8.古の杯にまつわる話

ポルトの夏の日没は遅い。時計は20時を過ぎているが、空や町はオレンジ色に染まり始めたばかりだった。


アマリアは馬車に揺られていた。向かい合ったシートにはマガリャンイス伯爵夫人フランシスカが座っている。ポルトゥカーレ人よりはるかに白い肌をした33歳の貴婦人は、ほっそりとした身体を青いダマスク織の夜会服ボールガウンで包み、長い黒髪を後頭部で銀の髪飾りでまとめていた。


「少しは肩の力を抜いたらどうだ」


彫りの深い顔に呆れ笑いを浮かべ、フランシスカは女帝のような眼差しでアマリアを見下ろした。


「はい、奥様」


従順に頷いたものの、アマリアの緊張は全く解けない。まばゆい黄金で装飾された馬車は王宮に向かっているのだ。


「その夜会服ボールガウン、よく似合っている。私がポルトゥカーレに嫁いできた時に、初めて夫に仕立ててもらったものだ。とても懐かしい」


フランシスカが切なげに目を細めて見つめたのは、アマリアがまとう深緑色の夜会服ボールガウンだ。数時間前に伯爵家で着せてもらったもので、耳や首を飾る大粒の真珠も、足の甲にビロードのリボンのついた靴もフランシスカの持ち物だ。


「そんな大切なものを貸していただいて、いいんでしょうか」


アマリアの緊張はさらに募った。同時に、14歳の少女が愛用していた夜会服ボールガウンが入ってしまう自分の貧相な体型が悲しかった。


「いいんでしょうかと聞かれてもな。今更ここで脱がせるわけにもいくまい。もう私には着られないし、うちには娘もいない。べつに、汚しても構わない」


「ぜ、絶対に汚しません」


アマリアは固く誓った。伯爵夫人はおかしそうにそれを笑い、隣で象牙製の扇を使っている若い侍女に「もっとしっかり扇げ」と命じた。


「本当に気にすんなよ。俺も初めて見た。タンスの肥やしってやつだ」


アマリアの隣に座るエウゼビオは養母に同調した。黒い礼服姿の彼はいつになく暗い目をしていた。


「そうだな。私も久しく見ていなかった。衣装部屋から出したのは十数年ぶりだ。あの頃のことを思い出させるものには、あまり触れないようにしているからな」


伯爵夫人の表情がにわかに曇る。14歳でマガリャンイス伯爵家へ嫁入りした少女の数奇な半生については、エウゼビオから聞いたことがある。


フランシスカが結婚した時、夫には付き合いの長い愛妾と、エウゼビオという9歳の息子がいた。伯爵は妾の言いなりで、彼女とその息子に海辺の小さな家を与え、不自由のない生活をさせていた。


エウゼビオの父母が急死したのはフランシスカが伯爵家へ嫁いだ1年後だった。ふたりは密会の帰路で事故に遭った。10歳のエウゼビオは父親の屋敷に呼ばれ、初めて父方の親戚やフランシスカと対面した。


叔父たちはエウゼビオを伯爵家で引き取るべきだと主張した。だが、15歳の未亡人はそれを許さなかった。彼女に反対意見を述べられる者はおらず、10歳の少年は孤児院へ送られた。


エウゼビオはそれを甘んじて受け入れ、13歳までを孤児院で過ごした。妻を置き去りにして愛妾とともに死んだ父の罪深さは、子供ながらに理解していたという。


その後、マガリャンイス伯爵家の当主となったのはエウゼビオの叔父だった。彼は天然痘で妻を亡くしていた。前当主の喪が明けた頃、彼とフランシスカは再婚した。それから現在まで、彼らの間に実子はいない。


「奥様、申し訳ありません。私、一度お屋敷に戻って着替えます」


アマリアは伯爵夫人の半生に同情し、そう申し出た。この夜会服ボールガウンを目に映すたびに、フランシスカが悲しい思いをするというなら申し訳ない。


「そのままで構わない。それに、おまえが謝るな。着せたのは我が家の使用人だ」


フランシスカがじろりと睨むと、侍女は小さくなった。


「申し訳ございません。お身体に合うものがなかなか見つからなかったもので……」


「すみません、私が丸太みたいな体型なばかりに……」


ふたりの若い娘に謝罪され、フランシスカはため息をついた。


「もういい。ところで、アマリア。エウゼビオからの求婚、断ったらしいな。再考の余地はないのか?」


恐れていた質問が飛んできて、アマリアは身構えた。やはり、フランシスカは諦めていないようだ。しかし、たかだか元孤児の香薬師にここまで執着する理由が分からない。アマリアは隣で腕組みしているエウゼビオの顔をちらりと見上げた。彼は我関せずという表情で車窓を眺めている。


「何か条件をつけてくれても構わない。私は“母親”として、息子の望みを叶えてやりたい」


根拠はないが、アマリアにはフランシスカの言葉が白々しい嘘のように聞こえた。エウゼビオは女たちのやり取りが耳に入っていないかのように、じっと窓の外を睨んでいる。アマリアが見たこともないほど恐ろしい顔だった。


「私は一生、香薬屋を続けたいと思っています。伯爵家に嫁いだら、仕事を辞めなければならないですよね。ですから、私はエウさんと結婚できません」


これで引き下がってもらえなければ、「後見人に相談します」を使わなければならない。アマリアはフランシスカの黒い瞳をじっと見つめた。彼女は感情のない虚ろな目をしばし伏せ、それから容姿端麗な“息子”を見やった。


「残念だな、エウゼビオ」


「そうですね」


全く残念ではなさそうな声で応じ、エウゼビオは伯爵夫人を冷ややかな目で見下ろす。いつも明朗な彼らしくない。喧嘩でもしているのだろうか、とアマリアは思ったが、そもそも、このふたりが仲睦まじく会話しているところは見たことがなかった。彼らの因縁を考えれば、当然といえば当然か。


アマリアが内心で納得した時、馬車のスピードが急に落ちた。窓の外を見ると、前方に国土保安開発省の庁舎が見えた。ルイシュの職場だ。


「ここで連れを拾う」


フランシスカが告げたと同時に馬車が止まった。大通りに面する4階建の庁舎の前には教皇庁の紋章をつけた馬車が止まっていて、その傍らに背の高い人影があった。男物の礼服を身にまとい、腰に剣と短銃を帯びた美女だ。今朝、香薬師協会本部にいたオリオンという名の女傭兵だった。


彼女は両手で包み込むように鳩を抱いていて、鳩の足には小さな筒のようなものが付けられていた。伝書鳩だ。オリオンが両手を広げると、それはオレンジ色の大空を旋回して飛んでいった。


「オリオン」


伯爵夫人は馬車の窓越しにオリオンへ声をかけ、何か尋ねた。それは教皇庁の公用語であるラテン語で、アマリアに聞き取れたのは「ヌーシャルテル」「ワイン」「枢機卿」という単語だけだった。


女傭兵が馬車の馭者台へ飛び乗り、馭者が手綱を操ると、馬車は再び動き出した。


「あの方、奥様のお知り合いだったんですね。今朝、香薬師協会本部でお見かけしました」


フランシスカに尋ねながら、アマリアは目を凝らして庁舎の入口を見つめていた。もしかしたらルイシュがいるのではないかと思ったのだ。


「まあ、そんなところだ」


曖昧に答え、フランシスカはそれきり口を閉ざした。馬車はポルトの七つの丘のひとつ“王の丘”を登り、やがてその頂に建つ王宮に到着した。


11世紀に完成した築700年超の王宮の建築様式は中東の宮殿風だ。350年前までこの地を支配していたのが拝星教徒の王国だったからだ。土地を“奪還”したポルトゥカーレ人は異教徒の建てた宮殿を修繕しながら現在も使用している。


幾度となく領土争いの舞台となっただけのことはあり、大理石の建物の外壁には手の込んだ装飾はほとんどなく、砲弾や投石を食らった跡があちこちに残る。優美な王宮というより堅牢な城砦という印象だ。


アマリアは王宮の前庭で馬車を降り、エウゼビオやフランシスカとともになだらかな石段を上った。その後ろをオリオンと侍女がついてくる。丘の頂上は大西洋からの風が吹き、周りを豊かな緑に囲まれていたが、西陽が鋭く、背中にじわりと汗をかく。


「アマリア、ヒュギエイアの杯を見たことはあるか?」


糸杉の立ち並ぶ前庭を進みながら、フランシスカがにわかに口を開いた。ヒュギエイアの杯とは、王族が香薬の種を生成する道具だ。


「いいえ。私のような一介の香薬師がヒュギエイアの杯を見ることは、きっと生涯ありません。奥様はご覧になられたんですか?」


「一度だけ、国王陛下が見せてくださった。青銅製で、脚に金の蛇が絡みついている。なかなかに重いものだった」


ヒュギエイアの杯は330年前、古代文明の遺跡から発掘された。ルイシュが見つけてしまった古の王の墓と同じ紀元前4世紀の遺跡だ。それはイベリア半島の先住民ルシタニア人の築いた都市で、ローマ帝国に征服され滅びた。


ヒュギエイアの杯を発見したのはルシタニア人の末裔の歴史学者の夫婦だった。遺跡には杯の使い方や香薬の処方レシピが刻まれた石碑が遺されていた。夫が石碑を読み解き、妻が香薬の種を生成して香薬を焚き、彼らは人々を癒した。


医学とも薬学ともまったく異なる方法で病や怪我を癒す秘術はポルトで評判になり、多くの患者が夫婦の元へ集まったが、時は15世紀。噂を聞きつけた教会によって妻は裁かれ、魔女として火刑に処された。その後しばらくの間、ヒュギエイアの杯は夫とともに行方不明になっていた。


その80年後、ある公爵家へひとりの娘が輿入れした。彼女はヒュギエイアの杯を発見した学者夫婦の子孫だった。彼女は生まれつき病弱だった公爵家の末子と結婚し、密かに香薬によって夫を癒し、彼に90歳の大往生をさせたという。


ふたりの間に生まれた5人の子供たちには香薬の種を生成する力があり、それは子孫へ脈々と受け継がれた。その子孫のひとりがポルトゥカーレ国王ジョアン6世だ。魔女狩りの衰退が進むにつれ、香薬による治療は王侯貴族の間に広まり、その後は庶民の生活に浸透していった。


「私は時々思うんだ。ヒュギエイアの杯にまつわる話は、何者かによる創作なのではないかとね」


フランシスカは石段の途中で足を止め、夕暮れる空を見上げた。


「なぜ、そう思われるんですか?」


アマリアの問いに、フランシスカは不敵な笑みを白皙に浮かべた。


「防犯だ。香薬の種は高値で売れる。ヒュギエイアの杯を盗めば大きな富を得られる。そう考える不届き者は少なくないだろう。だが、“杯を扱えるのはジョアン6世の血を引く者だけ”という条件がつけば、話は変わってくる」


たしかに、とアマリアは思った。杯と王族の両方を我が物にするのは難儀なことだ。成功したとしても、王族が言うことを聞いて香薬の種を生成してくれるかどうか分からない。これまで杯が盗難に遭わなかったのは、そういった抑止力が働いていたからかもしれない。


「もちろん、香薬の種を生成できる人間と、そうでない人間はいる。私も杯を持たせてもらったが、種は生成できなかった。姉もだ。だが、国王陛下が杯を持つと、空の杯が溢れるほどの香薬の種で満たされた」


フランシスカは王女については触れなかった。ひょっとして、彼女も王女が香薬の種を生成できないことを知っているのかもしれない。王女の護衛であるエウゼビオも何も言わなかった。


「一度、全市民を集めて、ひとりずつ杯を持たせてみたいものだな」


フランシスカは冗談めかして笑い、再び歩き出す。オリオンと侍女がそれに従い、3つの細長い影がするすると石段を上って行った。


アマリアはなぜか立ち尽くしているエウゼビオの顔を見上げた。彼は黒い瞳に怒りをたたえて養母の後ろ姿を見つめていた。


「エウさん?」


アマリアが声をかけると、彼は焦燥したような表情でアマリアを促し、歩き出した。


「行こうぜ」


糸杉並木の先に王宮の入口が現れたのはまもなくだった。紅白の石でつくられた馬蹄形アーチが連なるエントランスには20名ほどの兵士が整列していた。そのほとんどがアマリアの香薬屋に通う顔見知りだった。アマリアとエウゼビオは彼らと微笑みを交わし、その横を通り過ぎた。


大理石のエントランスホールは薄暗く、ひんやりとしていた。武骨な外観とは裏腹に、柱や天井や壁には繊細な彫刻が執拗にほどこされ、まるでレースを重ね合わせて建てたようなつくりだった。


「アマリア、私とエウゼビオは姉と話がある。おまえは“中庸の庭”で待て。王族のプライベートなエリアにおまえを連れて行くことはできないからな」


フランシスカの姉とは王妃のことだ。彼女は臨月なので舞踏会を欠席するのかもしれない。


「はい、奥様」


「それから、私のことはフランシスカと呼べ。今夜に限って、私たちは親しい友達ということにしよう」


「はい、フランシスカ様」


フランシスカがホールの先にある回廊へ足を向けると、オリオンと侍女もそれに付き従う。てっきり、どちらかがアマリアと残ってくれると思っていた。不安が顔に出たのか、エウゼビオがアマリアの頭をぽんと撫でた。


「心配すんな。すぐ戻る。勝手にどこか行ったりするなよ」


疑わしそうな顔でエウゼビオに念を押され、アマリアは頷くしかなかった。

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