5

 復讐者アヴェンジャーは、ついに謁見えっけんの間に辿り着いた。


 たいして大きいとは言えないこの城は、曲がり角のたびに大きな通路へと向かえば、自然と重要な部屋へと辿り着くことができる。

 城の構造を知らない来客が迷わないように出来ているのだ。

 と言っても、来客には基本的に侍女がつくので迷うことなどないのだが。


 なので、曲がり角で大きな道を選ぶのを繰り返していれば、いずれは謁見の間へと繋がるのだ。



 白月オディエルナ仄明ほのあかるい光に照らされた謁見の間。


 王都の崩壊を招いた最初の大猪おおいのししが一直線に破壊していったせいだろう。

 そこには左右の壁と天井がなく、まるで中庭のような有様だった。


 部屋の中央奥には、ひときわ豪華できらびやかな瓦礫がれきが転がっている。

 金箔が丁寧に貼り付けられた、美しくも繊細な細工が砕け散った成れの果て────それはきっと玉座の破片だろう。


 その証拠に、その近くに転がっていた原型を留めていない挽肉ミンチのような死体の近くに、華奢かしゃな金色を怪しくまたたかせた王冠が転がっていた。


 考えるまでもなく、この豪華な衣を身にまとった死体が王なのだろう。


 原型をとどめていない、アクアパッツァに入れてぐずぐずになるまで煮込まれたトマトのような死体だった。

 その有様からは、大猪の突進の破壊力がしのばれる。


 カロルはその死体の傍に座り、地面に転がっていた王冠を自分の頭の上に載せた。

 何か一つでもボタンの掛けちがえがなかったら、自分がいただいていたかも知れない王冠だ。


 やっとそれを手に入れたと言うのに、気分は全く晴れなかった。


 それはきっと、憎き王を殺したのが自分ではなく、ぽっとの魔獣などと言う部外者だったせいだろう。


 彼にとっての復讐の対象は、王族という人間であり、挽肉ひきにくになった肉塊などではないのだから。


 一応の復讐をげ、後は死を待つだけの彼だが、餓死や自死というのは面白くない。

 餓死は腹が減るのが不愉快だし、自死もそれはそれでなんだか気が進まなかった。


 その時ふと、眠れなかったあの夜に見た、天を焦がすような火球が、そしてその後にこの国を襲った巨大な地揺れの正体が気になった。


 カロルはおもむろに王の死体から作りの良いファーを剥ぎ取りショールのように羽織はおると、先程拾ってきた片手剣を王の死体に思い切り突き立て、玉座を後にした。



 ◇◇◇



 彼は王城を出ると、廃墟街となった目抜き通りを歩いてみた。

 もはや生き残りの居ないその大通りには、人の気配は全くない。


 ここも王城と同じく、辺獄リンボのように血に塗れて、人の身体の一部や魔獣の死体がそこかしこに飛び散っていた。

 だが、人の死体は思ったよりも少なく見える。

 もしや、王都の住人たちは逃げ出すのに成功したのだろうか?


 ……そんな都合が良い話があるわけがない。


 魔獣達が逃げるのにだって体力がいるのだ。


 ここまでずっと走ってきた。

 そしてこれからも走り続けるだろう。


 一度始まった『聖者の行進』は終わらない。


 その葬列は見るもの全てを逃しはせず、等しく列に加えて進み続ける。

 列を成す兵隊が力尽きるその時まで、哀れな子羊を列へ加えながら歩き続けるだろう。


 彼らにとって、その道のりでの体力回復と腹の足しになる”人間”は、絶好の補給物資だ。


 そんな柔らかな肉の食べ放題バイキングは中々ない、とばかりに市街で────あとは想像にお任せするとしよう。


 目の前にそんな新鮮で美味い肉が大量にあったせいか、保存食や水筒などの旅人向けの物資に魔獣は手をつけていないようだった。

 よほど美味しいものでもなければ、それらは綺麗なままで残っていたのだ。


 軟禁されて育った彼には売買や貨幣経済などと言う概念は当然ない。

 目ぼしい物は、特に何の良心の呵責かしゃくもなく、端から次々に拝借はいしゃくしていった。


 店主はもうこの世にいないから良いものの、余りにも自然かつ立派な強奪っぷりが堂に入りすぎて、この世界の全ての物が彼のためにあるような気さえする貫禄かんろくだった。


 カロルには旅の準備などというものは良く分からないが、水と食べ物が必要だということだけは分かっていた。

 あとは護身用に剣も必要だろう。

 ひとまずそれだけを手に入れたら、後は好奇心のおもむくままに歩くだけだった。


 生まれて初めての好奇心を抑える術を、彼は未だ持たない。


 今までずっと塔に幽閉されていたせいで、興味を持つ機会すらなかった彼にとって、外の世界というのは”興味”の大海原おおうなばらだった。

 それは汽水域きすいいきの魚が大海に放り出されるような物で、狭い河口を飛び出して、見る物全てが新鮮な広い世界は、ある意味では毒にも等しかった。


 人間は、赤子の頃はまともに動けない状態で手足でいずり回れる範囲で興味を満たし、幼児の頃は短い足で歩ける範囲で興味を満たし、子供の頃は小さな体で歩ける範囲で興味を満たす。


 そんな段階的な成長で好奇心をぎょす訓練を受けていない彼にとって、初めての外界は刺激的過ぎた。

 彼の好奇心という猛毒は、その判断を誤らせるには十分過ぎる程には強力だったのだ。


 カロルは、人は水と食べ物が無ければ生きていけないという極めて程度の低い常識だけを頼りに荷物をまとめ、爆心地グラウンドゼロに向かって歩き始めた。


 それは普通の人間、ましてや旅の心得もない王族にとっては死出ししゅつの旅に等しい道程だった。



 本来、森というのは脆弱ぜいじゃくな人間が単独で生存できるような生易しい環境ではない。

 魔獣の脅威きょういや飲料水と食料の確保、進む方向の選定に体力の配分、滑落かつらくなどの危険の回避と、森や山に入るには多種多様な技術が要求される。


 当然、水と保存食だけという全く持ってお話にならない装備で森に乗り込んだカロルにもまた、死というお約束の結末が待っている。

 ……はずなのだが、大海嘯タイダル・ボアという未曾有みぞうの危機は、意外にも彼の旅路を助ける道標コンパスになっていた。



 まず方角だが、これはもう何も考える必要がないほどに分かりやすい。


 あれだけの魔獣が大挙たいきょして押し寄せた森が無事で済むわけがなく、倒れた樹木や踏み鳴らされた草花を観察していれば、行き先がどこかなど考える必要もなかった。

 倒れている草と逆向きに進めば、いずれ彼の求めるものに辿たどり着くのは明らかだからだ。


 次に体力だが、彼は魔族の隔世かくせい遺伝により、魔族特有の強力な身体能力と魔術適正があった。


 それが彼に、只人ただびとを大きく凌駕りょうがする体力を与えていたのだ。

 その身体能力は、彼に向かってくる僅かに残った魔獣の掃討そうとうにも随分と役立っていた。

 護身用にと適当に奪ってきた小剣を叩きつければ、小型の魔物など簡単に殺せてしまうのだから。


 そして森を歩くのに不向きな彼の服装についてだが、あまりに多くの魔獣が群れで移動したせいで舗装ほそうでもされたのかという有様の森の中は、とても歩きやすかったのだ。


 本来なら肌を傷つけるような鋭い草やつる、毒を持っているかも知れない花のとげが、等しく地面で”押し花”にされていた。

 当然、木も同じように踏み慣らされて地面にめり込んでいる。


 森はあれど山はない、高い所でも標高は五十メートルあれば十分と言うこの付近の地理的特徴もまた、彼の旅路を助けている要素のひとつだ。

 体力消費が一定で済む平地が、ずっと続くのだから。



 それら全てを束ねても、王都から国境、そして隣国を超えて爆心地へという旅路を踏破できたのは、それぞれが小国だから、と言うのが大きい。

〈ウクフ王国〉とは言うが、王都と多少の村を持つだけの、小国だ。

 王と言ってもせいぜいが領主に毛が生えた程度のものだったのだ。


 その大きさは国というより州か市だったが、地球の欧州ヨーロッパに限って言えばそんな小さな国も多くはないが存在しているし、その中でも教皇庁ヴァチカンに至っては一瞬で出国が出来る程度の広さしかないのは有名な話だ。

 ……まぁ、この国は流石にそこまで小さくはないのだが。


 彼の驚異的な身体能力と国の小ささがあってこそ、あのような森をめているとしか思えない装備でもここまで辿たどり着けたのだろうと思う。


 それはきっと、ぞくに言うところの”運が良い”ということなのだろう。



 ◇◇◇



 かくして少年は、その好奇心の終点へと辿り着いた。


 彼の目の前に広がっていた光景は、壮絶の一言に尽きるだろう。


 爆心地を中心に、周囲の木々は火災を起こす事なく一瞬で炎上し尽くし炭化。

 あるいはその爆風でなぎ倒されていた。


 これは山火事のように木から木へと燃え移り、延焼させつつその面積を広げるような、ちまちまとした燃え方ではない。

 一瞬で燃え尽きたのだろう。

 木から木へと燃え移るためには燃えていない木が必要だが、火球によって全ての木々が一瞬で残らず燃え尽きてしまえば、地面に火種は残りはしても、木が燃え続ける事はないのかも知れない。


 爆発の中心部はまるで盆地のように地面が消失していたが、あれから雨は降っていないせいか水は溜まっていなかった。


 地面が乱暴に掘り起こされ、一定範囲の木が燃え尽き、外側の木は全て放射状に薙ぎ倒されているのを見て、大自然の起こす圧倒的な破壊に言葉をなくす。


 その様子は『ツングースカ大爆発』を彷彿ほうふつとさせたが、この世界に同様の災害が存在しているのかどうかは謎だった。



 果たしてその大破壊の中心に居たのは、数えきれない星を束ねて優雅に流れ行く”銀の河”を越えて、空の彼方から流離さすらってきた『星海の過客ベイグラント』。


 夜天を覆い、世界に闇黒あんこくとばりをかけて死と静寂の夜をもたらす夜空から落ちてきた、孤独な旅人だった。



 ◇◇◇



 それを一言で表すとすれば……いや、一言で表すのは無理というものだろう。


 それどころか百、千、万の言葉を尽くしても不可能だと思えた。


 名状しがたいとはまさにこの事か。

 人が何万年も掛けてつむいできた、『言語』という人種ひとしゅ叡智えいちの至宝が太刀打ちすらできず、一刀の下に斬り伏せられるのを感じる。


 目だ。


 赤い、丸い、大量の眼球。


 それがまるで収穫したばかりの葡萄ぶどうをいっぱいに詰めた藤籠バスケットの戦利品のように、こぼれんばかりに密集している。


 眼球というのは視床下部から脳へと神経でつながる、生物にとっては重要な部位のはずだ。

 だというのに、それが鈴生すずなりの葡萄のように無造作に寄り集まって名状し難い形状を形作っていた。


 目の密集地帯の中心部にあるのは、緑と黄土色の混じったような色をした触手の塊だ。


 その触手の至る所にまた目が生えており、口が開いており、毛糸玉のように絡み合いうねうねとうごめいて……とにかく、名状し難い形状だった。


 そうして、それらの中央に鎮座しているのが巨大な、丸い、口。

 その汚い歯並びの醜悪しゅうあくな口の中には、これまた眼球がぎっしりと詰まっており、そこに混じる一際大きな目玉だけが、確固たる意思を持ち視線を巡らせ、この名状し難い目玉まみれ”何か”の中で、唯一の知性を感じさせている。


 おそらく、この巨大な目玉が怪物の本体なのだろう。


 ここまで必死に言葉を尽くしてみたものの、やはりそれで適切に表現ができたとは言い難い。


 方向ベクトルは違えど、雄大にして神秘に満ちあふれた美しき大自然を前にして、視覚も含めた五感全てが訴える情報の波に言語ブローカ野が無力に押し流されて、全く言語化できないあの感覚と似た言語の限界というものをさとる。


 一言で済まされる「名状し難い」と言う言葉は、八方手を尽くし、ありとあらゆる努力をした上で、それでもなお不可能だったという、万感ばんかんを込めた諦観ていかん極致きょくちにある言葉なのだと理解した。


 きっとそれをみた人は、泡を吹いて意識を手放すか、目を抉り出して全ての視覚を拒絶するか、気が狂って自害することだろう。


 とにかく人の頭で耐えられる限界をとうに超えたその生物は、見る人と目を合わせるだけで精神を粉砕出来るだけの、腕力でも魔力でもない全く次元のことなる未知の力を持っていた。


 無理矢理にでも表現しようとすれば────それは邪神だ。



 精神を破壊する邪視の集合体だった。



 そしてカロルは、これを完全に見てしまったのだ。

 きっと、もう手遅れだろう。


 彼は好奇心という自らの頭の中で暴れる獣をぎょしきれなかったばかりに、来てはいけない所へ来て、見てはいけないものを見てしまった。

 ここにさえ来なければ、彼ももう少し長く生きられたかも知れなかったのに。


 彼は一歩、前に進む。

 抑えきれない好奇心がその鎌首の標的を定める。


 その目は、まるでお気に入りの木の枝を見つけた子供のようにきらきらと純粋な輝きに満ちていた。

 城にいた時の、濁ったガラス球のような目は、腐った生ごみの成れの果てのような少年は、もうどこにもいなかった。



 ……嗚呼ああ、そうだ。

 彼はもう、とっくの昔に、どうしようもない所まで狂ってしまっていたのだった。



 カロルはそれと目を合わせた瞬間、まるで産まれる前からそれと出逢う運命だったのだと、理性と知性すら超えて本能が知った気がした。


 自分の境遇と重ねて親近感を頂き、唯一無二の親友と出会ったような感動に襲われた。


 その怪物のそれまでの生の全てを、思考の全てを、絡み合う視線を通して理解した。


 ────理解出来てしまった。


 それが、その怪物の邪視。


 それの正体にして、本質だった。

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