7

「おっきい〜!」


 オレンジ色が僅かばかり混じった黒髪に、”ぐるり”とねじくれた角を生やした少年が砦を見上げ、”ぴょんぴょん”と跳ねながら楽しそうな声をあげる。


 その少年の姿は、あの爆心地グラウンド・ゼロにいた怪物が、カロルの姿を借りて変化したものだった。


 どうやら、怪物は爆心地から遠路遥々えんろはるばる、この砦まで歩いてきたようだ。


 カロルの忌々しい故郷とは反対側に向かっているのは、果たしてカロルの意思なのか怪物の意思なのか、それを知る者は誰もいない。



 怪物は、カロルを取り込んだ際に、人としての姿のほかに彼の知識や記憶も共有していたらしく、言葉も話すことができるようになっているようだ。

 ……と言っても、知識や記憶があったところでおつむ出来できは化物のままなので、話せるとは言えど、その内容は幼児程度が関の山だが。


 彼の容姿は、その粘膜ねんまく孔雀緑ピーコックグリーンというのが玉にきずだが、それを除けば、おおむね汎人類種をかたろうと思えばなんとかなる容姿にはなっている。

 少なくとも、このくらいであれば何かニッチな亜人の混ざり物で通じるだろう。


 無論、触手が漏れれば流石に一発で退場レッドカードだが。


 もともとカロルにあった、彼が軟禁される原因となった魔族の角については、〈アインガルド帝国〉にくだったこのガンダニアでは何も問題はない。

 なにせアインガルド帝室には魔族もいるのだから、宗主国の皇族と同じ種族を、属国の人間がどうして悪く言えようか。

 帝国の国内においては、彼らまぞくに対する人々の心証は悪くない────権力者として、であって為人ひととなりではないが────し、彼らを公僕こうぼくの前で悪様あしざまに言えば不敬罪はほぼ確定で、場合によっては反逆罪の疑いすらかかってしまうだろう。


 故に、この国の兵士である、アリートゥス砦に詰めている兵士たちには、今はそのような差別意識はない。

 そして”よしんば”心の奥底で差別意識があったとしても、それを顔や態度に出すのは許されはしない。


 逆に言えば、〈アインガルド帝国〉の皇室に魔族がいるせいで、それと敵対する辺鄙へんぴな小国では悪魔だなんだと迫害されている、という見方もできなくはない……。

 まぁ、それは悪魔、魔族差別に関する難しいところだろう。


 彼らから見たら敵国で権力を握る種族なのだから、十把一絡じっぱひとからげに差別対象とされるには足る理由ではある。

 ……勿論もちろん、差別はよろしくないと言うのは大前提として、だが。


 けれどもしかすると、カロルの祖国であるウクフ王国もそのような意識が濃く根付いた国のひとつだったのかも知れないな。

 そもそも母方の血筋の魔族の血が隠されていたのも、そのせいだったのかも知れない。

 彼の出生を取り巻く事情は、案外複雑だ。



 さて、その歩いてきた少年があの大災害の原因で、さらに言えば途轍とてつもない怪物である事など知るよしもない砦の人間達は、生き残りかも知れない子供の発見に湧いた。

 彼らは魔獣の襲来もないことを確認し、すぐに少年を砦の中に迎え入れる事にしたのだった。


 魔獣がいない件については、その原因は────言うまでもないな。

 そもそも、彼らが逃げ出した原因かいぶつがいるのが分かっていてここに向かってくるようなごうの者など、魔獣の中にも早々いないのが理由だ。

 ……なのだが、これもまた砦の人間には知るよしもないことだろう。


 その怪物を恐れて魔物が近づかなくなった砦の広場では、少年への聞き取りと歓迎が行われていた。

 手練てだれの者でも生きて帰るのは難しいであろうあれだけの惨状の中、ここまで目立った怪我一つなくやって来た少年の強運には、ポヴィラスとトマソンは驚きと感心が隠せない。


「あの惨劇の中、良くぞ無事に辿り着けたものだ」

「ええ、本当に。一人でも無事な方が居るのは、嬉しい事です。お疲れでしょう。お腹が空いたでしょう? 干し肉でもどうです?」


 トマソンは早い段階で引き返したため、十分な食料を持って砦まで辿り着けた。

 だが、この身着みきのままの少年は、本当にその身ひとつでここまで逃げ延びてきたのだろうと彼は思ったのだ。


 彼の旅装とは到底とうてい言えない格好を見てそう考え、少しでも栄養を取ってもらおうと物資の中でも貴重な干し肉を差し出した。

 実際には、その少年の中身はあの怪物なので、食事も睡眠も、旅の準備も何も必要がなかったのが真相なのだが。


「たべる!」


 手を上げて元気に答えた怪物は、差し出された干し肉を”もちゃもちゃ”と美味しそうに咀嚼そしゃくする。


 宇宙空間では食事など当然出来るはずもなく、そもそも自分以外の有機物すら全く存在しない世界だった。

 なので彼は、これまで食事という食事をしたことがないのだ。

 つまり、怪物にとってこの干し肉は、この世界に生まれ落ちて初めてのまともな食事だった。


 そのせいもあってか、一口で噛み切れない硬さとしつこく口に残る繊維、それに肉の旨味と濃い塩味という、本来であれば旅人が眉をひそめて我慢しながら食べるかスープに突っ込んで調理するそれを、信じられないほどに美味しいという表情で口にする。


 保存食の干し肉と言う、旅や戦場においては最高だが、街でならあまり食べたくはないような代物しろものでさえ、彼にとっては奇跡の産物に思えた。

 怪物にとっては、ただの干し肉ですらも、異世界の王族が食べる美食に等しかったのだ。


 その彼があまりにも干し肉をとても美味しそうに食べるものだから、兵士たちや商人たちはここに逃げて来るまでとても大変な思いをして来たのだろうと、彼の苦労をしのんでいた。

 彼らもまた、粗末な保存食ばかりの糧秣りょうまつでの行軍や旅路の中では、干し肉ですら御馳走ごちそうに感じた経験があったのだろう。


 だからこそ、大変な思いをしてここまで辿り着いたであろう少年の、美味しそうに干し肉を食べる姿を見て、涙を浮かべながらその労をねぎらっていたのだった。

 実際には、特に何の苦労もなくただ”てくてく”と歩いてきただけなのだが。


「あなたのお名前をお伺いしても? 私はトマソンとお呼びください」


 干し肉を少年に手渡しながらトマソンが丁寧に問い掛ける。

 子供相手にも温和で誠実な態度を崩さない彼の立ち振る舞いは、魔族らしい見た目をしたこの少年に対してもやっぱり変わらない。


「なまえ?」

「ええ、そうです。あなたのお名前です」

「うーん……」


 トマソンは、少しばかり反省した。

 大変な思いをしてここまで逃げてきて、やっとありついた干し肉を食べていたところで話し掛けられたせいで機嫌を損ねてしまったかと、そう思ったのだ。


 とはいえ、トマソンのように事前に察知して逃げたわけではない、被害を目の当たりにした生き残りの情報は、現状に対処するために貴重な資源リソースだ。

 申し訳ないとは思うのだが、食べながらでもいいので受け答えをしてもらいたいというのが彼の希望だった。


 だが、当の化物の方は、そんな些事さじはまったくもって気にしていない。


 化物が困っていたのは、”名前”だ。

 彼は、”名前”を知らなかったのだ。


 ……当然だろう。

 この星に落ちてくるまでずっと独りぼっちだったのだから。


 名前とは、この世に存在する万物万象を細分化し、振り分けるためのラベルだ。


 この世界に数多あまたの物質や現象があふれているからこそ、その必要性に迫られて産まれたのであって、何もない虚無きょむの最果てでは、名前なんてなくても困ることは何もない。

 名前をつけるべき森羅万象が、そこにはないのだ。


 だから化物には”名前”なんて概念すらなかったのだ。


 少年と通じ、その知識を得ている怪物は、トマソンに何を言われたのかは分かっていたし、”名前”とやらを答えるべきである事も分かっていた。


 だが、自分には名前がない気がする。

 ある気もしてきた。


 でもどれか分からない。


 そして少年の名前は少年の名前で、自分の名前ではないので、それを名乗るのは間違っている事もわかる。

 ではどうすれば良いのだろう……?


 そんな悩みに突き当たり、うんうんと唸っている怪物に対して、ポヴィラスとトマソンは「もしやお忍びの貴族かなにかだろうか?」という懸念けねんを持ち始めていた。

 貴族であればその家名を名乗り砦へ保護を求めても良さそうなものだが、彼は名前を名乗ることすらとてつもなく悩んでいる様子。

 となると、ここで名乗ることで国際問題に発展する程の貴族が、表沙汰おもてざたにできない用事で訪れた地でこの騒乱に巻き込まれた、と考えるのが一番しっくりくるのだ。


 とまぁ怪物相手にとんだ勘違いを……いや、身体は〈ウクフ王国〉はカロル・ナストゥラの物なのだから、勘違いどころかこれは大正解なのか……。

 だがそんなことを考えていた時、やっと化物が口を開いた。


「あ! アザト。アザトだって〜!」


 名前は聞けたものの「だって」という伝聞系でんぶんけいに一瞬戸惑う。

 だが、彼の名前を知る事ができたとトマソンたちは笑顔で頷く。


 しかし、少年が名乗ったのは名前だけだった。


 あれだけ散々悩んだというのに、名前だけを答えて家名は名乗らない────つまり、名乗るわけにはいかない立場であるのだと彼らは解釈した。


 ポヴィラスは、彼に対してはひとまず丁寧な対応をすることを心のうちで決めたのだった。

 全くの見当違いなのだけれど……カロルの身体だと思えばやっぱり正しい対応なので紛らわしいものだ。



 怪物は規格外だ。

 多少の行き違いがあるのは仕方がないというものだろう。


 実際には、怪物が”むむむ”と唸っている間に、彼の中から声がしたのだった。


 それは怪物の唯一の友人たるカロルの声だった。


 食われたように見えて、ただ同化しただけであるカロルの意識はいまだ怪物の中に存在していたのだが、彼はその怪物の真名しんめいをその記憶の海の中から見つけ出し、少しだけ口にしやすく変えたものを伝えた。


 なぜ変えたのかと言えば、それは人の……いや、この世に存在する全ての言語を駆使くしした所で発音することが不可能な、おおよそコミュニケーションというものを足蹴あしげにして放り投げたような名前だったからだ。


 そして、それが名前というよりは種族名────と言ってもこの世界に他に同様の生き物は存在しないので、名前と言っても差し支えは特にないにない。だからこそ、アザト自身もそれが自分の名前だと気がつけなかったのだが……────だったからだ。


 こうして、その怪物────アザトはカロルの助言の通りに自分の名前を名乗った。


 それゆえの伝聞系だったのだ。


「アザトさん、ですか」


 名前を聞いたトマソンは、彼を貴族と断定しつつも家名を名乗らないことで貴族としての扱いを求めていないことを確信した。

 そこでトマソンも、貴族としては扱わないが平民として最上級の礼を尽くせば機嫌を損ねることはないだろうと結論づけて彼に応対することにしたのだった。


貴方あなたは、どこの国の者だろうか?」


 強面のポヴィラスが、可能な限り少年を怖がらせないよう、優しそうな笑顔を作りつつ尋ねた。


 その不慣れな笑顔を見て、後ろで指差して笑っている兵士は後で酷い目にあう事だろう。

 ポヴィラスのこめかみにはピクピクと震える青筋あおすじがたっていた。


「……? くに?」

「ええ、国です」

「??」

「……ん?」


 ポヴィラスとトマソンは、要領を得ないアザトの態度に首を傾げている。

 この小国がひしめき合う〈シェンゲン諸国〉での、自分の出身地を答える。

 ただそれだけの事で、どうしてそんなに疑問符を浮かべるのだろうか?


 そこでトマソンは半信半疑ながらも、ふと思い至った疑問を口にした。


「あの、もしや、”国“が分からないのでしょうか?」

「んー……? わかんない!!」


 先ほどはカロルの助けで名前を名乗ったアザトも、今度ばかりは困り果てた。


 ……困り果てたにしてはいささか元気がいいが、これでも困り果てているのだ。

 彼基準では、とても。

 まぁ幼児なんてこんなものだろう。


 アザトの中のカロルは、国名については助け舟は出さなかったし、出す気がなかった。


 あんな国のことはもう思い出したくもなかったし、それを祖国だなどと口が裂けても言いたくはない、というのが彼の気持ちの問題だったのだが、それを差し引いても彼は自分の国の実情を知らなかったのだ。


 塔の中に軟禁されていたカロルには、”国”というものを意識する機会もなかったのだ。


 自国の名前も教えられたことはあったが、それが持つ意味など気にも止めていなかった。

 移動することもできないのなら、地名などに意味はないのだから。


 彼は国という概念は理解していたが、自分の住んでいる国の大きさや地理、国力などは全く知らない。

 ただ『ウクフ王国』という”文字列”を知るのみだったのだ。


 これにはポヴィラスもトマソンも困ってしまった。

 周りに助けを求めてみても、他の兵士たちも顔を見合わせて首を横に振っている。


「どんなに幼い子供でも、流石に国という概念くらいは」と彼らは思った。

 だが、それは自分がしっかりとした教育が受けられる環境に居たからかも知れないと思いなおす。


 この世界の識字率は、全くもってお話にならない程度の数値で低止まりしている。


 辺鄙へんぴな農村に生まれた子供は、よほどの才覚でも持っていなければ、下手をしたら他の街にすら行く機会がなく一生を終える事すらあるのだ。

 そしてきっと、文字も読めないままで畑を耕す人生を送る事になるだろう。

 ……であれば、国が分からないのも無理はないのかも知れない。



 だが、少なくともこの少年は”そう”ではなかろうとポヴィラスとトマソンは考えていた。

 そうにらんだからこそ、二人はどこから来たかを尋ねたのだ。


 そう考えた根拠は、彼の”吝嗇けち”がついていない綺麗な手だった

 なにがしかの下働きに従事している者は、その年齢に関係なく、手の皮膚が固くなるだとか、よく使う部位にタコが出来ているだとか、そういった”吝嗇けち”────不格好さがついて回るのだ。

 しかしアザト────もとい、カロルの指は細く長く、爪も綺麗に整えられて美しく、肌は透き通るように白くなめらかで、身体つきを見てもたくましい筋肉もないが”せぎす”でもなかったのだ。


 その身体を見た二人は、当然「この少年は、身体を鍛えてはいないものの、食うに困ることもなかったはずだ」と、そう考える。


 それを踏まえれば、間違いなく彼は貴族やどこぞの御曹司おんぞうしとしか思えないのだ。

 そんな当てが外れたことで、二人は首を捻る羽目になってしまった。


 庶民のような知識の無さに、貴族のような綺麗な身体という不釣り合いな風体ふうていが、二人の頭を混乱させる。


 更に、一般人どころか王侯貴族以外は持っているはずのないとても高価そうな王冠を頭に乗せていること。

 そして同じく高そうな毛皮を身にまとっていることも、それに拍車をかけていた。



 まぁ、彼について気になることは多くあれど、アザトに幼児程度の知能がないのでは、流石に確認のしようがない。

 ひとまずこの少年については、商人達と同じく、この海嘯タイダル・ボアが収まるまで広場に休ませておく事にしたのだった。



 ◇◇◇



 その後、砦の会議室ではポヴィラスとその副官、それにトマソンが集まっていた。

 そこで行われていたのは、先ほど保護した少年────アザトについての意見交換だ。


「やはり彼は、アザト殿は貴族ではないかと思うのだが……」

「私もそう思います。ですが、知識がちぐはぐな印象ですね……。もしや隠し子か何かなのでは……?」


 自分の呟きに対するトマソンの見解、それを聞いたポヴィラスは暫し沈思黙考ちんしもっこうしたが、に落ちた顔で頷いた。


「なるほど……確かに。噂程度ではあるが、御家騒動おいえそうどうに発展するような子を隠して育てたという話はそれなりに聞く。彼もそうなのだろうか……」

「知識のなさと身体つき、身形みなりが不釣り合いな気がします。そう考えると、閉じ込められて育てられたのではと……」


 なかなかに鋭い。

 中身がアザトにすり替わっているので相変わらず見当違いではあるのだが、カロルだと思えば、なかなかどうして鋭いではないか。


「ふむ……。となると、彼からの聞き取りは、成果が得られそうにないな。あとは彼の身柄をどうするかだが……」


 ポヴィラスはアザトの境遇については納得したが、そうなると問題になるのがその後の扱いだった。

 正妻の子がこんな目に遭うなどあり得ないので、おそらくは上級貴族の庶子しょし────それも隠さなければならないような子だろう。

 ……となると、その取り扱いが余りにも難しい。


 これで本人にもう少し頭があれば良かったのだが、それが幼児程度となると何を言い出すか分かったものではない。

 アザトがどの貴族家の子なのか、分からないのだ。


 彼は、今の状況下においては、下手へたを打てば戦争に発展する可能性すらある爆弾のような存在なのだ。



 仮にだが、周辺諸国の王族の生き残りだったと仮定しよう。

 ……仮にではなく、本当に〈ウクフ王国〉王子なのだが、ポヴィラスたちには知るよしもない事なので仮にとする……。


 彼の身柄を保護していれば、この災厄ののちに、その土地の所有権が主張できることになるのだ。

 そこが既に他国の手に落ちていても、アザトからの救援要請を引き出すことで大義名分を持ってそこに攻め込む事もできる。

 そしてその血を取り込めば、小国とは言え王族の系譜けいふが手に入ることになる。


 つまり、この混乱下において国一つを手に入れるための重要なピースなのだ、彼は。



 そう考えればアザトの存在は、最早もはやたかが砦の指揮官では手に余る激毒に等しかった。


 ポヴィラスも軍内部では高い地位にあるだけあって、木端貴族こっぱきぞくとは言え貴族ではあったが、だからこそ見て見ぬ振りをしたいという気しかしなかった。

 この少年を巡って、亡国を舞台にした戦乱が起きた場合、間違いなくこの〈ガンダニア〉も巻き込まれるのだろうと思えば気が重かったのだ。

 今回の災厄の被害も大きいのだから、正直、勝手にやってくれという思いしかない。


 そして、宗主国である〈アインガルド帝国〉は、アザトの存在を知れば絶対に見逃すことはないだろう。



 広大な国土と数多あまたの属国、それらを繋ぐ交通網がもたらす莫大な経済力。

 それに高度に組織化された指揮系統により的確な軍事行動が可能、それによって振るわれる圧倒的な軍事力は『七大国セブン・シスターズ』でも上位だろう。


 さらに、建国王ガルシアにぐと称される当代皇帝が『血の粛清ブラッディ・ガラ』により実現した中央集権体制で各種の政策が凄まじい速度で展開されている。

 それにより、今の帝国は、もはや別の国と言っても過言ではないほどの急成長を遂げているのだ。

 名実ともに、押しも押されぬ超大国だ。


 今や、の国は世界最大の国力を持つ、史上最強の軍事大国にならんとしている。

 その国力を活かして方々で領土紛争や情報操作、破壊工作による属国化を急速に進めており、世界中の国々がその一挙手一投足に神経を尖らせているのだ。


 ────そんな中での、この災厄だ。


 本国の外交官やアインガルド帝国皇帝カイゼル・アインガルド・ガルシアは、既にこの降って湧いた『空白地帯』にどう手を出すかを検討し始めている頃だろう。


 そこでアザトの存在が表沙汰おもてざたになれば、想像もしたくないろくでもない事態になるのは分かりきっていた。

 正直……いやかなり、首を突っ込みたくない。


「あー……。あぁ……あの、トマソン殿」

「……はい?」


 そんなポヴィラスの頭の中を知ってか知らずか、彼の余りに歯切れの悪い言葉にトマソンは首を傾げた。


 これまでこの砦の防衛戦でその優秀さを遺憾いかんなく発揮してきた指揮官たるポヴィラスにしては、なんとも滑稽こっけいな言動だ。

 自分でも大根役者の三文芝居さんもんしばいという自覚はあるのか、彼は”ばつ”が悪そうに言葉を続ける。


「アザト殿は、少し違和感はあるが、ただの少年だった」

「……?」

「”そういう”事で、良いだろうか?」


 なるほど、と。

 トマソンもそこまで言われれば察することができた。

 ポヴィラスの意図するところを一瞬で理解した。


 ここまでの考察によって思い至った彼の正体、そして予想が正しかった場合に彼を中心に巻き起こるであろう厄介ごとを加味して────”何も知らなかった事にしたい”のだ、と。


 少しおかしなところもあったが、彼はただの男の子だった。

 たまたま砦にたどり着いて保護をしたが、事態収束後には帰っていった、その地域の住民の一人だった。


 その筋書きで、何もなかったことにしてくれないか?というポヴィラスからの提案なのだ。

 これは。

 そこは彼も貴族らしく、明確に言質げんちを取られるような直截的ちょくせつてきな物言いは避け、極めて迂遠うえんな、けれどかろうじて伝わる表現での提案をしていたが。


 トマソンはその提案についてしばし考え、こう答えた。


「これは私の見立てですが……。ただの少年のままの方が、彼にとっても幸せでしょう。権力を欲しがるようには……見えませんから。彼が望むなら、私の荷馬車でどこかの街まで連れて行きますよ。私の商会の支店で面倒を見ても良いでしょう」

「……ああ、そうだな。彼は権力など望むまい……。私もそう思う。トマソン殿、お心遣い……感謝する」


 ポヴィラスもトマソンの了承を得て、ほっと胸を撫で下ろした。


 あとは副官だが、彼らはこの国の出身だから、事情をしっかりとけばきっと闇に葬ってくれるだろう。

 砦の兵士たちと他の商人の前では決定的な会話はしていないし、彼らが何を言ったところで戯言ざれごとで終わり、その頃にはアザトはもうここには居ない。


「ええ、お任せください。それでなのですが……」


 ────来たか、とポヴィラスは身構えた。


 言ってしまえば、先ほどの会話は密約みつやくだ。


〈ガンダニア〉を守るため、騒乱の種を見なかったことにする。

 その報酬をトマソンへ支払うことで初めて、この取引は成立するのだ。

 彼に秘密を握られている現状、その要求には逆らえない強制力がある。


 相手の方が立場が上の、不利な密約だった。


「今後ともご贔屓に、ということで」

「…………? ああ、失礼……。それで、良いのか?」


 一瞬、軍人としても、貴族としてもあるまじき顔でほうけてしまったポヴィラス。


 トマソンがこの密約に、何の口利くちききも要求してこなかったからだ。

 だが本当にそれでいいのかと、気を取り直して問いかけてしまった。


「ええ。私も、彼に不幸な目にって欲しくはないですから」


 ポヴィラスは、そう優しそうに笑ったトマソンを見て目を丸くし、その後に困ったように笑った。


「は、はは……損をしそうな男だ。トマソン殿は……なんだ、その、商人に向いていないのではないか……?」


 それを聞いて、トマソンは照れ臭そうに頬をいた。

 その表情に驚きは少ない。


 ともすれば侮辱ぶじょくとも取られかねない「向いていない」という発言。

 だが彼の人柄を差し引いても怒る素振りなど全く見せないのは、今回ばかりでなく、これまでの人生で彼が何度もその言葉を投げかけられているからだろう。


 そんな無礼な言葉を投げかけたポヴィラスの方はと言えば、「その向いていない性格ではいつか破産してしまうのではないか?」という彼なりの親切心からの言葉だった。

 他人が口を出すべき領分ではないが、それでもこの人の良い商人が事業で失敗して……という結末になってしまうのは忍びなかったのだ。


「ええ、よく言われますよ。私がこのなりで行商のような事をしているので紛らわしいですが、これで本店はそこそこですのでご心配なく」


 そう言うと、トマソンはその”ふくよか”な腹を叩いて笑って見せた。


「なんと……。それは失礼。だが……何故……?」

「商会の本店は妻に任せているのです。わたくしは各地を渡り歩いて顔を繋いで、取引が成約すれば後は本店の方が、という形で販路はんろを広げております。……まぁ妻が大変に有能なので、それはもう助かっているのですよ。私には過ぎた妻です」

「なるほど! ご自分の足で品の売り込みをされているのですな。それだけの立場になっても初心を忘れないとは、御見逸おみそれした……。だが何も、というのもこちらの具合が悪い。何かあれば頼って欲しい。アザト殿の件、私もできる限りのことはしよう」


 元より察しがよく、それでいて行動は迅速で的確だとは思っていたが、ただの行商人ではなく商会長の立場にあったとはポヴィラスも気がつかなかった。


 ……それもそのはずだ。

 商会長ともなれば本店でふんぞり帰り、貴族相手の取引にだけ顔を出すようなイメージがポヴィラスにはあったし、世の中のほとんどの人間もそう思っているだろうからだ。


 こんな行商人のような真似をしている商会長などという”珍獣”の方がまれなのだから、彼の勘違いも仕方がないというものだ。

 そんな些細ささいな行き違いがあったが、ポヴィラスはますますトマソンを気に入ったらしい。


 いざ戦争が起きれば最前線となる”砦”────その指揮を任されている彼にしてみれば、顔も見えない上級職よりは現場の人間の方が好感が持てるというものだ。


 だからこそ、どれだけ出世しても現場にいた頃の初心しょしんを忘れず、自分の足で行商人の真似事をしているトマソンのような男の事を好ましく思えたのだった。



 ────その時だ。


 時機タイミングを見計らったかのように、新たな来客があったというしらせが伝令によって会議室へともたらされた。


 そして来客の名を聞いたポヴィラスとトマソンは、初めに落ちた火球を見た時に勝るとも劣らない衝撃を受ける羽目になるのだった。

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