7.伯爵夫人の影
ルイシュの馬車が見えなくなると、アマリアはとぼとぼと店に戻った。エウゼビオは気まずそうな顔で店の入口に立っていた。5分前に求婚した男と、彼を振った女は真夏の日差しの下で目を合わせ、どちらからともなく、ヘラヘラとした作り笑いを顔に浮かべあった。
それにしても、まさかエウゼビオから求婚されるなんて。アマリアは孤児院時代のアニキをカウンターの椅子に導きながら、改めて彼の行動に驚いていた。これまで、エウゼビオから友情以上の何かを感じたことはなかった。
ケトルを
「コスタ大臣、例の遺跡の件、大変そうだな。今日の“ソル・ド・ポルト”の記事、読んだか?」
エウゼビオはカウンターに置かれた紫陽花の花束に視線を落とし、当たり障りのない世間話を口にする。求婚を断られたことはもう気にしていないのだろうか。だとしたら、切り替えが早過ぎるというものだ。小さくない違和感を覚えたものの、アマリアは追及まではしなかった。
「読んだ。酷いよね、あのエンリケなんとかって、コインブラ大学の博士」
アマリアはケトルの湯をティーポットに注ぐ。茶葉は近所で雑貨屋を営む患者からもらったものだ。カウンターテーブルへ視線を転じると、100エスクード金貨が3枚並べられていた。ルイシュが置いていったものだが、治療代にしては多過ぎる。アマリアは情け無い思いでそれをカウンターの引き出しに入れた。いつか、倍にして返す。
「だな。ところで、おまえの腹は? もう大丈夫なのか?」
空腹に耐えかね、庭の雑草をスープにし、アマリアが激しい腹痛に襲われたのは昨日の朝のことだ。苦しみながら自分で香薬を焚いて治したものの、一瞬、天国の門が見えたような気がする。
「もう大丈夫。今朝もちゃんと食事したし。先週、家賃を払ってから財布が空っぽで、備蓄も底を突いてたもんだから、つい、柔らかい雑草なら煮込めば食べられそうだなあって……」
アマリアはカウンター越しにエウゼビオと向かい合い、天秤や香炉を片付ける。彼からもらった紫陽花は素焼きの花瓶に飾った。
「誰かに言ってくれれば、俺が何か持ってきたのに」
“誰か”というのはエウゼビオの同僚のことだ。彼らの間で、アマリアの焚く香薬が評判で、ほぼ毎日、誰かしらが来店している。
「エウさんにそこまで面倒かけられないよ。っていうか、私がお腹を壊した話、何で知ってるの? もしかして、マガリャンイス伯爵夫人に聞いた?」
エウゼビオは養母であるマガリャンイス伯爵夫人と仲が悪い。ふたりの間で会話があったなんて意外だ。エウゼビオはアマリアの淹れた薄い紅茶に口をつけながら頷いた。
「うん。おまえ、昨日、うちの“母上”の治療に来ただろ?」
アマリアは毎週木曜日の午前中に、エウゼビオの実家であるマガリャンイス伯爵家へ往診に行く。伯爵夫人に肌をつややかにする香薬を焚くためだ。これはコンスタンサの古いレシピのひとつで、ハリと弾力のある、なめらかな美肌に導く人気の香薬だ。
「うん。奥様にいつもの香薬を焚いて、お茶とお菓子をご馳走になって、少しおしゃべりしたよ」
伯爵夫人はアマリアの患者の中で最も羽振りのいいお得意様で、パトロンと言ってもいい存在だ。彼女は雑草を食べて腹痛を起こした香薬師を気の毒がり、帰り際に、侍女を通じて心付けをたっぷりと持たせてくれた。
「奥様は結婚のこと、特に何もおっしゃってなかったけど、もしかして、エウさん、奥様に内緒で事を進めようとした?」
「まさか。それどころか、“母上”は大賛成。あの人はアマリアのこと気に入ってるからな」
「伯爵は何て?」
「さあ。“父上”の意見を聞く人間はあの家にはいない」
エウゼビオは皮肉っぽく笑い、天井を仰いだ。マガリャンイス伯爵夫人はジュネーヴの女教皇の姪であり、ポルトゥカーレの王妃の妹だ。19年前に14歳でスイスから嫁いできた時から、彼女に逆らえる者は伯爵家にはいない。
「エウさんって、とんでもないところの養子になっちゃったよね。弟さんたちも問題児だって噂、聞いたことあるよ」
「まあな。でも、貴族の家なんて、たぶん、どこもこんなもんだぜ」
「そういう世界へ、相談もなしに私を引っ張り込もうとしたのは、あんまりなんじゃない?」
アマリアはエウゼビオを軽く睨み、カップから紅茶を飲んだ。味も香りもほとんどしない、ほぼ白湯だった。
「ごめん。これ以上、家の中に敵を増やしたくないし、信頼できる絶対的な味方がそばにいてくれたら安心だと思って」
エウゼビオは申し訳なさそうに笑って頭をかいた。彼の求婚の真相が分かり、アマリアはホッとした。彼はアマリアを異性として特別に慕っているわけではなく、ただただ、アマリアに援軍を頼みたかっただけなのだ。気まずい思いが溶け、アマリアは気安く笑った。
「だとしても、私とエウさんが結婚って、ありえないよ」
エウゼビオも大口を開けて笑った。
「まあな。でも、俺と結婚すれば、アマリアにもメリットはあるだろ。たとえば、今までより多くの貧しい人たちを支援できる、とか」
アマリアの心はわずかにぐらついた。エウゼビオはアマリアのことをよく分かっている。
「確かにそれは魅力的だけど、それにしても不都合の方が多いよ。私、香薬屋をやめたくないし、たぶん、誰とも結婚しないと思う」
元孤児の仲間で結婚している者はいない。顔見知りの女性の香薬師も独身ばかりだ。アマリアは自分も同じだろうと思っている。何より、ルイシュ以外の男と結婚したいとは思わない。
「そもそもさ、この私が伯爵夫人だなんて、笑っちゃうよ。ちゃんと、エウさんに相応しい人と結婚した方が絶対にいいよ」
エウゼビオは苦々しく微笑み、長い脚を組んだ。
「うん、そうだな。5年後に、無事にポルトへ帰ってこられたらな」
白銀の夜明け団に入り、教皇庁や女教皇を守る栄誉を授かった各国の剣聖たちは、人質としての役割を担うことにもなる。母国と教皇庁の間で何か問題が起これば、身の安全の保障はない。
彼が夢に邁進してきたことはアマリアもよく知っている。いつか、こんな日が訪れるかもしれないと思ってはいた。だが、旅立つ彼を前にすると、居ても立っても居られないほどの不安や淋しさが胸を締めつける。それを感じ取ったのか、エウゼビオは妹分の頭を乱暴に撫でた。
「そんな顔するなよ。血のつながりはないけど、俺は女教皇猊下の
アマリアを安心させようとしているのだろう、エウゼビオは楽観的に笑った。彼の説得を聞いてアマリアの心配は募った。エウゼビオは女教皇の遠縁ではあるが、彼女の姪の夫の妾腹の子でもあるのだ。
「いじめられたりするんじゃない?」
「うーん。父上と親しかった人たちが健在であることを祈るよ」
エウゼビオの父親は若かりし頃に白銀の夜明け団に身を置いていた。女教皇や教皇庁の人々に信頼され、随分と可愛がられていたという。伯爵ながらに女教皇の姪との縁談がまとまったのは、そのためだ。
「それより、俺はおまえの方が心配だよ。今までと同じことをしていたら、また雑草スープを食べることになるぜ」
エウゼビオの指摘はもっともだった。貧しい人々から治療費を受け取らずに店を続ければ、またルイシュに負債の精算をさせることになってしまう。かといって、困窮している患者から代金を受け取るのは己の正義に反する。
「わかってるよ。でも、コンスタンサさんみたいに新薬の開発で一発当てるまでは仕方ないよ」
「そんなの、いつになるか分かんないだろ。もっと手っ取り早く稼ぐなら、うちの“母上”みたいな貴族のお得意様を増やす方が確実じゃないか?」
確かにそれは名案だった。アマリアがカウンターへ身を乗り出した時、開け放たれた店のドアを叩く音がした。
「アマリア、いるかい?」
アマリアは弾かれたようにカウンターを飛び出した。店の入口には腰の曲がった白髪の老婆が立っていた。土埃や垢で汚れたボロを着て、杖代わりの棒切れを手にしている。
「ヴィオレッタさん、誰かに
アマリアは老婆に懇願しつつ、彼女を治療用ベッドへ案内した。スラム街からここまで彼女の足では20分以上かかったことだろう。
「歩けるうちは自分で来るよ。おや、今日は黒豹殿がおいでなんだね」
老婆はエウゼビオと微笑みを交わし、ベッドへ横になった。その手は絶えず自分の肘をさすっていた。彼女は身体中の関節が炎症を起こし、変形する病に蝕まれている。
炎症を鎮め、痛みを和らげる香薬をアマリアが焚き始めると、老婆はすぐに眠りに落ちた。痛みがひどく、昨晩はよく眠れなかったのかもしれない。
患者の安らかな寝顔を見下ろし、アマリアは香薬師になって良かったと改めて思った。ルイシュに勧められるがまま、深く考えずにこの道を選んだが、やりがいのある仕事だ。
それに、アマリアの孤児院は心ある貴族や商人からの寄付によって運営されていた。その恩恵で育ったアマリアの身体は人々の善意でできていると言っても過言ではない。これまで一方的に享受するばかりだった善意を、今度はアマリアが、それを必要としている人々へ手渡していかなければならない。
「ジュネーヴの女教皇猊下と同じ病だな」
アマリアが治療する様子を黙って見ていたエウゼビオは悲痛な表情で言った。
「うん、リウマチ。女の人に多い病気だよ。完治することはないから、痛みを和らげるしかないの。服薬するより香薬を焚く方が身体への負担が少ないから、リウマチ患者は香薬屋には多いんだ」
医師は鎮痛剤としてアヘンを使用するが、中毒性が高く、心身への副作用が大きい。決して治ることのない病の治療に永続的に用いるべきものではない。
「ああ、まさに猊下はアヘンの副作用に苦しんでおられるらしい。やっぱり、ジュネーヴにも香薬師が必要だよな」
エウゼビオは肩を落として目を伏せた。もしかして、アマリアをジュネーヴへ連れて行くことを諦めていないのだろうか。
真意を問いただすべくアマリアが口を開きかけた時、店の前に1台の馬車が止まった。このあたりでは決して見かけない、黄金で装飾された馬車だ。降りてきたのは身なりのいい上品な老人だった。
「若様。奥様のご指示でお嬢様をお迎えに上がりました」
老人はアマリアの店に入ってくるなり、エウゼビオにそう言った。アマリアが「どういうこと?」と視線で問うと、黒豹は困ったように頭をかいた。
「彼はうちの使用人。おまえが求婚に応じてくれたら、今夜の王宮の舞踏会に誘おうと思ってたんだ。ミゲル、せっかく来てくれたところ悪いんだけど、俺、アマリアに振られたんだよ。舞踏会はなしだ」
エウゼビオの苦々しい報告に、老使用人は表情を変えなかった。
「求婚の結果はどうあれ必ずお嬢様をお連れするようにと奥様から言われております。お嬢様、舞踏会へ行く身支度は我が伯爵家にてお手伝いいたしますので、そのままのお姿でお越し下さい」
老使用人は一方的に告げ、馬車の前で直立した。エウゼビオは頭を抱え、それから、すがるような目でアマリアを見た。
「アマリア、悪いけど、今夜だけ付き合ってもらえないか?」
マガリャンイス伯爵家には、伯爵夫人に逆らえる者はいない。そして、それはアマリアも同じだった。もしも彼女に嫌われたら、店の経営は終わる。
「私、まったく踊れないし、私なんかが王宮に入れてもらえるものなの?」
言いながら、アマリアはルイシュから聞いた香薬の種の密輸に関する話を思い出していた。香薬の種が生成されているのは王宮だ。もしかしたら舞踏会で、何か有益な情報が得られるのではないか。
「そこらへんは“母上”がフォローしてくれるだろうから、大丈夫だ。貴族のお得意様を増やすって話も、舞踏会で“母上”がおまえの香薬の宣伝をしてくれたら、結構うまくいくかもな」
ルイシュの役に立ち、店の経営の立て直しを計れるとなれば、アマリアに断る理由はない。未知の世界に足を踏み入れるのはとても怖かったが、困窮している人々から治療費を踏んだくったり、己の正義のツケをルイシュに負わせるより、はるかにマシだ。
「わかった。行くよ」
アマリアは治療用ベッドで眠る老婆を
「……ごめんな、アマリア」
彼の声は奇妙なほど低かった。もしかしたら、伯爵夫人はアマリアを息子の嫁にすることを諦めていないのかもしれない。だが、彼女からエウゼビオとの結婚を再考するように言われても、未成年の元孤児の十八番「後見人に相談してみます」で乗り切れるはずだ。
「ううん。こんなことでもないと、王宮なんて一生、行けなかっただろうし」
そういえば、ルイシュに「おまえに危険なことはさせたくない」と言われたが、これは危険なことには該当しないだろう。アマリアは自分に都合よく判断し、老婆の枕元の香炉を片付け始めた。
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