9.肖像画のホール

エウゼビオたちの足音が遠ざかると、王宮護衛隊の制服を着た中年の兵士がアマリアを案内してくれた。


足元に敷き詰められたすべすべとした大理石の上を夢見心地で歩き、いくつかの角を曲がる。やがて見たことのない白い花が咲き乱れる中庭にたどり着いた。


小さな噴水には蓮の葉が浮かび、暮れなずむ紫色の空を覆うようにナツメヤシの木が繁茂している。本の中で目にしたことのある珍しい植物を見つけ、アマリアは思わず庭へ飛び出した。香薬師のさがだ。


「私はここにいます。ごゆっくりお過ごし下さい」


そう言って王宮護衛隊の兵士は庭園の入口に直立した。彼の声を背後に聞きながら、アマリアはすでに庭の奥へと歩みを進めている。窮屈なコルセットや夜会服ボールガウンを着ていなければ、もう少し足取りが軽かったかもしれない。


様々な植物を眺め、匂いを嗅ぎながら、曲がりくねった小道にそって歩いていくと、背の低い木立の向こうに礼服を着飾った少年の顔が見えた。両手で青銅製の杯を抱え、透明な眼差しでこちらを見ていた。杯の脚には、なまめかしい金の蛇が絡みついている。ヒュギエイアの杯だ。


アマリアは足を止め、彼に何と挨拶すべか迷った。少年の方から何か言葉を発するかと思ったが、彼は微動だにしない。奇妙に思って目を凝らしてみると、それは生身の人間ではなく巨大な絵画だった。


アマリアは南国の植物の葉を手で避けた。絵は中庭に面した部屋の内壁に飾られていた。室内は無人だ。アマリアは吸い込まれるようにそこへ足を踏み入れた。


その薄暗い部屋は天井の高いホールで、四方の壁に大小さまざまの絵画が隙間なく飾られていた。そのいずれもが高貴な人々を描いた肖像画だった。


その時、アマリアはふと思った。今朝、香薬師協会本部の会議室へ、ルイシュは窓から訪ねてきた。それはあのコンスタンサの肖像画が外から見え、彼女の姿に引き寄せられたからではないだろうか。あの絵は会議室の入口の横に飾られていた。窓の外からよく見えたことだろう。数年ぶりに彼女の顔を見つけた時のルイシュの気持ちを思うと、アマリアの胸は締めつけられた。


勝手に入ったことを誰かに咎められるかもしれない。ふと我に返り、アマリアは中庭へ戻ろうと踵を返した。ところが、その中庭から若い娘の黄色い話し声が聞こえてきた。段々とこちらへ近づいてくる。


やましいことをしていたわけではないが、この状況を見ず知らずの何者かに弁明するのは少し面倒だ。誰にも鉢合わせることなく庭に戻る方法があればそちらを選びたい。アマリアは辺りを見回した。中庭側の入口の対角に、薄く開いたドアがあった。


「ルイシュ! これよ、これ! どう? 悪くないでしょ?」


アマリアがドアの向こうに隠れた瞬間、利発そうな娘の明るい声が肖像画のホールに響き渡った。


「ええ、私には絵の良し悪しは分かりませんが、よく描けているのでは?」


ルイシュという名のポルトゥカーレ人は多い。だが、興味なさそうに応じたのは、紛れもなくアマリアの後見人の声だった。


「何よ、その反応。マドリードから呼び寄せた画家の絵よ。もう少し、有り難がりなさい」


アマリアはドアの隙間からホールをそっと覗いた。濃紺の礼服を着たルイシュと、花模様の夜会服ボールガウンの娘が大きな絵の前に並んで立っていた。


アマリアには彼らの背中しか見えないが、黄金の額縁の中に描かれているのが国王一家だということは分かった。絵の中央に立つ男は王冠をかぶっていて、その右隣にフランシスカによく似た女が並んでいる。国王の左にはややふっくらとした身体つきの可憐な娘が描かれていた。


「殿下、私は今日は遊びにきたのではありません。そろそろ、ダンスホールへ行かなければ」


「もう少しいいでしょ。ルイシュには私と遊ぶ義務があるのよ。たまには義務を果たしなさい、義務を」


そう言って娘はルイシュの腕に自分の腕を絡めた。その横顔は肖像画に描かれた王女にそっくりだった。


「殿下、淑女のなさることではありませんよ。妙な噂が立てば、国境を越えて必ずご婚約者に伝わります」


ルイシュがやんわりとたしなめた相手の正体が分かり、アマリアは彼らから目が離せなくなった。王女はルイシュから身体を離し、22歳にしては子供っぽく駄々をこねた。


「別に構わないわ。婚約者と言っても、彼、まだ12歳なのよ。婿入りは数年先でしょ。それまでは私も恋人をつくってもいいと思うのよ。父上にだって結婚前は恋人がいたんでしょう? “トライアングロ”で観たわ」


「あのような陳腐で低俗な芝居、ご覧になってはいけません。誰です、殿下を劇場に連れて行ったのは?」


今日は非日常的なことばかり起こっている。そのせいで感覚がおかしくなっているのかもしれない。アマリアは舞台上の芝居でも見ているかのように、王女とルイシュを呆然と眺めていた。


「私がエウゼビオたちに無理やり連れて行かせたの。エウゼビオは途中で寝てしまったから結末を知らないのよ。あ、みんなを叱らないで。夜勤明けの非番の日だったんだから」


“トライアングロ”という芝居は、ある高名な香薬師の元へ3人の若者が弟子入りするところから始まる。ひとりは某国の王子。もうひとりは才色兼備の少女。最後のひとりは子爵家の令息。ともに学ぶうちに彼らは深い友情を育み、そして、ふたりの少年は少女に恋心を抱き始める。


やがて王子と少女は想いを通わせる。ところが王子には隣国の姫君という許嫁がいた。王子と少女は泣く泣く別れ、王子は許嫁と結婚する。


一方、子爵家の令息は少女に求婚するがあえなく振られ、少女と子爵家の令息は永遠の友情を誓い、いつか王となる王子を助けるべく、ある約束を交わす。少女は王宮香薬師を目指し、子爵家の令息は宰相を目指す、と。そして少女は生涯に渡って王子をひそかに愛し続けるのだ。


登場人物の名前は変えてあるが、王子のモデルが現国王、少女のモデルが前王宮香薬師のコンスタンサ、子爵家の令息のモデルがルイシュだということは観客の間では暗黙の了解だった。上演が始まった少し後にコンスタンサが病没したこともあり芝居は大ヒットし、ポルト市民にとって彼らは純愛や不滅の友情の象徴となった。


「ああ、私も一度でいいから、コンスタンサみたいな命がけの大恋愛をして、この身を焦がしてみたいわ。この際、相手はルイシュでもいい」


王女は両手を胸に当て、うっとりと天井を見上げる。艶やかな栗色の髪に差した銀の髪飾りが輝いた。


王女のさりげないアプローチに、アマリアは手に汗を握っていた。もしもルイシュがアマリアの目の前で権力になびいてしまったら、きっと5年は立ち直れない。三短の男は困ったように顔をしかめた。


「私は22年前、殿下のご誕生に立ち会ったんです。殿下のことは、不敬かもしれませんが、自分の娘のように思っています。私は一生、殿下の忠実な遊び相手ですよ」


ルイシュの返答を聞いて、アマリアはホッとしたが、同時に胸が痛くもあった。彼に振られたのは王女だというのに、なぜか自分が拒絶されたように錯覚していた。


「コンスタンサのこと、まだ愛してるの?」


王女は不満そうに唇を尖らせる。


「殿下のお父上もそうですが、彼女は私にとって、かけがえのない友人です。彼ら以上の友人には、きっともう生きているうちには巡り合うことはないでしょう」


数時間前に同じ質問をしたアマリアには「馬鹿を言え」と答えたルイシュだったが、王女に対しては柔らかな口調で説明した。相手は王女なのだから当然だ。頭では分かっていたが、後見人の別の顔を知ってしまったアマリアは、自分の気持ちが沈み込むのを止められず、気が付くと床にしゃがみこんでいた。


アマリアはルイシュのことを何も知らない。今、そこで王女と語らう穏やかな彼こそが本当のルイシュなのかもしれない。激しい嫉妬がとぐろを巻いてアマリアの胸を締めつけ、自分と彼の住む世界があまりにも遠いことを思い知る。


ふたりとも早くどこかへ行ってくれないだろうか。嵐が通り過ぎるのを祈るような気持ちでそう思った時、アマリアの夜会服ボールガウンのスカートの中に何かがもぐりこんだ。アマリアは驚いて飛び上がり、とっさにそれを蹴飛ばした。ネズミだと思ったのだ。それは宙に弧を描いて肖像画のホールへ飛んで行った。


「まあ、アルトゥール!」


王女の足元に着地したのは長毛の白猫だった。白猫は人間たちを威嚇しながら中庭へ逃走し、入れ替わるように「何事か」と王宮護衛隊の兵士3人と、侍女と思しき老女2人がわらわらと現れ、王女の身を守るべく彼女を囲んだ。ホールの外でずっと様子をうかがっていたのだろう。


怪訝な顔でアマリアの潜むドア裏へ近づいてきたのはルイシュだった。アマリアに逃げる手段や時間はなかった。


「おまえ、こんなところで何してる」


被後見人を発見したルイシュは呆れと怒りが混在した声で言った。アマリアはとりあえずヘラヘラと笑ってみた。


「話すと長くなりますけど簡単に言うと、マガリャンイス伯爵夫人のおともです。奥様は今、王妃様を訪ねておいでで、私はそこの中庭で待つように言われていたんですけど……」


「フランシスカ叔母様のおとも? ルイシュ、そちら、どなた?」


ルイシュの背後から興味津々の王女がアマリアを見つめていた。


「殿下、これは香薬師のアマリア・ディアス・エストレーラで、私が後見人を務めている元孤児のひとりです」


ルイシュはやけに緊張した面持ちでアマリアを紹介した。深々とお辞儀したアマリアの頭上で、王女は鈴を振るような声で笑った。


「まあ、あなたが。フランシスカ叔母様やエウゼビオから、腕利きの香薬師だって聞いてるわ。たしか、何年か前に20歳で香試に合格したのでしょ。私なんてもう3回も落ちているのに、大したものだわ」


初対面の元孤児に向かって、王女は屈託なく言った。彼女の底抜けの明るさや素直さがアマリアにはひどく眩しかった。両親や周囲の大人たちから愛情や尊敬を一身に受けて育った人間だけが持つ性質だ。アマリアには、逆立ちしても手に入らない。


「もったいないお言葉です」


アマリアは床を見つめたまま淡々と応じた。


「殿下、申し訳ございません。すぐにつまみ出します。――おい、アマリア、行くぞ。では、失礼いたします」


ルイシュは王女へ丁寧に詫び、アマリアの腕をつかんで中庭へ引っ張っていく。


「危険なことはするなと言ったはずだぞ」


南国の木々の間を進みながら、ルイシュは肩越しにアマリアを睨む。彼の冷たい手につかまれた腕が痛かったが、アマリアは王宮へ来ることになった経緯を説明した。ルイシュは狼狽したように表情を曇らせた。


「やはり何かおかしい。マガリャンイス伯爵夫人がそこまでおまえに執着する理由は何だ? それに、アルメイダのところにいたあの女傭兵が伯爵夫人とつながっているのも妙だ。今夜はもう帰るぞ」


「でも、ルイシュさん、お仕事で舞踏会にいらしたんですよね?」


「構わん。どうせ、いつもの顔ぶれのご機嫌をうかがうだけだ」


エントランスホールと中庭を結ぶ回廊に、アマリアを案内した中年の兵士が立っていた。ルイシュは彼にフランシスカへの伝言を託し、アマリアの腕を引いて急ぎ足でエントランスホールへ向かう。


「すみません、私のせいで」


「今さら反省しても遅い。黙って歩け」


小さな高窓から差す西日に大理石の回廊が真っ赤に染まっていた。ルイシュの声はいつになく固く強張っていて、アマリアの胸にも彼の緊張が伝染した。


「歩きます、歩きます。だから手を放してください、どこにも行きませんから」


「おまえのことはもう信用しない。自分の身に危険が迫っていることを自覚しろ」


アマリアの腕をつかむルイシュの指に力がこもる。


「ルイシュさん、痛いです」


彼は何を恐れ、何に焦り、何からアマリアを守ろうとしているのか。初めて会った時から、彼は何かを隠していた。アマリアはそれを分かっていて、彼を問い詰めることはなかった。ルイシュが自分の父親だと知るのが怖かったから、真実に触れる勇気がなかったから、その秘密をルイシュひとりに抱えさせてしまった。


アマリアは自分自身のふがいなさを初めて後悔した。つるつると滑る大理石の床の上で両足を踏ん張り、渾身の力でルイシュの手を振り解く。自分でも驚くほどの力だった。ルイシュも面食らったようにアマリアを見下ろしていた。


「私はルイシュさんに全幅の信頼を寄せています。私の人生を救ってくださったことを深く感謝しています。ルイシュさんには多くのものをいただきました。恩知らずなことばかりして、ご迷惑をおかけして、信用していただけないのも無理はないと思ってます。そんな私がこんなことを言うのは情けないほど身勝手で、おこがましいと分かってはいますけど」


ルイシュは唇をきつく結び、茶色の瞳を揺らしてアマリアを見ていた。


「あなたの心、私にも開いてください」


ルイシュの過去や自分の出生について知るのは怖い。けれど、知りうる限りのすべてを知りたいとも思う。これまで彼が味わった喜びも悲しみも、今、苦悩していることも、すべてだ。


「あなたが抱えているその秘密を、私にも持たせてください。記憶の中の死者でなく、あなたの目の前で心の底からあなたを想っている生者に、私に、打ち明けてください」


きっとルイシュは面倒くさそうな顔をするだろう。アマリアはそう思っていた。だが、彼は振りほどかれた自分の手をじっと見つめ、それから虚を突かれたような顔をアマリアへ向けた。


「俺は……」


ルイシュが重たげに口を開いた時、回廊の先から足音が聞こえた。現れたのは王宮の女官の制服を着た若い娘だった。


「コスタ大臣、国王陛下がお呼びです」


女官はルイシュの目の前までやってくると恭しく告げた。ルイシュは表情を引き締めた。


「陛下が、私をか?」


「はい。内密に、至急のご相談がおありだと、“王の庭”でお待ちです」


「わかった」


ルイシュは渋々と頷いた。舞踏会での社交しごとを放り出すことはできても、君主からの呼び出しを無視することはできない。


「ひとつ頼みがある。この娘をダンスホールまで確実に連行してくれ。ーーアマリア、俺が迎えに行くまで、絶対にダンスホールから出るな。何があろうと、誰に誘われようと、絶対にだ。さっきの話の続きは今夜、うちですべて話す」


女官に請い、アマリアに命じ、気の短い男は国王の待つ庭へと去っていった。

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