14.彼の故郷

アマリアがポルトを連れ出されて1日半が経った。日中はずっと馬車に揺られ続けている。同乗しているのはオリオン、教皇庁のふたりの僧兵、そして屋根の上の鳩舎きゅうしゃの鳩たちだった。


ジュネーヴへ行くと聞いた時、ポルトの港から船でジェノヴァへ向かい、そこから陸路を進むのだとアマリアは思っていた。不思議に思っていると、オリオンが淡々と説明してくれた。


「8月13日にコンポステーラで聖スアデラの祝祭があるでしょ。私たちはその祭典に出席しなければならないの。正確に言うと、出席なさるのは私たちが警護している教皇庁の要人だけどね」


雑木林を貫く巡礼路を、列をなして行く馬車は5台。オリオンの言う“要人”はその2台目に乗っている。エウゼビオやフランシスカの馬車は3台目、アマリアの馬車は4台目だ。いずれも四頭立ての馬車で、キャビンには教皇庁の紋章が描かれている。


同行している教皇庁の面々とアマリアが関わることはほとんどなかった。昨夜、アマリアたちは小さな村の領主の館の世話になったが、“要人”は白銀の夜明け団の傭兵や僧兵を伴って巡礼宿に泊まった。日中の移動の合間に休憩をとる際も交流はない。そもそも彼らは教皇庁の公用語であるラテン語を話しているので、ポルトゥカーレ語しか話せないアマリアとは言葉が通じない。


「どうしたのかしら」


そう言ってオリオンがキャビンのシートから腰を上げたのは西の空が黄色に染まり始めた頃だった。馬車が急に止まったのだ。オリオンは窓から顔を出し、前方へ向かってラテン語で何か叫んだ。何があったのか問うているようだった。


先頭の馬車にはオリオンの同僚が乗っている。そのひとりがオリオンを手招いた。彼女はドアを開けて馬車を降り、屋根の上の鳩舎を一瞥してから先頭の馬車へ向かった。鳩舎からは激しい羽音が聞こえていた。


数分後、オリオンは険しい表情で戻ってきた。


「この先の橋が落ちて通行不能らしいの。迂回しなければならないんだけど、そちらの道は物騒なことで有名なんですって。もうすぐ日が暮れるし、来た道を戻って、さっき通り過ぎた大きな町で宿を探すことになったわ」


説明しながら馬車に乗り込むオリオンの黒髪には微細な水滴がついていた。霧のような雨が舞う中、馭者たちは馬車馬の手綱を引き、馬車の方向転換を試みる。


「鳩たちが妙に騒ぐわね」


オリオンが天井越しに鳩舎を見上げた時だった。6発の銃声と馬のいななきが辺りに響いた。


「伏せて!」


オリオンはアマリアをキャビンの床に押し倒した。同乗している僧兵のひとりが窓の端から外をのぞき、オリオンに何か報告する。再び2発の銃声が響いた。さっきより数が少ない。雨で火薬に点火できなかったからだろう。オリオンはアマリアへ早口で言った。


「この手口、おそらく盗賊団だわ。馬を撃って逃げられないようにして、旅人を襲って金品を奪うの。あなたはここに隠れていて」


女傭兵はシートの座面を取り外し、それを盾のように持って霧雨の中へ飛び出す。アマリアはおそるおそる窓から外を覗いた。オリオンは手にしたシートで身を隠しながら剣を構え、2台目の馬車の下に倒れている人影へ駆け寄った。銃創を負い、血を流している男だ。


他の馬車からも僧兵が何人か下りてきて、狙撃者がいるであろう方角へ教皇庁の紋章入りの盾を向ける。


アマリアがポルトの外に出たのは今回が初めてだ。恐怖と好奇心に駆られながら盗賊団の姿を探したが、現れたのは騎乗した兵士の集団だった。彼らの持つ盾には見たことのある家紋が描かれていて、アマリアは目を疑った。2匹の魚と帆船が描かれた家紋はコスタ家のものだ。


狙撃は止み、同乗している僧兵がホッとしたように何かつぶやいた。オリオンは剣を鞘に収め、大股で馬上の兵士たちへ歩み寄った。兵士のひとりが馬を降り、オリオンは彼といくつかの言葉を交わす。そこへ教皇庁の僧兵も加わり、やがて話が終わると女傭兵はエウゼビオやフランシスカの乗る馬車へ真っ直ぐ向かった。


「フランシスカ様、彼らの城で夜を明かすよう申し出を受けました。馬が7頭やられ、今から長距離を移動するのは困難です。いかがしましょうか?」


小雨の降りしきる中、オリオンは馬車の窓越しにフランシスカに尋ねた。


「領主の城?」


フランシスカは弱々しい声で言った。巡礼路で盗賊に襲われて平気でいられる貴婦人などいないだろう。下町で暮らすアマリアの方が荒事には慣れているかもしれない。


「はい。彼らはコスタ子爵家の兵です。巡礼路の見回りをしていて、偶然に我々を見つけたそうです。当主はルイシュ・ダ・コスタの兄だそうです」


オリオンの補足に伯爵夫人は嘲笑した。


「オリオン、おまえ、我々がコスタ家の領地で襲撃され、コスタ家の兵が我々の前に現れたことを偶然だと思っているのか? ルイシュ・ダ・コスタがアマリアを取り返そうと手ぐすねを引いている。それ以外の可能性は考えられない。無傷の馬をこの馬車につないで、私たちだけで町へ行こう」


神経質そうなフランシスカの声を聞きながら、アマリアの心は浮き足立った。遠く離れたポルトにいると思っていたルイシュがもしかしたら、すぐ近くにいるかもしれない。


「できません。他の馬車の移動に支障が出ます。道中で日が暮れれば、それこそ盗賊の標的になります。彼らの申し出を受けるべきかと」


決断しかねているフランシスカにオリオンは冷静に続けた。


「短気で短慮という噂のコスタ大臣とはいえ、女教皇猊下やルシア王妃殿下を正面から敵に回すようなことはしないでしょう」


オリオンの推測はもっともだとアマリアは思った。ルイシュは失敗に躊躇しないが、無謀ではない。そうであってほしい。アマリアのためにルイシュの身に危険が及んだり、彼の立場が悪くなるようなことだけはあってはならない。


「それに、もし彼らがアマリアを奪還するつもりなら、あの兵士たちはここで満身創痍の我々をすでに制圧しています」


フランシスカは渋々と頷いた。


「何か他の目的があるということだな。アマリアとサルースの杯から目を離すな。オリオンかエウゼビオのどちらかが必ず見張れ。それから、おまえたちは出された水や食事に手を付けるな」


オリオンはフランシスカに一礼し、コスタ子爵家の兵へ彼女の意向を伝えに行った。僧兵や馭者たちは負傷した馬から馬具をはずし、応急手当を始めている。出発まではまだ時間がかかりそうだ。


アマリアは王宮を出る時に修道女の服を着せられた。そのスカートの下には私物である革製のポケットを装着していて、携帯用の商売道具が入っている。振り香炉へ薬草を詰め、アマリアは馬車を降りた。


「どこへ行く? 逃げる気か?」


横からフランシスカの鋭い声がして、アマリアはむっとした。彼女は自分の馬車のシートにゆったりと座り、旅行用のティーセットでお茶を飲んでいた。その隣に座っていたエウゼビオがキャビンを降りてくる。黒い旅装姿だ。


「逃げません。怪我人を治療するだけです」


アマリアが逃げないのは、逃げた後のことが見えないからだ。のこのこと自分の店に帰ればいずれまた捕まるだろう。ルイシュや孤児院へかくまってもらえば彼らに危険が及ぶかもしれない。ポルト以外のどこかへ逃げる手も考えたが、仕事や人間関係をすべて捨てなければならない。アマリアは香薬師ではない自分の姿を想像できなかった。


サルースの杯を壊すことができれば、アマリアには価値がなくなる。そのことに気がついて、王宮を出る時に一度だけ試みたが、固い石畳に落ちた杯にはヒビひとつ入っていなかった。あの青銅の杯は簡単には壊れない。燃え盛る炎の中に放り込むか、もしくはフランシスカの目の前で海に投げ込むか。それが不可能なら、ジュネーヴで数年を過ごし、女教皇が死去した後にポルトへ帰るという筋書きに従うしかない。


「大丈夫ですか? 傷を見せてください」


アマリアは巡礼路の石畳に座り込んでいる負傷者に声をかけた。2台目の馬車の馭者だ。ゲルマン系の顔立ちの中年の男はラテン語で何か言いながら、自分の右の太腿を指した。見たところ傷は浅い。コスタ子爵家の兵がウィスキーや止血布を分けてくれたので、それで傷口を洗って手当し、アマリアは彼に振り香炉を見せた。


「私は香薬師です。香薬って分かりますか?」


中年の馭者は痛みに顔をしかめつつ、怯えた目で首を振った。ポルトゥカーレに香薬という治療方法があることは、欧州の人々の間では何となく知られているらしいが、彼らにとっては古臭い民間療法や迷信やまじないのような怪しげなものなのかもしれない。


「大丈夫、私を信じてください。これから香薬を焚きますから、これを口に入れて。飲み込まないで、舐めるだけです」


アマリアは身ぶり手ぶりを交えて説明し、葡萄の種サイズの香薬の種をいくつか馭者に渡す。背後でそのやり取りを見ていたエウゼビオが馭者に通訳と説得をしてくれた。


やがて馭者がおっかなびっくり種を口に入れたので、アマリアは香薬を焚き始めた。止血・化膿止め・鎮痛・解熱の効果のある香薬だ。しばらくすると馭者の表情は安らかなものになった。


治療が終わった頃、出発の準備ができた。空は紫色に染まり、雨雲の合間から明るい星が見えていた。もともと四頭立てだった馬車は三頭立てや二頭立てになり、子爵家の兵の先導で走り出した。負傷した馬たちは子爵家の兵が後から連れてきてくれるという。


雑木林の中の舗装路を20分ほど駆け、コスタ子爵家の城に到着したのは21時を過ぎた頃だった。太陽は没し、雨はやみ、雲が晴れ、空には星々が瞬いていた。


城は湖の中の島にあった。島へかけられた石橋は馬車がすれ違えないほど細い。無数の松明で照らされた城は堅牢で、いかにも国土回復運動レコンキスタで活躍した中世の砦という趣だ。


島へ渡り、城門をくぐり、城のエントランスでアマリアたちは馬車を降りた。


「ここ、コスタ大臣の生家なんだよな」


エウゼビオが言った。


「うん」


アマリアは短く答えた。まだ彼とまともに話す気分にはなれない。


「ようこそ、お待ちしていました」


早馬の報せを聞いていたのだろう、城の人々は快く客人を出迎えた。フランシスカとその侍女が城内へ足を踏み入れ、アマリアもエウゼビオに促されてその後に続いた。背後を顧みると、オリオンはサルースの杯の入ったチェストを抱え、同僚と何か相談事をしていた。


エントランスホールの中央に立つ壮年の男を見て、エウゼビオはアマリアに耳打ちした。


「あの人がコスタ子爵。コスタ大臣の一番上のお兄さんだ。拝星教徒との戦争の時には俺の上官だったんだ」


コスタ子爵はどことなくルイシュに雰囲気が似ていた。胴の長さも同じくらいだ。彼とフランシスカは歓迎の言葉と御礼の言葉を形通りにやり取りした。挨拶が終わると、子爵はエウゼビオへ目を向けた。


「エウゼビオ、久しぶりだな。出世したらしいじゃないか」


気さくに微笑み、子爵はエウゼビオと軽く抱擁した。エウゼビオは自分の子供時代を知る相手へ嬉しそうにはにかんだ。


「閣下、ご無沙汰しています。ご壮健そうで何よりです」


「閣下はやめてくれ。おまえも今や子爵だろう。いずれは家督を継ぐとルイシュから聞いてるよ」


柔和な表情で笑い、コスタ子爵はアマリアへ目を向けた。そのルイシュによく似た眼差しにアマリアはどきりとした。


「エウゼビオ、こちらのお嬢さんは?」


アマリアは黙ってお辞儀をした。エウゼビオがルイシュの兄へどんな言葉でアマリアを紹介するのか見ものだ、と意地悪く思ってしまう。


「えっと、彼女は……俺の婚約者のアマリアです」


エウゼビオは口ごもった後に苦し紛れの嘘を述べた。未来の伯爵夫人が修道女の服を着ているなんて明らかにおかしいだろうとアマリアは思ったが、コスタ子爵はにこやかに応じた。


「そうか、婚約したのか。おめでとう」


子爵はアマリアに丁寧なお辞儀を返し、右手を差し出す。アマリアが自分の手を差し出すと、彼はその手の甲にキスをした。


「エウゼビオは私の命の恩人なんですよ。どうぞお幸せに」


ルイシュによく似た、彼の100倍は優しい笑顔だった。アマリアの背中には滝のような汗が流れていた。


子爵がアマリアの手を離した時、エントランスホールの奥から小柄な女性が歩いてきた。薔薇のように華やかで気品のあるその人から、アマリアは目が離せなくなった。


「私の母です」


子爵が紹介すると、彼女は客人に向かって淑やかに微笑んだ。ルイシュの実母は彼が11歳の時に亡くなっている。ということは、彼女は継母。12歳のルイシュが家出する原因になった人だ。そんな風には見えないし、むしろ、温かくて優しそうで、とても素敵な女性だとアマリアは思った。


彼女に続いて、若い娘が3人の女児を連れて現れ、子爵は相好を崩した。


「私の妻と娘たちです。他に4人ほど私の弟妹がいるのですが……あいにく、少々、取り込み中でして、また後程ご紹介します」


「皆様、お疲れでしょう。お部屋へご案内いたしますので、食事の用意ができるまで寛いでくださいね」


ルイシュの母はしっとりとした柔らかな声で告げ、客人を案内するよう使用人へ命じた。彼女の前を通り過ぎる時、彼女は小さな声で囁いた。アマリアにしか聞こえない声だった。


「お会いできて光栄です、閣下」

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