも、本当に私に種を生成する力があるなら、私がすべきことは種をたくさん生成して、たくさんの人が治療を受けられる体制を整えることであって、ジュネーヴへ行って女教皇様おひとりを治療することではないと思う」


きっぱりと言いながら、アマリアはルイシュの言葉を思い出していた。生成数減少により香薬の種の価格が高騰している問題について、彼は「手っ取り早く確実な解決策を知っていながら黙っている奴がいる」と言っていた。解決策とは、アマリアに香薬の種を生成させることだったのだ。


「それに、わざわざ私をジュネーヴへ連れて行かなくても、女教皇様に香薬の種をお譲りすれば済む話じゃないの?」


「もちろん、教皇庁が王室へ種の輸出を求めたことはある。だが回答は否。だから女教皇猊下はずっと密輸者から香薬の種を買い取って、モグリの香薬師の治療を受けておいでなんだ」


そんな場合ではないのに、アマリアは内心で笑ってしまった。ルイシュが追っていた密輸犯の取引相手、それはジュネーヴの女教皇だったのだ。


「でも、種はジュネーヴへ届く頃にはほとんど昇華して、葡萄の種より小さくなっているんだと。それじゃあ質も量も日々の治療には不十分だ。生成したての香薬の種を使って、毎日、猊下に最良の治療をして差し上げたい、王妃殿下やフランシスカはそう考えてる。モグリの香薬師じゃなく、香試をパスした本物の香薬師による治療をな」


「私はジュネーヴなんかには行かない。それに、ポルトゥカーレが種の取引に応じなかったからって、もうひとつ同じ杯が見つかったからって、それを誰かの独断で国外へ持ち出すのは間違ってるよ」


「アマリア、おまえの言ってることは正しい。でも、おまえに選択肢はないんだ。オリオンの言っていたとおり、おまえがサルースの杯で種を生成できる限り、おまえが殺されることはない。でも、おまえが彼らに従わなければ、彼らは命だけを残して、おまえから何もかも奪うと思う。あの人たちなら、きっと、躊躇もなくそういうことをする。そして結局、おまえの身体はジュネーヴへ運ばれることになると思う」


脅迫にしてはエウゼビオの声は弱々しかった。


「真偽は分からないが、王妃殿下もフランシスカも、おまえを国王陛下の庶子、しかもコンスタンサさんとの間に生まれた娘だと思ってる。“トライアングロ”のせいで、王妃殿下はコンスタンサさんを目の敵にしてた。ピンとこないかもしれないけど、おまえは、あの姉妹にとって憎悪の的なんだよ」


「そんなの私、知らない」


自分のあずかり知らぬところで他人から憎まれ、利用されようとしている。あまりの理不尽さに涙が出て、声が詰まり、アマリアは歯を食いしばった。エウゼビオはアマリアに近づき、子供の頃と同じ優しい仕草で、そっと妹分の頭を撫でた。


「大丈夫、ほんの数年間だけだ。従順にしていれば、きっと丁重に扱われる。女教皇猊下の治療をする以外は自由に過ごせるだろうとフランシスカは言っていたから、香薬の研究に没頭してもいいし、ジュネーヴの宮殿図書館の蔵書を読み漁ってもいい。許可が下りれば宮殿の外を散策することもできるかも。そうだ、ジュネーヴは冬になったら雪が降るんだ。真っ白で冷たくて、それがたくさん積もると、あたりは静かになって、とても美しいそうだ」


アマリアを慰め、エウゼビオは右手の小指を差し出した。


「俺も5年はジュネーヴにいる。必ず無事にポルトへ帰すと約束する」


エウゼビオはそう言ったが、彼とて無事に祖国へ帰れる保証はない。自分が一緒に行けば、もしかしたら彼の役に立てるかもしれない。脅迫され、相手の言いなりになるしかない状況で生まれた前向きな思いつきに、アマリアは少しだけ励まされた。


「私がジュネーヴに行ったら、私の患者はどうなるの?」


アマリアはエウゼビオの小指を払い除け、自分の掌で頬の涙を拭いた。


「ポルトには他にも香薬師がいるよ。貧しい人たちにタダで治療してくれる香薬師も、探せばきっといる。いざとなったら、コスタ大臣があの店を切り盛りするんじゃないか? あの人も香薬師の免許を持ってるしさ」


妹分を元気づけたかったのか、エウゼビオは冗談めかして言ったが、アマリアは全く笑えなかった。


「このまま私がいなくなったら、ルイシュさんはすごく心配すると思う。少しでいいからルイシュさんに会わせて。まだ王宮にいるかも」


忽然と姿を消せば、ルイシュはきっとアマリアを探し回るだろう。彼は心の底からアマリアの幸せを願ってくれている人だ。彼が胸を痛めるような事態だけは避けたかった。


「コスタ大臣に会わせることはできない。考えてみろよ。コスタ大臣がおまえの窮状を知ったらどうするか。あの人のことだ、おまえを助け出すために無茶をして、女教皇猊下や王妃殿下やフランシスカの反感を買うに決まってる。あの人たちはアマリアのことは殺しはしないが、コスタ大臣についてはその限りじゃない。彼を危険に巻き込みたくない、そう思わないか?」


アマリアは両手で顔を覆った。悔しいが、エウゼビオの言うことは一理あると思った。ルイシュを危険な目に遭わせたくない。


「書くものを用意するから、コスタ大臣宛に手紙を書いてくれ。自分の意思で旅に出る、心配は要らない、探さないでほしいってな」


エウゼビオはアマリアに背を向け、部屋のドアを開けた。その時、アマリアは彼の背中に向かって机上の燭台を投げつけた。何も考えていなかった。ただ、こんな事態になったことに気持ちが収まらず、それを誰かにぶつけたかった。


王宮護衛隊のエースは目にも止まらぬ速さで背中の長剣を抜き、その白刃で飛んできた燭台を跳ね返した。火の消えたロウソクと燭台が分離し、アマリアの足元に落ちた。梨のつぶてと分かってはいたが、アマリアは燭台を拾い上げて再びエウゼビオの顔に向かって投じた。彼は今度は微動だにせず、銀製の燭台が褐色の右頬に直撃した。


「本当にすまないと思ってる」


星明かりが滲む暗闇の中で、エウゼビオはロウソクと燭台を拾い上げ、それを机の上に置いた。彼の右頬には小さな擦り傷が出来ていた。エウゼビオがドアの向こうに姿を消すと、ドアの外から重々しい錠を下ろす音が聞こえた。

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