3

 早駆はやがけの伝令から事情を聞き、議論を重ねた上で避難民を受け入れる事を決めた宮廷だったが、結果的にはその議論は徒労に終わった。


 なぜなら、避難民が誰も、王都へ辿り着けなかったからだ。


 ぽつりぽつりと耳の早い近隣の村落の住人が王都へとやってくるが、それだけだった。

 既に被害を受けたと思われる地域からの避難民は、ただの一人も居なかったのだ。


 王も、大臣も、そして居並ぶ貴族達も、想定以上に避難民が居ない事をいぶかっていた。


「もしや、誰一人として生き残れないような事態が起きているのではないか?」と、そう思う者もいた。


 けれど、誰も、決して、口には出さなかった。


 口にしてしまえば、その瞬間にいたその言葉が”魔獣”にでもなって、すぐに自分に襲いかかってくるような、そんな気がしたからだ。

 音として、言葉としてこの世界に解き放ってしまい、それが耳に入る事すら恐ろしかった。


 明日、もしかしたら何もかもが全てなくなっているかも知れない。

 自分もまた、その瓦礫の中でむくろを晒しているかも知れない。


 誰もが、そんな恐怖と焦燥しょうそうに駆られていたのだ。


 夜にはとっくに仕事など終わっているはずの庭師は、今すべきことでもないだろうに、自分の道具の手入れをしていた。

 普段は手が空けば談笑しながら噂話に満開の花を咲かせる侍女たちも、鬼気きき迫る表情で普段は磨かない所までも丹念に磨いていた。


 皆、迫りくる災厄を前にして自分の仕事に打ち込んでいた。

 何でもいいから手を動かしていないと、この先のことを考えてしまいそうだったからだ。


 誰もが死の恐怖に怯え、それをまぎらわすように手を動かしていた。

 一度その恐怖に囚われてしまえば、恐ろしさでもう二度と立ち上がれない気がしたからだ。


 彼らは皆、明日なんて永遠に来なければ良いのにと、そう思いながら眠れない夜を明かした。



 眠らなければ夜は明けない、なんてこと、あるはずもないのに。



 ◇◇◇



 ”それ”が始まったのは昼過ぎだった。


 初めに異変に気付いたのは、歩哨ほしょうに立つ兵士だった。


 彼が見たものは、地平線だった。


 基本的に、球形の惑星である地球においては、五キロメートル程が人の視界に収まる最長距離であり、その彼方は地平線、または水平線と呼ばれる円弧の”果て”によって限界を迎えている。


 ”この世界”での表面、かつこの兵士の場合は、高い城壁から見張っているので、恐らく十六キロメートル以上は見えていただろうか。


 その地平線が、いつも変わらずそこにあるはずの地平線が────じわじわと少しずつ、こちらへと迫ってくるのが見えたのだ。


「あ……ああ、あ……」


 異変を見つけた。


 ならばすぐに知らせるべきだ。

 仲間を呼んで、確認を重ね、伝令を指揮官のもとへ走らせるべきだ。


 ────なのに、声が出なかった。


 乾いた喉、引きった声帯、呆けたように開いた口では、大声で仲間を呼ぶことなどできなかった。


 彼にとって幸いだったのは、たまたま近くに同僚がいたことだ。

 そしてその同僚が立ち尽くす兵士を見て怪訝けげんに思い、声を掛けてきたことだった。


「おい。どうし……お前……酷い顔だぞ。どうした?」

「あ……あ…………」


 兵士は声をかけてきた同僚にもまともに受け答えができず、まるで生まれたばかりの赤子のように言葉にならない言葉を口からこぼしながら城壁の先、平地の彼方を震える指でさし示している。

 そのさきを見た同僚は一瞬息を呑んだが、自らの職務は忘れなかった。


「ッ……! ……て、敵を発見!! 戦闘準備ィィ!!!!」


 彼は動けない男の代わりに声を張り上げた。


 大声で報告をあげれば、その後は小隊長の元へ参じて詳細な報告をするべきなのだが、彼は即座に戦時体制への移行を求めた。


 歩哨に立つ兵士の階級など、さほど高くもない。

 もちろん他の兵士に命令する権利もない。


 だが、誰もそれをとがめる事はなかった。


 皆、二人の視線の先を見て、すぐに肝を潰して持ち場に向かったからだ。

 その頃にはもう、地平線の彼方から押し寄せるものが何かなど、目を凝らすまでもなく目視で認識できていた。



 魔獣、魔獣、魔獣、魔獣、魔獣、魔獣────…………。



 その数は数千、数万────もはや数える事も億劫おっくうになるほどの数の魔獣が、まるで大海嘯だいかいしょうか洪水の様に押し寄せているのが見えた。


 それらは全く異なる種類の魔獣や魔物の群れで、自然界では高度な知性を有する”魔の者”の配下としてしかあり得ない構成をしていた。


 だが統制とうせいも何もあったものでない。


 走り疲れた魔獣が後続のそれに踏み潰され、肉塊になり、それを遅れてきた屍肉喰いがむさぼるのを見るに、何者かに率いられている訳ではないことは明らかだった。


 では彼らがなぜそのような群れを形成し、この王都に向かってくるのか。

 それは分からなかったが、人とは明らかに違う獣とは言え、流石にここまで分かりやすく慌てふためいていれば容易く分かる事もあった。


 ────逃げている。


 彼らは”何か”から逃げてるのだ。


 その”何か”が何なのかはわからない。


 だが恐ろしい”何か”が、彼ら魔獣たちが立ち向かうことすらしなかった何かがこの先に居て、それからなりふり構わず逃げている。

 それだけは、この国の兵士達にも分かった。


 この『大海嘯タイダル・ボア』は、いずれその速度を保ったまま城壁に打ちつけ、大海にぽつんと浮かぶ帆船ガレオンの様にこの王都を孤立させ、やがては飲み込んでしまうのだ。


 兵士たちはそれを即座に理解した。

 だからこそ命令系統を無視した同僚の言葉にすぐに従った……いや、たとえ何も言われなくともそうしただろう。

 今すぐにでも戦いの準備を始めなければならないことは、誰に言われずとも分かっているからだ。



 そうして、地獄シェオールはその顎門あぎとを開いた。



 ◇◇◇



斉射せいしゃなど考えるな! 打てるものから打って数を減らせ! 取り付かせるな! 取り付いた敵には石と油を落とせ!」


 中隊長の声が怒号と轟音ごうおん、悲鳴を裂いて響き渡る。


 ────地獄シェオールの始まりから、かれこれ半日が経っていた。


 獣の海嘯かいしょう市壁スタッドマウアーに打ち付けると、力任せにそのかいなを振るった。


 だがその程度では堅牢な市壁スタッドマウアーを破壊する事は出来なかった。

 彼らは次々に壁に頭を打ちつけ、首の骨を折って死んだのだ。


 そこへ後続の魔物が次から次へと流れ込むが、彼らもやはり城壁は抜けず、死体の山を更にうずたかく積み上げる事になった。


 それでも魔物の軍勢は止まらない。


 我武者羅がむしゃらに走りくる魔物に前方の状況を察して避ける頭などあろうはずもなく、玉突き事故のごとく魔獣同士がぶつかり合った。

 そしてまた衝突し、転がり、千切れ、踏み潰される。


 このたった数時間で、市壁スタッドマウアー前にはおびただしい死体の山が出来上がっていた。

 それで死ななかった魔物たちも、その死体の山の迂回うかいを余儀なくされたのだ。



 その様を見て、兵士たちは喜色きしょくを浮かべた。

 王都を守る市壁スタッドマウアーの堅牢さに歓声を上げた。


 だが市壁スタッドマウアー沿いに積み上がった死体の山と血腥ちなまぐさい死臭、踏み潰された獣の臓腑はらわたの悪臭には辟易へきえきしていたようだ。


 だがその死体を片付ける為に外に出るなどと言う自殺行為も出来ないので、我慢する他ない。

 彼らは飛び散る血肉と悪臭には、かなり精神的に疲弊ひへいしたようだった。


 魔獣達はそこを抜けないと分かるや否や、モーセを導いた紅海こうかいのように、その流れは大きく二つに分かれて王都を避けていったのだ。


 それでも行き場を失った魔獣は市壁を登ろうと向かってきたが、その程度であれば”この王都の防衛力を限界まで酷使する”事で対処が可能だった。


 ────ああ、そうだ。


 ”その程度”になってやっと、全力での防衛が辛うじて間に合う、そんな物量差だったのだ。


 だがこのまま耐え切れば何とかなる。

 そんな希望的観測が出来る程度には、各市壁スタッドマウアーの戦況は良かった。



 その希望が潰えたのは、それから更に半日後の事だった。



 大海嘯タイダル・ボアが始まってから一日が過ぎ、魔獣達の種別やその傾向が徐々に変わってきたのだ。


 狼や兎、鹿と言った、足の速い獣が変異した魔獣達が中心だった第一波と比べ、段々と足が遅く強力な中型の魔獣が増えてきたのだ。

 そしてなにより、獣が魔物化した魔獣ではなく、生物学的にはあり得ない特徴を持つ、真性しんせいの魔物も混じり始めていた。


 この傾向に、王都の学者は絶望した。


 魔獣や魔物の生態に詳しくないものは未だ理解できていなかったが、魔物や魔獣と言うのは、それぞれ縄張りテリトリーを持っている。

 そして比較的、力の弱い魔獣の大移動に関しては特段珍しい物ではないのだ。


 森の主、魔境デモンズ・レルムぬしと言った魔物のたわむれや代替わり、縄張り争いの結果、弱い魔獣が住処すみかを追われることはままある事だからだ。

 その場合、力の強い魔物はそれまで通りの勢力圏を維持するため、魔獣が押し寄せる大海嘯タイダル・ボアも、その程度の魔物しか現れない。


 大挙して押し寄せるとは言え、所詮は住処すみかを追われる程度の雑魚魔獣なのだ。

 それでも田舎の村にとっては破滅級の災厄に違いはないが、設備が整った王都のような場所であれば余裕を持って対処出来るものなのだ。


 だが、今回はそれに中型が混じり始めた。


 今でさえぎりぎりのところで踏みとどまっている状態なのに、中型が増えれば市壁の崩壊すら考えられる。


 そして、もしも────もしもあの災厄で大型の魔物ですら逃げ出していたら……。


 その場合は、この王都など一瞬で踏み潰されてしまうだろう。


 大型の魔獣など、人にはどうすることもできない天災と言って相違ない。

 しかも、それに加えて中型や大型が逃げざるを得ないような”何か”が爆心地にいる可能性さえあるのだ。


 それらに気付いた学者は、自らの持つ知識と経験をかなぐり捨てて神に祈った。


 ────大型の魔物まで向かってくるようなら、もはや打つ手はないのだから。



 そもそも魔獣、魔物を含めた”魔”と言うのは、この世界に満ちている不可視のエネルギー────『魔力』や『魔の因子』によって変異、またはそれに適応して進化、もしくは発生した生物の事だ。


 この世のほとんどの生物が有効に活用できていないが、それを利用できる者は通常の生物では到底あり得ない能力を会得し、あり得ない現象を引き起こす事ができる。


 精霊、竜、魔物、魔獣、魔法使い、魔術師……彼らが引き起こす超常の現象こそ、その再現性のある奇跡の一端だ。


 ほとんどの精霊は魔力により産まれ、竜はその性質から産まれ付き魔力を手足のごとく操る。

 魔物は魔の因子により産まれ、魔獣は魔力の影響を受けた獣の突然変異だ。


 彼らはただの人間に太刀打ち出来る相手ではない。

 同じく魔力を扱えるような人間────魔法使いや魔術師、英雄でもなければかなわないだろう。


 それが大挙して押し寄せる大海嘯タイダル・ボアのどれだけ恐ろしいことか。


 そこに中型以上の魔獣が混じることのどれだけ絶望的なことか。



 ◇◇◇



 それからしばらく、依然いぜんとして大地を覆い尽くすような、それが一体どこに隠れていたのかと思わされる数の獣の波は健在だった。

 けれどそこに、頭一つ抜けた影が混じるようになっていた。

 それはいのししの魔獣だったが、ただ猪が魔獣化したもの、などとは口が裂けても言えなかった。


 その大きさが、粗末そまつな家程はあったのだ。


 体高たいこうが人を上回る猪の突撃など考えたくもない物だが、ただの猪ではなく魔力に適応して身体能力が大幅に強化されている猪だと考えれば、恐らくダンプカーかトレーラーが突っ込んでくる程度の破壊力はあるのではないだろうか。


 この国では、魔法、魔術と言った『魔導』を使えるものはそう多くない。

 使えるものも、初級から中級の魔導が使えるくらいで、中級に至っては一度撃てばもう動けなくなってしまう程度の力しかないだろう。

 彼らに中型の魔物を止められるとは思えなかったし、そもそもそれ以前に現状を維持するために既に彼らの魔導を酷使こくししており、それ以上の余裕などありはしなかった。


 彼らにできるのは、たまたま中型の魔物がこの王都を避ける流れに乗り、市壁を避けて流れていくのを祈ることだけだった。

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