5.香薬を焚く

ポルトは大西洋に面した港町だ。時計の文字版に見立てると、香薬師協会本部や中央広場や港があるのは数字の“9”のあたりで、その西側には大西洋が広がる。王宮があるのは時計中央部、アマリアが育った孤児院があるのは“2”のエリアで、発掘中の古代の王墓はその東の丘上だ。


アマリアの店があるのは数字の“6”のあたりだ。所得の低い人々の住む地域ではあるが、迷路のような狭く暗い路地を行きかう人々の表情は明るい。


隙間なく並ぶ集合住宅アパルトメントはまるで蜂の巣のようで、そこで暮らす住人たちはまさに蜂のごとく朝から晩まで忙しなく働いている。


ルイシュの馬車が止まったのは白壁とオレンジの瓦屋根でつくられた4階建の建物の前だった。ポルトゥカーレがスペインに統治されていた時代に建てられたもので、1階が香薬屋、それ以外は集合住宅アパルトメントになっている。アマリアの居室があるのもこの建物の2階だ。


「ルイシュさん、いつものやつ、焚きます?」


馬車を降りながらアマリアが問うと、ルイシュはシートから腰を上げた。


「頼む」


アマリアは青く塗られた頑丈な木のドアを解錠した。薬草の香りが漂う店内はひんやりとしている。石造りの建物は断熱性に優れていて、夏は涼しく、冬は暖かい。


ルイシュは勝手知ったる足取りでドアをくぐりながら、入口上部の壁にはまっている黒い石を右手で触った。理由を聞いたことはないが、彼はここへ来るといつもその石に触れる。この店の前所有者と何か関係があるのではないか、アマリアはそう思っている。


「どうぞ」


アマリアは入口正面にあるカウンターへ向かい、背の高い椅子を引いた。ルイシュはそこに腰を下ろし、店内を見回す。


木製のカウンターや椅子や薬草棚、治療用ベッド、カウンターに並ぶ道具類――香薬を焚く香炉、薬草をすり潰す薬研やげん、調合用の器、天秤などのいずれもが、以前ここで香薬屋を営んでいた香薬師から譲り受けたものだ。


それらをゆっくりと順番に眺め、ルイシュは小さく息をついた。これも彼の“いつもの儀式”だ。


ここはルイシュにとって、思い出深く大切な場所だ。彼が毎週ここへやってくるのは、きっとその思い出に会うためで、それ以外のことはたぶん、ほんのついでだ。


「少し待っててくださいね。すぐですから」


待たされるのが嫌いな短気な男が「やっぱり帰る」と言い出さないように念押ししつつ、アマリアはカウンターの奥で麻のエプロンをつけ、処方レシピが記された帳面を開いた。


「前から思ってたんだがな、毎週のように焚いてるんだから、いちいち、レシピなんて見なくても調合できるんじゃないのか?」


カウンターに頬杖をつき、ルイシュは帳面いっぱいに踊る美しい文字に目を落とす。


「もちろん頭には入ってますけど。これはコンスタンサさんのレシピですから、何と言うか、自分のもののように扱うのは敬意に欠ける気がするんです」


「何だそりゃ」


香薬のオリジナルのレシピは師匠から弟子へ受け継がれるのが一般的だが、亡くなった前店主には弟子がいなかった。店や道具とともにアマリアが受け継いだレシピは、今も多くの人々を癒している。


「さっき、香薬師協会の会議室でコンスタンサさんの肖像画を見ましたよ。素敵な方だったんですね」


言いながら、アマリアはルイシュに背を向け、天井まで届く薬草棚を見上げる。必要な薬草ビンを選び取り、カウンターへ無造作に並べていく。肩越しにルイシュの表情を盗み見ると、彼は淋しげに笑っていた。


「ああ、俺もさっき見た。あれは、ちょっと美化し過ぎだな」


ここは3年前まで、前王宮香薬師コンスタンサ・フェレイラ・ディアスの店だった。彼女が亡くなったのはアマリアが香試に合格した直後で、ちょうど空き家となっていたこの店をアマリアが受け継いだのだった。


3年前にポルトで流行った芝居“トライアングロ”によると、ルイシュは12歳の時にコンスタンサと出会い、20年以上に渡って彼女へ想いを寄せていたらしい。コンスタンサには相思相愛の相手が他にいたので、ルイシュの恋が実ることはなく、ふたりは終生、無二の親友だったと芝居は締めくくっていた。


「そうなんですか? “トライアングロ”の女優さんも、ああいう感じの綺麗な方でしたよ?」


「あのクソ芝居を間に受けるな。脚色まみれの創作だ」


演劇の中で不憫な男として好き放題に描かれているルイシュはおもしろくなさそうに唸った。アマリアはそれを笑い、処方レシピを確認しながら16種類の薬草を天秤で量り、薬研で軽くすり潰し、丁寧に調合し、真鍮製しんちゅうせいの振り香炉へそれを注ぎ入れる。


この滋養強壮の香薬は据え置き型の香炉でじっくりと焚いた方が効果がある。だが、レシピには小さな文字で“気の短い誰かさんには振り香炉を使ってもよし”という注釈が記されているのだ。


「私もコンスタンサさんに、ひと目でもお会いしたかったです。孤児院にたくさん寄付をしてくださっていましたから」


ルイシュは「そうだな」とだけ答え、物思いに耽るように、窓辺に干された薬草へ視線を転じた。


彼の手紙に書かれていたCという人物、それはコンスタンサなのではないか。アマリアがそう勘ぐったのは一度や二度ではない。アマリアの父親はルイシュで、母親がコンスタンサなのではないか、と。


しかし、芝居の中で彼らは無二の親友同士として描かれていた。常連の患者たちの噂話を聞く限りでも、それは間違いなさそうだった。彼らの間に子供がいると考えるのは難しいのではないか。


それに、コンスタンサがアマリアの母親だとしたら、娘を孤児院へ預け、母親だと名乗り出なかった理由が分からない。たしかに、出産当時の彼女は十代半ばの無力な少女だったことだろう。だが、その後の彼女は新薬の開発で莫大な財産を築き、王宮香薬師にまで昇り詰めた。娘を引き取って育てることをせず、孤児院への多額の寄付だけを続けたというのは不自然な気がする。


アマリアは薬草棚の下段にある、鍵のかかった扉を解錠して開けた。そこからマヨルカ焼きの瓶を取り出し、小皿に向けて瓶の口を傾ける。レモンの種のようなものがいくつか転がり出てきた。香薬の種だ。


「ずいぶん小さいな。いつ仕入れた?」


ルイシュに問われ、アマリアは目を泳がせつつ彼に小皿を差し出す。


「7日前です。ちょっと小さいですけど、3粒も使えば問題ないですから。それに、小さい香薬の種は子供たちに処方する時にちょうどいいんです」


香薬の種は初めは大粒の葡萄ほどの大きさだが、昇華性があるため、日が経つにつれて段々と小さくなり、およそ10日間で消えてしまう。


「また孤児院に行ってタダで治療してるのか?」


ルイシュは指示通り、小さな香薬の種をみっつ口に含む。この無色透明で無味無臭の飴玉状のものを口に含みながら香薬の煙を吸い込むと、様々な効能を得られるのだ。鼻の通りをよくする性質もある。


「喘息の子がいるんです。私が孤児院にできる恩返しは、それくらいですから。コンスタンサさんみたいにお金で支援できたら一番いいんですけど、新薬の開発がなかなか当たらなくて」


アマリアは使わなかった香薬の種をマヨルカ焼きの瓶へ戻し、瓶を棚に戻して鍵をかけた。この不思議な物質は王宮で生成され、香薬師協会がポルト市内の香薬屋へ独占販売している。転売や国外への持ち出しは厳禁で、香薬屋では鍵のかかる戸棚に保管し、使用数を厳密に管理しなければならない。


「最近、王宮護衛隊の隊員の間でおまえの香薬が人気だって聞いたぞ」


「あ、はい。筋肉を大きくする香薬なんですけど、エウさんが仲間に宣伝してくれて、毎週のようにお店に来てくれる方もいますよ」


「大したもんじゃないか」


ルイシュに褒められ、アマリアは浮き足立ちつつ、着火具で木炭片に火をつけた。フリントロック式の銃の仕組みを利用した道具だ。孤児院ではもっと原始的な道具で火を起こしていたので、この着火具を初めて手にした時、アマリアは感動し、はしゃぎ過ぎ、ありったけのロウソクを店中に立て、何度も火を灯しては消すことを繰り返し、「点火薬の無駄だからやめろ」とルイシュを呆れさせたものだ。


火のついた木炭片を掌サイズの振り香炉へ入れると、すぐに細く白い煙が上がった。春の野花のような香りが鼻腔をくすぐり、アマリアは小さく頷いた。コンスタンサの考案した香薬をおそらく完全に再現できている。


故人のレシピに忠実に香薬を焚けた時、アマリアはいつも不思議な感覚に陥る。コンスタンサがアマリアへ憑依して、患者に香薬を焚いてやっているのではないか、と。レシピとともに、墓石の下で眠る死者の想いを受け取ってしまった。そんな気分にもなる。


アマリアはカウンター越しにルイシュの前に立ち、3本の鎖に吊るされた香炉をゆっくりと振る。甘く優しい香りの煙に包まれ、ルイシュは首に巻いたクラバットを緩め、目を閉じて深く息を吸い込んだ。故人の慈愛に抱かれているかのように、安らかな顔だった。


「香薬の種の価格高騰については、少し前に国王陛下と話したことがある」


ルイシュは目を瞑ったまま、馬車の中での会話を再開した。


信じがたいことに、ルイシュと国王は幼馴染で、ルイシュが7歳、国王が9歳の頃から友人だという。子爵家の四男がどうやって王子様とお近づきになったのか、それは“トライアングロ”では描かれていなかった。


「ここだけの話だがな、今、香薬の種を生成できるのは、国王陛下おひとりなんだ。4年前に王弟殿下が相次いで亡くなって、3年前に従兄弟のアルトゥール殿下が亡くなっただろ。それから、ずっとだ。生成数が減っているのは、仕方のないことだ」


香薬の種は王家の血を引く子孫にしか生成できない。国王には3人の若い弟がいたが、彼らは4年前の天然痘の大流行によって、子供を儲けぬまま立て続けに命を落とした。国王の従兄弟のアルトゥールには5人の娘がいたが、全員が他国へ嫁いだため、娘たちもその子供たちも、その身はポルトゥカーレにはない。


「どうして王様がおひとりで? 王様と王女様のおふたりで生成なさっているんじゃないんですか?」


王女は22歳。可憐で聡明な令嬢で、人々は頼もしい後継者として彼女に期待を寄せている。ところが、ルイシュは首を振って否定した。


「いや、マルガリーダ殿下は香薬の種を生成できない」


一定のリズムで香炉を振っていたアマリアは、それを危うく床に落としかけた。慌てて鎖の持ち手を握り直し、定められた振り幅で再び香炉を揺らす。


「王家の血を引く方々は皆様、香薬の種を生成できるはず、ですよね? 王女様だけが、どうして……」


言い淀み、アマリアは町で聞いた心無い話を思い出した。王女は国王に似ていない、本当の娘ではないのではないかという下卑た噂だ。アマリアの心を読んだのか、ルイシュは凶悪な目で被後見人を睨んだ。


「王女殿下が国王陛下のお子ではないという噂、あれは事実無根だ。歴代の王族の中には香薬の種を生成できない方が他にもおられたらしい。アルトゥール殿下のご息女の皆様もそうだ。言わずとも分かると思うが、これは他言無用だぞ」


22年前に王女誕生の瞬間に立ち会ってから今日まで、ルイシュは目に入れても痛くないほど彼女を可愛がってきたという。小さな王女は父王の友人であるルイシュをお気に入りの遊び相手としていて、彼の肩に乗り、馬代わりにして王宮の庭を駆け回ったり、彼をおもちゃの剣で殴ったり、王宮の池に突き落としたりと、なかなかの暴君ぶりだったらしい。


「つまり、香薬の種の価格高騰については誰も悪くないから諦めろってことですか?」


「誰も悪くない、とは言えないな。手っ取り早く確実な解決策を知っていながら黙っている奴がいるし、それに、これも他言無用の話だが、香薬の種が正規のルート外で流通しているという噂もある。しかも国外へ」


「誰かが、香薬の種を密輸している、ってことですか?」


香薬の治療費が上がり、人々が困っている時に何という悪人だろう。怒りを通り越し、アマリアは呆れてしまった。


「香薬の種は厳重に管理されてますし、苦労して国外へ持ち出したところで日が経つにつれ昇華して小さくなってしまうし。そんなリスクのあること、普通やるでしょうか?」


「それでも密輸されてるってことは、香薬の種を定期的に、必ず購入する固定客がいるってことだろう。まあ、諸々調査中だ、現段階では何も分からん。だが、もしそれが本当なら、おまえが噛みつく相手はその犯人だろ? だから国王陛下や王宮を恨むのはよせ」


友人であり主君である国王を擁護し、ルイシュは悩ましげに目を伏せた。アマリアは「はい」と素直に首肯し、しばし考え込んだ。犯人を捕まえるために、何か自分にできることはないだろうか。香薬の種を取り扱う人間は限られる。疑うべきは、王室関係者、香薬師協会関係者、そしてアマリアの同業者である香薬師だ。


香炉を振る手に力を込めたアマリアに、ルイシュは面倒くさそうに顔をしかめた。


「アマリア、おまえ、何か余計なことをしようとか、そんなこと考えてるんじゃないだろうな?」


アマリアはぎくりとした。


「だ、だって、その密輸犯、もしかしたら香薬師かもしれないじゃないですか。怪しい人がいないか、片っ端から知り合いに……」


「やめろ。犯人が勘づいて証拠隠滅や逃亡を計ったらどうする。クソ、話した俺が馬鹿だった」


ルイシュが後悔の言葉を口にした時、振り香炉から最後の煙が立ち上って消えた。治療が終わればルイシュは帰ってしまう。アマリアは未練がましく香炉を揺すったが、木炭片は燃え尽きていた。


「頼むから大人しくしてろ。首を突っ込めば、おまえが思っている以上の危険が飛び出してくるぞ」


幼い子供を脅すように凄み、ルイシュは代金をカウンターへ置いて立ち上がった。ゆるめたクラバットを整え、振り返ることなく出口へ向かう。多忙な後見人を引き留めるのは悪いとは思ったが、アマリアは香炉をカウンターへ放り出して彼の背中を追った。


「でも、ルイシュさん、私、かつての日常が早く戻ってほしいんです。前みたいに、誰もが気軽に香薬屋を訪れて、二日酔いに効く香薬や、眠気覚ましの香薬を焚きながら世間話をするような、そういう日常が。この店がこんなに静かじゃ、コンスタンサさんにも申し訳ないです」


アマリアが店を開いた当初、ここは人々が集う賑やかな場所だった。常連の患者によれば、コンスタンサが切り盛りしていた頃はそれ以上だったという。ルイシュは足を止め、アマリアの気持ちに自分のそれを重ねるように頷いた。


「そうだな。ここは、昔は繁華街の酒場より混んでた。大した用もない近所の連中が毎日フラフラやってきてはコンスタンサに香薬を焚いてもらってな。コンスタンサも、みんなの悩み相談をしたり、新しい香薬のレシピを考案したり、毎日忙しそうだった」


懐かしむように目を細め、ルイシュは入口ドアの上の黒い石を見上げる。


「とは言え、おまえに危険なことはさせたくない。今ここでした話は忘れろ。いいな?」


思いつめたような顔で言って、ルイシュはドアノブに手を伸ばした。

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