3.手紙

自分の両親がどこの誰なのか分からないということを、アマリアは幼い頃から理解していた。孤児院長によれば、「8月の大嵐の夜に、美しい若い娘が赤ん坊のおまえを孤児院へ連れてきた。名を問うと、彼女は自分の名前ではなく、赤ん坊の名前を答え、すぐに嵐の中へ取って返した」という。


両親が何者か分からない。それは、ぬかるんだ冷たい泥の上に立っているような感覚だった。みじろぎする度に足が沈み込み、氷のような温度の孤独に足を取られるのだ。


孤児院の大人たちにどんなに親切にしてもらっても、仲間と友情を育み楽しく過ごしても、腹の底にはいつも、途方のない淋しさや、自分の人生に対する諦めのような気持ちが沈殿していた。


9歳の夏のことだ。アマリアは郵便局へ孤児院宛の手紙を受け取りに出かけた。それは年長の孤児の仕事だったが、その日はたまたまアマリアが任された。


郵便局で手紙の束を受け取ったアマリアは、その中にひときわ上質な紙の手紙があることに気がついた。郵便局の建物を出て、強い陽射しの下でそれを裏返す。


赤い封蝋がつやつやと輝いていた。押された印章は、オリーブの葉の輪の中に“L”。


一見すると、ただの手紙だ。だが、なぜだか妙に気になってしまって、アマリアは差出人の名前を声に出して読み上げた。たどたどしく、丁寧に、「ルイシュ・ダ・コスタ」と。


その後も注意深く観察し続けると、ルイシュ・ダ・コスタからの手紙は毎月一度、必ず月初に孤児院長の元へ届けられていた。


ある時、アマリアが孤児院長の部屋を掃除していると、床に開封済みの手紙が落ちていた。手紙は机の下の暗がりにあったが、まるで何者かが「拾え」と導くかのように一条の細い光がその角を照らしていた。窓辺に置かれたガラスの杯に朝日が当たり、屈折し、机の下へ真っ直ぐと伸びていたのだ。


この時、アマリアは12歳になっていたので、他人宛の手紙を盗み見ることがタブーだということは分かっていた。好奇心に後ろ髪を引かれつつ、手紙に背を向けて掃除を続けた。焦げくさい匂いが鼻をついたのは数分後だった。


ガラスの杯から伸びる光が手紙の角を焦がしていた。アマリアは窓辺へ駆け寄って杯をつかみ取り、続いて床の手紙を拾い上げた。9歳の夏に見たものと同じく、宛名は孤児院長、差出人はルイシュ・ダ・コスタ。焼け焦げた小さな穴から、中面に書かれた文字が見えた。力強い筆跡の“A”だ。


アマリアはとうとう好奇心に負けた。折り畳まれた手紙をそっと広げると、そこには文字がびっしりと記されていた。


“親愛なるセルジオ先生

私たちのAは元気で過ごしているでしょうか? 

木から落ちて小指を骨折したと聞いて心配しています。”


そこまで読んで、アマリアははっとして手紙から顔を上げた。孤児院にはAというイニシャルの孤児は何人もいる。だが、最近、木から落ちて小指を骨折したのはアマリアだけだ。高鳴る胸を押さえ、アマリアはつづられた文字を夢中になって目で追った。


“Aの将来についてCと話しました。Cはセルジオ先生と同じ考えです。A本人が強く望むのであれば、私もその未来については覚悟をしています。”


Cとは誰のことだろう? もしかして、Cという人が私の母親で、このルイシュ・ダ・コスタという人が父親なのではないか。


その時、アマリアは自分に両親が存在するということを生まれて初めて実感した。自分という人間の輪郭が定まり、噛み締めたことのない幸せが足の裏から次々とこみ上げてくる。アマリアの心臓は壊れそうなほどの速さで伸縮していた。


“ですが、私個人としては、Aにはごく平凡な幸福を手にしてほしいのです。何も知らないあの子を、茨の道へ導くことは可能な限り避けたいことです。Aが孤児院を出る時は私が後見人になりましょう。彼女が成人してからも決して目を離しません。そのかわりに私のこの切実な願いを叶えていただけませんでしょうか? セルジオ先生、私は、Aにはこの世の誰よりも平穏に暮らしてほしいのです。たとえば、あなたがAに香薬学を教えてくださり、Aが香薬師の免許を……”


手紙には続きがあったが、アマリアはそれを元通りに折りたたみ、孤児院長の机の下へ放り出した。隣室から何者かの足音が聞こえたのだ。アマリアは掃除道具を抱え、逃げるように部屋を飛び出した。


その日は一日中、上の空で、食事も喉を通らなかった。夜になってベッドに入ってからも興奮が冷めず、朝まで一睡もできなかった。


「私の幸せをあんなにも願ってくれる人がこの世にいるんだ」


小さなベッドで寝返りを繰り返し、アマリアは頭の中でルイシュの手紙の文面を何度となく思い出して、その驚くべき事実を噛みしめ、胸をときめかせた。


子供たちは13歳になると孤児院を出ていかなければならない。孤児院は奉公先を見繕うなど最低限の面倒を見てはくれるが、孤児たちを待ち受けているのは困難な人生であることが多い。何の後ろ盾もない孤児院出身者はきつい肉体労働に従事させられることも少なくない。


もし奉公先でやっていけなければ浮浪者となり、治安部隊に逮捕されて救貧院へ収容されるか、人買いにさらわれて農園や産業施設や娼館へ売り飛ばされる。12歳のアマリアには己の暗い行く末がぼんやりと見え、人生に望みを感じられずにいた。


だが、顔も知らぬ父親かもしれない人物が、アマリアの幸せを切実に願ってくれている。その事実はアマリアの腹の底の冷たい孤独を溶かし、胸の奥に生きる希望を灯した。ルイシュの手紙は、幸せになることを諦めない決心をアマリアに与えてくれたのだ。


「おまえは頭の回転が速いし、物覚えもいい。それに、心が優しい。香薬師を目指す気があれば、今日から香薬学を教えるが、どうする?」


手紙を盗み見た3日後、元香薬師である孤児院長はアマリアへそう尋ねた。アマリアは少しだけ驚いた振りをして、それから「よろしくお願いします」と答えた。


13歳になっても、アマリアは孤児院に残った。昼間は子供たちの面倒を見たり孤児院の雑務をこなし、夜は孤児院長から香薬学を学ぴ、明け方までの時間は予習と復習に当てて暮らした。


孤児院は善良な貴族や商人の寄付で運営されていた。15歳になり孤児院の出納管理を任されるようになると、アマリアは支援者リストにルイシュの名前を見つけた。ルイシュの寄付金額はいつも2番目に多かった。


最も多く支援してくれていたのは王宮香薬師のコンスタンサ・フェレイラ・ディアスだ。薄毛治療の香薬開発で巨万の富を得た彼女は慈善活動に熱心で、あちこちの施設に多額の寄付をしているのだと孤児院長は言っていた。やがて彼女は若くして病没したが、本人の遺言により、莫大な遺産のすべてがポルトゥカーレ中の施設へ寄せられたという。


20歳になるとアマリアは香試を受けた。合格者の平均年齢が40歳という難関を突破し、ポルトの新聞“ソル・ド・ポルト”が「先日逝去した前王宮香薬師のコンスタンサ以来の才媛」とアマリアを褒めちぎった翌日、孤児院へひとりの男が現れた。


応接室へ呼ばれたアマリアはそこで初めてルイシュと対面した。


その頃、ポルトでは“トライアングロ”という芝居が流行っていて、その登場人物のモデルがルイシュだということが街で話題になっていた。芝居の中で、ルイシュは香試に落ちたり、好きな女の子に振られたり、財布をスられたり、底なし沼に落ちたりする不憫なキャラクターとして描かれていたが、実物は精悍な顔つきの理知的な男に見えた。


不機嫌そうで目つきの悪い、やや胴長ながら平均的な身長の34歳の男は、アマリアが噂に聞いて思い描いていたイメージと合致するような、全く違うような、期待通りのような、想像以上のような、不思議な人物だった。


幸福な困惑を背中の後ろに隠し、アマリアは喜びを噛み殺しながらルイシュの前に立った。彼は応接室のカウチから立ち上がり、茶褐色の瞳を見開いて、アマリアの姿をじっくりと凝視した。


「……アマリアなのか?」


人の声を聞いて「柔らかくて温かい」と思ったのは初めてだった。アマリアが「はい」と応じると、彼は今にも泣き出しそうな顔になり、背中を丸め、それから、アマリアを両腕で力一杯に抱きしめた。


突然のことに驚きながら、アマリアはルイシュの腕の中で目を閉じた。まぶたの裏に浮かんだのは、12歳の時に盗み見た、あの手紙だった。あの手紙を読んだ日から8年が経っていたが、アマリアはその文章の一字一句を、ルイシュのつづった文字のひとつひとつを、そのインクのかすれさえも、すべてを鮮明に覚えていた。


私に生きる希望を与えてくれた人。受け入れるしかないと思っていた運命と戦う勇気をくれた人。香薬師になるという目標を示してくれた人。父親かもしれない人。やっと会えた。アマリアは身体から溢れ出るほどの幸福を感じ、同時に、やりきれない切なさを覚えた。「この人が父親でなければいいのに」と初めて思ったのはその時だった。


孤児院長がわざとらしい咳ばらいをすると、ルイシュははっとした様子でアマリアを解放し、己の居住まいを正した。


「アマリア、こちらは私の知人の慈善活動家で、国土保安開発省大臣の副官のルイシュ・ダ・コスタ子爵だ。おまえも知っていると思うが、この孤児院にも昔から多額の寄付をしてくださってる」


堅苦しい口調で孤児院長が紹介すると、ルイシュは無愛想な顔でアマリアに右手を差し出した。


「コスタだ。よろしく。孤児院を出て香薬屋を開くつもりなら、成年となるまでの5年間、私が君の後見人になろう」


つい1分前まで渾身こんしんの力でアマリアを抱きしめていた男とは別人のように、素っ気ない言い方だった。アマリアは混乱しつつ、ルイシュが何かを隠していることを悟った。


教会とポルト市長の承認が下り、ルイシュがアマリアの後見人と認められたのはその3週間後。アマリアが孤児院を出て香薬屋を開いたのは、そのさらに3週間後だった。


それから3年が経ったが、アマリアが両親についてルイシュに尋ねることはなかった。あの手紙に書かれていたCという人物が何者なのか、なぜアマリアが乳児の頃に孤児院へ託されたのかも分からないままだ。問いただしたいすべてを心の奥に封じて過ごしてきた理由はふたつある。


ひとつは、ルイシュの名誉を守るためだ。アマリアとルイシュは14歳差だ。もしアマリアが彼の娘だとしたら、24年前に醜聞まがいの何かがあったことは想像に難くない。そして、もうひとつは、真実を知るのが怖かったからだ。


もしもルイシュが「おまえの父親は俺だ」と告白したら、アマリアの胸で育つ小さな夢は粉々に砕け散る。この夢をもう少し見続けたいと願うアマリアと、真実を隠し続けたいルイシュの利害は一致し、ふたりはアマリアの出自について話題にすることはなかった。


今日の、この時までは。

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