6(挿絵)

 怪物は、”銀の河”を越えてやってきた。


 宇宙の彼方の闇の底から、千年でも万年でも、億年でも足りない歳月をかけてやってきた。



 その旅路は、孤独だけが道連れだった。


 ”それ”が何から産まれたのか、もしくは産まれたではなく”発生した”なのかは誰も知らない。


 ”それ”以上の年月を生きている者など、神か悪魔か、精霊かドラゴンか、とにかく超常の生命体くらいしかいなかったからだ。

 そして、彼らには星海せいかいの果ての果ての、そのまた果てに産まれたちっぽけな何かになど、興味があるわけがなかったからだ。


 また、”それ”が産まれた時には周りに何もなく、誰もいなかった。

 だから、”それ”のことが分かる者などこの世界には誰もいなかったのだ。


 とにかく産まれた時には一人で、それからもずっと一人ぼっちだった。


 けれども、それを寂しいと思った事はなかった。


 孤独とは、自分と他者の間を比較し、初めて発生する概念だからだ。

 産まれてからずっと他者の存在を知らずに過ごした”それ”には、孤独という概念は存在しなかった。


 ”それ”は自意識も希薄で、そこに”居る”というより、”在る”と言うのが正しいありようだったのだ。


 ただし”それ”は、目だけはたくさんもっていた。


 一方向のみならず、全方位をずっと眺めているうちに、”それ”は”他者”を認識した。


 闇黒の海のその先に、小さくまたたく光があった。


 その光はたくさんあって、時には仲良く二つ並んでいたり、仲睦まじく”くるくる”と回ったりしていた。

 そうして初めて、”それ”は思った。


 ────うらやましい。


 ────なかまにいれて。



 ”それ”は初めて、”孤独”を知った。



 そして、仲間に入るために、歩き始めた。



 ”それ”に、宇宙についての知識や星についての知識などは、到底あるはずがなかった。


 だから、その仲睦なかむつまじく並んでいる星同士が、天球に張り付いて隣り合っているように見える星同士が、実は何億光年も離れている事になど思いいたりもしなかった。


 ましてや、彼らにたどり着くのに光の速さでも何億年もかかるなど考えもしなかった。



 それからの旅路は、ただただ哀しいものだった。


 手を伸ばしても届かない彼方の星々は、時折強くまたたいてはその手の先からこぼれ落ちていく。


 最初に仲間に入りたいと思って目指していた星は、数千年前に光って消えた。


 星の寿命すら超えて生きる”それ”には“とんと”見当がつかなかったが、それは超新星爆発スーパーノヴァという、命尽きた星が放つ最期の光だった。


 旅を始めた時に見えていた星は、もう既にない。

 他にも色んな星があったが、あまりにもたくさんありすぎて、どれがどれかなど分からなくなってしまっていた。


 ”それ”の旅が十億年を超えた頃には、もうすでに歩き始めた動機すらおぼろげになっていた。


 ただ、寂しかった。


 一人は、寂しかった。


 もう、あの仲睦まじい双子星だなんて贅沢は言わないから、誰でもいいから一緒に居たかった。



 それでも、光は遠かった。



 宇宙には絶対の座標がなく、その距離や方向や速度は相対値でしか測れない。

 星は常に、時速何万km、何百万kmという超高速で宇宙空間を駆け抜けているからだ。


 だから”それ”は、その移動先に向かって常に方向を補正し続けなければ、自分が向かっている星には辿り着くことなど出来やしないのだ。


 そして星の光の強さは星それぞれで、また光は距離によって減衰するものだ。


 光が強ければ近いかと言えばそんな訳でもない。

 光が弱い近い星もあれば、光が強く遠い星もある。


 ただ光だけを見て判断するには、途轍もなく高度な天文学や特別な設備が必要だ。


 またこれも到底気付くはずもない事だが、”それ”が目指した星はの色は、星自体の実際の色よりも赤く見えていた。


 光のドップラー効果────その名を『赤方偏移レッドシフト』と言う。


 高速で彼方へ遠ざかる光のスペクトルが、長波長赤色へとずれる現象だ。

 その星々は、”それ”の速さでは到底及びもつかない凄まじい速度で、彼方へ向かって遠ざかっていたのだ。


 これがせめて、青方偏移ブルーシフトを示す星であればと、そう悔やむしかなかった。


 知識もなく、技術もなく宇宙を彷徨さまよう”それ”は、ただの迷子だった。


 永劫に近い寿命をもち、死ぬこともできずただただ彷徨い、孤独に震えて泣き疲れた迷子だった。



 その旅が終わったのは突然のことだった。


 そこに見えるのは、小さな小さな星だった。

 それは彼方にまたたまばゆい星々に比べればとても暗く、小さく、ちっぽけな岩の塊だった。


 青色だった。

 緑色だった。

 茶色だった。

 白かった。


 自ら光を放つこともできず、恒星の光を受けて初めてその姿を見せる小さな岩の惑星は、けれどもとても美しかった。


 もしかしたら、それの旅のその間にも、近くにそんな星はあったのかも知れない。

 ずっと彼方の星ばかりを見ていて、気が付かなかっただけなのかも知れない。


 歩き疲れて初めて、そこにある事に気がついたのだ。


 ”それ”は、少しばかり形が崩れて綺麗な球とは言えないその星の、一際ひときわ綺麗な場所に引き寄せられるように近づいた。


 その後は、一瞬の出来事だった。


 星の重力圏に足を踏み入れた瞬間、落とし穴にでも落ちたかのようにその星に引き寄せられ、気付いた時にはクレーターの中心に居た。


 初めての大地、初めての空気、初めての森。


 初めて、初めて、初めて尽くしのその世界で、”それ”は楽しくてはしゃいでいた。


 だから、”それ”は気付かなかったのだ。



 鳥や獣、植物なんて、自分にかかれば一瞬で叩き潰される程に自身が巨大で、強大だと言うことに。



 森は”それ”が墜落した衝撃波で消し飛んだ。


 獣は皆、目を合わせて話そうとすると、狂ったように岩や木に頭を打ちつけて死んだ。


 やがて小さな生き物たちは先を争うように四方八方へ逃げていった。



 怪物は、また独りぼっちになった。



 そこに彼がやってきた。


 硝子ガラス玉の様に無感動な目をした、捩くれた角を持った少年がやってきた。


 ”それ”は少年にも同じ様に、邪視で思いの丈をぶつけた。

 その邪視に、怪物の思いの全てを載せて。


 彼の永劫の寿命とその孤独な旅路、世界の全てを覆い尽くすような闇黒あんこくの海の光景、それを目を通じて脳に直接叩きつけられて正気でいられる者など誰もいなかった。


 だが、その少年だけは違った。


 気が狂うことなく、壊れることなく、”それ”を受け入れてくれたのだ。


 産まれてからずっと幽閉されてきたその少年は、孤独への強い耐性があった。

 孤独なことが当然で、孤独でない事を恐れることも、悲しむこともなかったのだ。


 塔の中と塔から見下ろす街並みだけが世界の全てだった彼は、人々が楽しく笑いあう昼間の街並みが反吐が出るほどに大嫌いだった。

 いつだって、彼に優しいのは、夜の闇だけだったのだ。


 そのせいだろう。

 その少年だけは気が狂うことなく、いや……初めから狂っていたからこそ、彼は怪物の目を直視出来たのだ。



 怪物は、独りぼっちではなくなった。



 怪物と少年は、邪眼を通してお互いの全てを知った。



「君は、寂しかった?」


 少年は怪物の目玉の小山をかき分けて歩み、やがてその大きな口の中にある“目”の前にやってきた。


 彼はその巨大な眼球を至近距離から見つめ、優しそうに微笑むと、その目玉を抱きしめて、頬擦りをした。


 怪物には涙腺などなかったが、仮にあったとしたら、きっと滂沱ぼうだの如く涙を流していた事だろう。


「一緒に行こうか」


 少年には、怪物の事はなんでも、手にとるように分かった。


 だから、“一緒”になれる事も、分かった。


 怪物の目は、見る者全てを狂わせ、殺してしまう邪眼だ。

 そうでなくとも、魔獣ですら生易しいこの凶悪無比きょうあくむひな外見では、他の生物と触れ合うことなど望めるはずもない。


 だから彼は、喰われる事にした。


 最初で最後の“友達”のために、その身体を貸す事にしたのだ。


 それを化物も理解した。



 それは一瞬の出来事だった。


 ぱくり、とその口が閉じられ、怪物は少年を食べてしまったのだ。


 少し咀嚼するような仕草をした後、怪物はどんどんと小さくなり、一時いっときするとそこにあったのは、”それ”が喰ったはずの少年の姿だった。


 ただし、その目は爛々らんらんと邪悪に輝く真紅色に、そしてその口内は孔雀翠ピーコックグリーンの毒々しい色をした粘膜へと変わっていた。


 他にも背中や尾骶骨びていこつのあたりから怪物についていたものである無数の触手が生えていたが、彼が”むむむ”と少し力を入れる仕草をすると、ずるりと身体の中に引っ込んでいった。


 怪物だった少年は、自分の尻を確認して「よしっ」と一つ頷くと、どこかへ向かって歩き出した。


 目的地などなかったが、そんな事はもはやどうでも良いことだ。



 怪物はもう、独りぼっちではないのだから。



 ◇◇◇



 小太りの人の良さそうな顔をした商人────トマソン・クックは、あの火の玉を見た夜に、本能的な危機を察知し、震え上がった。


 それは人に備わった第六感だったのかも知れないし、商機しょうきを逃さない商人の鼻が、商機をいっした事を察知したからだったかも知れない。


 とにかく、この先に行ってはいけない事だけは確信できたのだ。



 彼はすぐに商隊の荷物をまとめて火の玉と逆の方向へと向かう事にしたのだが、商隊を形成する他の商人たちは、折角仕入れた品を持って蜻蛉とんぼ返り────火の玉の落ちた方角が目的地だったためだ────するのを嫌がり、そこで商隊は再編成となった。


 三分の一程がトマソンに追従して逃げることを選んだが、彼らもまた優秀な商人であると言えるだろう。


 この先で起こっていた未曾有みぞうの大災害の事を思えば、間違いなく正しい選択であったことは疑いようもない。


 ただし、最良の選択が選び取った最良の未来が、何事もなく家に帰りつける安穏あんのんとしたものであるという保証はなかったのだが……。



 彼らは可能な限り急いで────と言っても馬を潰すような“なりふり”構わない速度ではなかったが。それでも荷が崩れないぎりぎりの速度で────引き返し、その時に最も近くにあった砦、先に立ち寄ったばかりのアリートゥス砦へと保護を求めた。


 アリートゥス砦は、〈アインガルド帝国〉の支援によって〈ガンダニア〉は〈アリートゥス〉に建設された砦だ。

 その砦は内部がとんでもなく巨大な事で有名だった。

 なぜそんなに有名なのかと言えば、着工当初からその内部構造などが”ろくすっぽ”秘匿ひとくされることもなく建築が進められていたからだ。


 なぜ軍事拠点にも関わらずその内部が秘匿ひとくされていないのかについては、何やら政治的な思惑があったらしい。

 ……が、それは一介の商人であるトマソンには預かり知らぬ事だった。


 どうやらこの砦自体が物資輸送の拠点として作られていたらしく、その物資を運ぶ商人などもまた、内側に入れても別に構わないという前提の代物らしかった。

 軍事拠点ではあるのだが、商人は砦に嗜好品しこうひん贅沢品ぜいたくひんと言った、砦住まいの無聊ぶりょうなぐさめる”あれこれ”を売る事で、その滞在中の便宜べんぎはかることが出来た。


 国の用意した支援物資は勿論あるが、そこには酒や煙草は息抜き程度にしか含まれていないものだ。

 そのあたりの福利厚生は天下の〈アインガルド帝国〉も大差はなかった。

 好みの酒はなければ”つまみ”になるものもないし、煙草だって銘柄の好みになど答えてくれる訳もないのだ。


 そんな彼らにとって、砦では到底手に入らない贅沢品ぜいたくひんを売ってくれる商人はまさに砂漠のオアシスで、駐屯する兵士たちにはとても重宝されていた。


 そして商人たちにとっても、メリットがある。

 傭兵や用心棒とは比べ物にならない練度れんどを誇る本職の兵士の庇護ひごの元、砦の中でゆっくりと眠れるというのは、多少安く嗜好品を売ってもお釣りが来るほどの旅の贅沢だったのだ。


 それ以外にも、砦を離れられない兵士は遠方の情勢を、遠くからやってきた商人たちは近隣の情勢を、という情報交換としても有用だ。


 そういう訳で、砦への物資の商売は、行商を行う商人にとっては一石二鳥以上の価値がある有用な”商談”だと言えた。



 さて、話を砦に戻そう。


 顔を見知った商人たちが、砦を出て数日で脱兎だっとごとく逃げ帰ってきたのだ。


 兵士たちは温かく迎え入れたが、やはりあの火球は何かとんでもない事態を引き起こしたのかと、少しばかり気が”そぞろ”で浮き足立っていた。


 あの夜の火球を見ていたのは何も商人たちだけではない。

 この砦の兵士も同様であったし、彼らの間にも不安はあったのだろう。


 前述の通り、外からの情報を持ってくる商人は、砦を離れられない兵士にとって貴重な情報源だから、何か話が聞ければと考えたであろうことは想像に難くない。


 けれどトマソン達はすぐに引き返したため、道中の村の者達の様子くらいしか見てきた情報がなかった。


 彼は、そこはかとなく申し訳なさを滲ませてそれを告げたのだった。


「────というわけで、私共わたくしどもも取るものも取りあえず逃げ帰った始末でして……。いやはや、申し訳ない」


 それに砦の指揮官であるポヴィラス・カーハンは、気にしていないと言う風に鷹揚おうように応えた。


「いやいや、構わんよ。それよりも無事でよかった。あれはかなりの揺れだったからな……」

「ええ、馬車がひっくり返るかと。街道も地割れだらけで大変で……。ああ、そう言えば……帰りは普段より魔獣を多く見かけた気がしますね……」

「……ああ、それはこちらでも把握している。見かける魔獣も、砦に向かってくる魔獣も普段より多い。奴らも混乱しているのかも知れんな」

「やはりそうでしたか……」


 そこまでに開陳かいちんされた情報はトマソンの予想通りだった。


 人間があれだけ慌てふためくような揺れなのだから、魔獣たちもそうだろうとは思ってはいたのだ。

 そこで彼は後ろを振り返り、他の商人達と視線を絡めて一つ頷いた。


 事前にいくつもの相談をしていたのかも知れないが、そのアイコンタクトだけで、同道した彼らには言いたいことが伝わったのだろう。

 彼らも揃って頷き返していた。


「指揮官殿。私どもの商隊の品から、食糧や武器を安くお譲りいたしますので、しばしの間、砦に置いて保護してもらえませんでしょうか?」

「おお……それはこちらとしてもありがたい! 万が一のことがあれば物資の不足も考えられる。むしろ私から頼みたいくらいだ。この砦に滞在する間は皆様を我が国の民と思い、しっかりとお守りしよう」


 緊急時の物資の調達に便利な商人が滞在してくれるとあって、ポヴィラスは喜色きしょくにじませた。


 砦を預かる立場である指揮官、そしてまた情報が命の商人にも、こういう局面で起きる可能性がある事態として”ひとつの現象”が頭の片隅にあったのだ。


 それが、『海嘯タイダル・ボア』だ。


 魔獣の氾濫を指して、甚大なものでは港町すら飲み込む高潮である『海嘯かいしょう』にたとえてそう呼ばれているのだ。


 地球では、ブラジル周辺ではアマゾン川をさかのぼる『ポロロッカ』、ベネズエラではオリノコ川で同じく『マカレオ』としてよく知られている。

 魔獣の海嘯タイダル・ボアについては、東方世界オリエントでは『津波ツナミ』と言う国があるらしいが、西方世界オクシデントでは『海嘯タイダル・ボア』という呼び名が一般的だ。



 原因となるであろう火球と大地震は既に起きた。


 さらに魔獣の行動がおかしいという前兆がある。


 となれば、その規模は想像もつかないが、”それ”が起きる可能性だけは極めて高いと言えた。


 不足するかも知れない物資、そして戦時に近いストレスの掛かる兵士たちのための嗜好品を抱えた商人が居てくれるのは、砦側としてもありがたい申し出だったのだ。


 こうして商人と砦の兵士たちは、近く起きるであろう未曾有みぞうの大災害に対処すべく、共同で砦を守る事となった。



 ◇◇◇



 この砦から爆心地グラウンド・ゼロを挟んで数日の距離にある、”小さな王国”が滅んだ頃、この砦にも魔獣が現れはじめた。


 彼らが知る事はないが、その王国よりも直線距離でかなり爆心地から離れていたこの砦に現れた魔獣は、かなり少なかった。

 とは言え、人の身には余る災害である事は違いない。


 だが砦と言うだけあって、ここに詰める兵士たちはいくさ専門家スペシャリストだ。

 更にはこの国────〈ガンダニア〉は、かの軍事大国〈アインガルド帝国〉の東部に位置する属国のうちの一つで、政治的取引の末にその国土に見合わぬ精強な軍事力を保持するに至っていた。


 これだけの条件が揃えば魔獣ともかなり余裕を持って戦えるものだ。

 小型の魔獣の波は鼻歌混じりで耐え抜き兵士たちは交代で休息を取り、士気の維持のために多少の酒も振る舞われたのだった。


 やがてそこに混じり始めた中型の魔獣も、この砦に詰めていた軍所属の魔術師によって退しりぞけられた。

 海嘯タイダル・ボアとしては第二段階フェーズとも言える中型の出現には肝を冷やしたが、ここも難なく切り抜けられたのは兵士たちの常日頃からの調練と実力があってこそのことだろう。



 だがその頃、指揮官であるポヴィラス・カーハンは、司令室で地図を睨め付けてしかめ面をしていたのだった。


「中型か……」


 地図はこの時代、大変に重要な軍事機密であり、それ自体はお粗末な出来ではあれど指揮官と一部の上級軍人にしか見られないように厳重な管理下に置かれていた。


 だから、この部屋には今は他には誰もいない。


 その地図には、このアリートゥス砦の位置と、〈シェンゲン諸国〉の国々の国境が描かれており、その内の一つの国の森あたりに、西洋将棋チェスの駒が置かれていた。


 それは、正確にどこかは分からないがおおまかにこの辺りだろうと見立てた、火球の衝突箇所の予測だった。


 あの夜に火球が見えた方角、そして魔獣の現れた方角、火球からどれだけ遅れて現れたかの時差、それらを総合した結果、大まかな位置までは割り出していたのだ。

 このポヴィラスはたかが一砦の指揮官とは思えぬ有能さだが、それは〈ガンダニア〉にとって、それだけこの砦が重要な拠点である事の裏返しでもあった。


 彼は、こまを置いた森と、その周りの周辺諸国を眺める。


「少なく見積もっても、五つは国が滅ぶだろうな……」


 国が滅ぶ、というそれだけでもとんでもない事態であるが、それが五つにもなるという。


 そして彼にはまた、『五』という数字が砂糖を”ふんだん”に使用した貴族向けの甘味よりも、なお甘い見立てである自覚もあった。

 滅びる国はそれより更に増え、そしてその中にこの国が名を連ねないという保証は、どこにもないのだ。


 その森とガンダニアとの間には、少なくともいくつかの小国があったはずだ。

 だが、この砦でさえ、魔獣からこれだけの圧力を受けているのだ。


 軍事力の差を考えれば、間の二国は良くて滅亡。

 最悪で、強力な魔物が蔓延はびこる人の支配を受け付けない『魔境デモンズ・レルム』になった可能性があった。


 そうなれば、この砦は他国との国境を守る要塞から、人類の生存圏をけた魔獣との戦争の最前線に早変わりするだろう。


 この交易ルートはもう使えず、交渉可能な人間ではなく、昼も夜も構わず襲ってくる交渉不可能な魔獣の脅威に晒されるのだ。

 この砦もいつまでもつかはわからないが、たとえこの海嘯タイダル・ボアしのいだとしても、その先に待つのは最悪だけかも知れなかった。



 この国は、〈シェンゲン諸国同盟〉と呼ばれる小国家群────『七大国セブン・シスターズ』に名を連ねるの二つの大国〈アインガルド帝国〉と〈神聖アスタリア〉に挟まれた不安定な地域にある小国だ。

 そのような立地にあるため、これまでの歴史上、何度も、何度も、難しい選択を強いられてきた。


 どの国と同盟を組むべきか。

 他国との外交問題にどう対処すべきか。

 近隣諸国での戦争にどう立場を表すべきか。

 大国の外交圧力や破壊工作をどうやり過ごすべきか。


 一歩間違えれば戦争を仕掛けられ、もしくは戦争に参加せざるを得なくなり、国としての存続が危うくなる。

 そんな事態におちいる可能性が、そこかしこに転がっている、そんな土地だった。


 そんな中で〈ガンダニア〉の王は、世界情勢をかんがみた結果、とうとう〈アインガルド帝国〉の属国となるという、噛みしめた歯茎から血が滲むような選択をしたのだ。


 それにより国内は少しずつ変わっていった。


〈アインガルド帝国〉より派遣された外交官のもと、帝国の東方国境を守るに相応しい軍となるべく調練ちょうれんと再編が行われ、本国の支援を受けて砦も改修と増築がなされていった。


 民俗的な呪術医シャーマンドクター胡乱うろんな占いは少しずつ排斥はいせきされ、治癒魔術と医学という新時代の科学が幅を利かせ始めた。

 一応宗教の自由は保証されているものの、国教はメシエ教へと変わった。

 こころなしか、街中にも軍人以外の外国人が増えた気がする。


 慣れ親しんだ祖国が亡くなってしまうのかと、国民皆が先行きへの不安を抱えながら、それでも暗闇から目を背け、皆で笑って生きていくことを決めた。


 その矢先にこれかと、ポヴィラスは机を殴りつけた。


 だが、同時に思う。


〈アインガルド帝国〉にくだっていなければ、この国にはここまで海嘯タイダル・ボアを耐えられる砦も兵力もなかっただろう。

 この国も、もともとは周囲にある他の小国と大差ない国力でしかなかったのだから。


〈アインガルド帝国〉辺境────他国との国境を守る最前線の属国となり本国支援のもと軍備が拡張された結果、国境付近の砦の密度が大幅に上がり、兵の装備も充実し、軍事力、防衛力が増した。

 その砦が今、国内への魔獣の群れの侵入を拒む盾となっている。


 皮肉なものだが我らが王の決断は確かに正しかったと、ポヴィラスは心の中で尊敬の念を送った。

 今このタイミングで、アリートゥス砦がその運用に小慣れているのが何よりの証拠だ。


 だがその武力を持ってしても、このまま消耗を続ければ一月耐えられるかどうかも分からない。


(援軍要請の早馬は出したが、いつまでもつか……)


 そうポヴィラスは思案するが、これ以上は打つ手がないのも確かだった。


 海嘯タイダル・ボア────これはもはや、自然災害だ。

 嵐や洪水、地震と同じものだ。

 今できる最善を尽くせば、あとは神に祈るしかできることはない。



 ただ、愚直ぐちょくに、迫り来る魔獣をただひたすらに打ち払い続けるしかなかった。



 ◇◇◇



 それから七日、初めの頃ほどの圧力はもう無いものの、中型の魔獣に付き従うように小型の魔獣が集まった群れは断続的に現れていた。

 魔獣に詳しい者の話では、逃げ惑っていた小型の魔獣が、自分より大きな魔獣に擦り寄り配下となったのだろうという予想だった。


 頻度自体は落ちてはいるものの、群れに必ず一頭以上の中型が混じっていると言うのは中々に厳しく、これなら小型の魔獣が押し寄せていた初めの方がまだマシだったと、兵士たちは口ぐちにこぼしていた。



 そんな時の事だった。


 見張りの兵が、気でも狂ったのかと思うような報告をしたのは。


「た、隊長……。あの、こ、子供がいます」

「…………はぁ? 何を言っとるんだお前は。冗談は休憩の時にしろ」


 たくましい顔付きのひげの隊長は、部下の妄言もうげんを叩き切って、双眼鏡を覗き込み監視に戻った。

 呆れ果てた顔をしていたが「これだけ緊張が続いているのだから、多少おかしくなっても仕方がない。だがこれは後で人員入れ替えだな」などと思いつつ不問にしょす事にしたのだ。


「で、すよね。見間違いですよねぇ……」


 報告した兵士の方も、自分がおかしな事を言っている自覚はあったようで「やはりそうだ。見間違いに決まっている」と気を取り直して双眼鏡を覗き込んだ。


 仮に子供が無事にここまで逃げてきたと言う、それだけなら、これほど素晴らしいこともないだろう。

 だが、実際問題としてはあの量の魔物が昼夜を問わず襲ってくる最中さなか、戦えもしない子供が歩いて逃げて来ることなど、不可能なのだ。


「隊長ぉおおお!! やっぱり子供がいますううう!!」


 だが取り直した”気”は、はかなくも一瞬でまた取り落とされることになった。

 兵士は自分の頭がおかしくなったのか、おかしくなったのならこれからどう生きていけばいいのかと半泣き状態だ。


「待て待て。俺が確認してやるから待ってろ」


 髭面ひげづらの守備隊長はそう言って、兵士の持ち場に立ち双眼鏡を覗き込んだ。


 そっと双眼鏡を目から外して双眼鏡をくるくると回していろんな方向から検分する。


 もう一度双眼鏡を構えて森を見る。


 目をごしごしと擦って、もう一度双眼鏡を構えた。


 真顔で兵士の方を見る。


「おい、子供がいるぞ」


 二人は、間の抜けた顔を仲良く見合わせた。



────────────

登場人物立ち絵:https://kakuyomu.jp/users/nekomiti/news/16816700429127459164

・アザト - Azathoth

・カロル・ナストゥラ - Carl Nastula

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