6.不可解な求婚

ルイシュが店を出ようとした時、香薬屋のドアが勢いよく開いた。


「アマリア、いるか!」


現れたのはたくましい長身の青年で、黒髪黒目に浅黒い肌、着衣や靴や背中に負った長剣も漆黒という、黒ずくめの人物だった。彼はアマリアの姿を認めると、持っていた青い紫陽花あじさいの花束を突き出して朗らかに笑った。


「お、元気そうだな。おまえが空腹に耐えかねて庭の雑草を食べて食中毒を起こしたって聞いて心配してたんだぜ。庭の雑草には食えるやつと食えないやつがあるから、気をつけろよ」


「基本的に雑草は食うな」


横から苦言を呈したルイシュに驚き、青年は大袈裟に飛びずさった。


「うわ、コスタ大臣!」


「うわ、とは何だ、エウゼビオ」


目つきの悪い男の鋭いひと睨みに臆することなく、エウゼビオは屈託なく破顔した。妙齢の女性の半数以上が見惚れるであろう端正な顔だ。


「すみません、俺、コスタ大臣に会う時はちょっとだけ心の準備が必要で。どうも、お元気ですか? 遺跡の件、新聞で読みましたよ、大変ですね。まあ、壊れちゃったもんは仕方ないですよ、ドンマイ!」


「おまえ、俺のこと舐めてるだろ」


本人に悪気がないことはアマリアもルイシュも知っている。無神経なのか、肝が据わっているのか、付き合いの長いアマリアにも判別は難しい。ただ、正直で彼の右に出る者にはまだ会ったことがなかった。


「エウさん、いらっしゃい。いつもありがとう。今日は夜勤明け?」


アマリアは紫陽花の花束を受け取り、エウゼビオに尋ねた。彼が着ているのは王宮護衛隊の黒い制服だ。


「あたり。夜勤明けで、今日は休み。あとで王宮には行くけどな」


エウゼビオは孤児院時代の友人で、今でも何かとアマリアを気にかけてくれる4歳年長のアニキだ。孤児院で一緒に生活していたのは2年程度だったが、アマリアが乱暴者にいじめられていると、必ず駆けつけて助けてくれた。


孤児院を出た後、エウゼビオは陸軍省の歩兵師団に入り、拝星教徒との戦争で大きな手柄を立てた。容姿にも恵まれていたため、今は王宮護衛隊に所属して王女の警護を任され、“王宮護衛隊のエース”、“黒豹”などと呼ばれている。孤児院出身者としては異例の大出世だが、からくりは単純だ。彼は有力貴族の庶子なのだ。父親は17年前に他界しているが、その弟がエウゼビオを養子とし、彼の出世を後押しした。


「コスタ大臣、昨日お話しした件ってアマリアにはもう伝わってます?」


「いや、まだだ。セルジオ先生に相談できていないし、それに、もうひとり、一応、意見を聞いておきたい人がいる。アマリアに知らせるのは最後にしようと思っていた」


「そうですか。実は事情が少し変わったんです」


アマリアは男たちの話題についていけず、彼らの表情を交互に観察していた。だから、ルイシュが珍しく困惑している様子や、エウゼビオの太陽のような笑顔が曇ったのを見逃さなかった。


「ルイシュさん、何の話ですか?」


ルイシュのシャツの袖を引くと、後見人は狼狽うろたえたような顔でアマリアを見た。


「エウゼビオに求婚された」


アマリアはぽかんと口を開けた。


「つまり、エウゼビオが、おまえを妻にしたいと言ってる。俺はおまえがいいなら構わないと思う。だが、セルジオ先生のご意見も聞きたい。おまえのことは俺より先生の方がよくご存じだ。エウゼビオのこともな」


これほどまでに弱々しく言葉をつむぐルイシュを、アマリアは初めて見た。エウゼビオを振り仰ぐと、緊張した面持ちの彼と目が合った。


「エウさん、冗談、だよね……?」


エウゼビオの養父は、先祖代々、王宮護衛隊の隊長職を任されているマガリャンイス伯爵家の当主だ。エウゼビオは家督を継ぐために10年前に彼の養子となった。エウゼビオの妻になると言うことは将来の伯爵夫人になるということだ。


ルイシュかエウゼビオのどちらかが「冗談だ」と笑ってくれるのをアマリアは待った。ルイシュは「とりあえず座れ」とアマリアをカウンターへ連行した。花束を抱えたまま椅子に腰を下ろし、何度か深呼吸してみたが、頭の中はちっとも整理されなかった。


「ルイシュさん、もしかしたら、私、一見すると高貴なレディに見えるかもしれませんけど、とても伯爵夫人になれるような身分ではありません」


「そんなことは分かってる」


ルイシュはカウンターテーブルに寄りかかり、気が進まなそうな顔で説明した。


「だが、おまえとエウゼビオが結婚する方法は、ないこともないんだ。おまえを俺の養子にすれば、どこからどう見ても一般庶民の、路傍のぺんぺん草みたいな娘も一応は伯爵家のご令嬢ということにはなる。国王陛下のご許可をいただかなくてはならないがな」


「大臣、ぺんぺん草はちょっと」


ルイシュの説明を聞いて、アマリアの疑念はさらに募った。そこまでしてエウゼビオがアマリアとの結婚を希望している理由が分からないのだ。出会ってから今日まで、彼から好意を寄せられていると感じたことは一度もない。今この瞬間でさえ、彼がアマリアに恋しているとは思えない。何かがおかしい。


「エウゼビオ、事情が変わったというのは、どういうことだ? 何かあったのか?」


アマリアの胸の内などつゆ知らず、ルイシュはエウゼビオに尋ねる。王宮護衛隊のエースは誇らしげに口を開いた。


「今夜の王宮の舞踏会で正式に発表されるんですが、実は俺、ジュネーヴへ行くことに決まったんです」


エウゼビオの告白にルイシュは破願した。


「そうか、ついに“白銀の夜明け団”に入るのか、それはおめでとう。子供の頃からの念願が叶ったわけだな」


白銀の夜明け団とは、ジュネーヴの教皇庁を警護する欧州最強の傭兵団のことで、エウゼビオは子供の頃から入団を熱望していた。傭兵と言っても、その正体は欧州各国の王侯貴族を守る騎士や近衛兵たちだ。


「ええ、ありがとうございます。俺ももう27歳なので、そろそろ難しいかなと思っていたところの朗報で」


固い握手を交わす男たちにアマリアも加わった。我が事のように誇らしく、嬉しかった。


「エウさん、すごいよ、よかったねえ」


孤児院の壁に白銀の夜明け団の紋章を描き、エウゼビオが孤児院長に叱られたのは17年前の冬のことだ。夕暮れ時、ひとりで壁の落書きを消すエウゼビオにアマリアが声をかけたのが仲良くなったきっかけだった。ふたりは冷たい水に手を真っ赤にして、丸めたわらでごしごしと1時間も壁をこすり続けた。盾の中にみっつの峰と牡鹿が描かれたその紋章をアマリアはよく覚えていた。


「ありがとう。まあ、当然の結果だな」


エウゼビオはにこにこと幸せそうに笑ったものの、その笑みをすぐに引っ込めた。


「白銀の夜明け団に入ったら、任期である5年間はポルトに帰ってこられません。ですから、もし大臣がアマリアとの結婚を許してくださるのなら、――アマリア、俺と一緒にジュネーヴへ来てほしいんだ」


「い、行けない行けない!」


考えるまでもなかった。


「私には患者がいるし。そもそも、エウさんと結婚するなんて考えたこともないし。好きな人、他にいるし」


アマリアの即答にエウゼビオは無言で固まり、ルイシュは愕然としてアマリアに詰め寄った。


「おまえ、好きな男がいるのか……? どこのどいつだ……?」


目の前にいる三短の男ですよ、と言う勇気はアマリアにはない。顔が火照るのを感じながら、アマリアはしどろもどろに言った。


「好きな人って言っても、私の片想いです。私、その人に全然、相手にされてませんから」


アマリアは自分自身の言葉に深く傷つき、紫陽花の花に顎を埋めてため息をつく。ルイシュが何か言いかけた時、ドアを叩く音がした。


「コスタ大臣、そろそろ行かないと、また会議に遅れますよ!」


ルイシュの従者のコエントランの声だ。彼はアマリアやエウゼビオと同じ孤児院で暮らしていた元孤児だ。


「アマリア、その男のことは今度また詳しく聞かせろ。エウゼビオ、途中まで送ってやる。行くぞ」


暗い目でじっと床を見つめていたエウゼビオの背中をルイシュは叩いた。ところが、王宮護衛隊のエースは力なく首を振った。


「すみません、大臣、俺、まだアマリアに話したいことが。明日の朝、ポルトを発つんです。そうしたら、5年は会えませんから……」


エウゼビオの言葉にルイシュは目を丸くした。


「明日の朝? そうか、ずいぶん急だな。身体に気をつけて、幸運を祈る。また必ず会おう」


白銀の夜明け団に入団できるのはその国で指折りの戦士だけで、大変な栄誉ではあるが、選ばれた者は人質としての役割を課される。任期を終えて祖国へ無事に帰ってこられるかどうかは、ポルトゥカーレと教皇庁の関係にかかっている。


「……はい、ありがとうございます。大臣もお元気で」


敬礼したエウゼビオの肩を軽く叩き、ルイシュは香薬屋を出て自分の馬車へ向かう。彼を見送ろうと、アマリアはその背中を追いかけた。


「しかし、何だか、妙だな」


馬車に乗り込みつつ、ルイシュは片眉をひそめた。


「妙、ですか?」


「おまえみたいなぺんぺん草を養子にしたいとか、妻にしたいとか、そんな話が続くのは奇妙じゃないか?」


言われてみれば、その通りだ。アマリアは頷いた。胸がざわざわした。


「たしかに、23年間で、今日みたいな日は初めてです」


「まあ、アルメイダの話は断るし、エウゼビオの求婚も断った。心配することはないか。ところで、エウゼビオのこと、本当にいいのか? 俺はてっきり、おまえもエウゼビオを慕っていると思っていた。エウゼビオの何が不満なんだ?」


馬車の窓からアマリアを見下ろし、ルイシュは怪訝そうに首を傾げる。


「不満とか、そういうことじゃなくて、エウさんとはずっと友達でしたから、結婚なんて考えられないだけです」


「それは……分からんでもないな」


思い当たることが自分にもあると言わんばかりにルイシュは小さく頷いた。


「ルイシュさんはご結婚されないんですか」


後見人と色恋や結婚の話をするのは初めてだったので、アマリアは思い切って聞いてみた。ルイシュは不思議なほどたじろいだ。


「お、俺?」


「独身の王宮伯なんて、たくさん縁談が舞い込んでくるんじゃないですか? 全部お断りしてるのは、心に決めている方がいるからですか?」


「俺の爵位は一代限りだ。子供に譲ってやれるものは何もない。そんな男のところに舞い込んでくる縁談の相手なんて、訳ありのご令嬢か未亡人のどちらかだ。わざわざ面倒ごとに首を突っ込むほど、俺は物好きじゃない」


ルイシュに結婚の意思がないと分かり、アマリアは嬉しいような、淋しいような、複雑な気持ちになった。


「私、ルイシュさんはコンスタンサさんのことをまだお好きだから独身を貫いているのかと思ってました」


「また、あの芝居の話か」


ルイシュは思い切り顔をしかめた。


「芝居と現実を混同するな。現実の俺たちは、あんなじゃない」


「はい。“トライアングロ”では、コンスタンサさんは生涯に渡ってずっと王子様を愛し続けていたと語られていますけど、本当は、コンスタンサさんは、ルイシュさんを好きだったと思います」


「何をいきなり、馬鹿を言え。そういうことは勝手な憶測で話すんじゃない。コエントラン、出してくれ!」


ルイシュは従者の青年に命じ、アマリアへ片手を上げた。


「じゃあな。食べ物に困ったら、うちに来い。俺が留守でも食事は出させる。それから、今後は毎月末に店の収支の報告をしろ。戸締りをきちんとして、夜道や人気のない道をひとりで歩くな。それから、そこのドア、エウゼビオが帰るまで開けておけ」


ルイシュが言い終えるより早く、馬車はゆっくりと動き出す。アマリアは彼を追って石畳を走った。


「確かに憶測ですけど、たぶん、当たっていると思います。あのレシピを読んだら分かります。コンスタンサさんは、ご自分が亡くなった後、誰かにあなたを癒してほしくてレシピを遺したんです」


コンスタンサのレシピの余白には、時々、「好き」「嫌い」「苦手かも」「結構お気に入り」などと小さく記されている。水彩と思しき薄いピンク色のインクでだ。


アマリアは、初めはコンスタンサの好みが記されているのだと思った。だが、強烈な匂いを発する薬草の名前の下に「絶対に入れるなと彼に言われた」と書かれていたり、爽やかな香りの薬草に「たぶん彼が一番好きな香り」という書き込みがあるのを見つけ、“トライアングロ”で彼女の想い人とされていた王子、つまり、国王の好みだと確信した。


しかし、この3年間でルイシュにいくつか香薬を焚くうちにアマリアは気がついてしまった。記されていたのはルイシュの好みだった。


レシピの最後の数ページには、力のない乱れた文字が並んでいた。きっと、コンスタンサは病と闘いながら、この世に残していく愛しい人のために、持てる力を振り絞って文字をつづったのだ。最後のページには薄ピンクのインクでこう記されていた。


“この世の誰よりもあなたを愛していると、たとえ死んでも決してそれは変わらないと、自分の声で伝えたかった。”


「コンスタンサがレシピを遺したのは、俺のためじゃない。それは間違いない。それに、あのレシピは俺も目を通したが、そんな書き込みはひとつもなかった。コンスタンサの死後、誰かがイタズラで書き加えたんだろう」


ルイシュは怒ったような顔できっぱりと断言し、彼の乗った馬車は通りの先を曲がり、すぐに見えなくなった。

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