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 これが、僕の人生だった。


 一般的に見れば、お世辞にも幸福だなんて言えない人生だったのかも知れない。


 ずっと、満足に出歩く事すら出来なかったのだから。

 自由に出歩くことすらできなかったのだから。


 それでも必死に生きていたんだ。


 僕が歩いてきた、僕だけの物語だったんだ。


 けれど、それはどうやら終わってしまったらしい。

 心残りがない訳ではないけれど……それでもこれは、誰のものでもない、僕の物語だ。


「うん……分かった。まだぼんやりしてるけれど……。でも、それならどうして僕はここにいるの?」


 目下、それが一番の疑問だった。


 僕の物語は終わってしまったのだから、今ここで話している状況は、よく分からないのだ。

 もしかしたら楽園だとか、神の国だとか言うところなのかも知れないけれど……。


「ダーレストに頼んで、君のアス……ええと、魂をすくい上げて貰ったんだ。僕が、君に逢いたかったから」

「ダーレスト? さんは、もしかして神様か何か……?」

「いいや、違うよ。『流転の水車』ダーレスト。僕と同じ精霊────『大彗星スターズ』の一柱さ。


 生きとし生けるもの全てが辿り着く旅の終着点。

 魂が流れる大河にある水車の管理人。


 偏屈で難しい言い回しばかりするから嫌われ者だけど、君なら上手く話せるんじゃないかなあ。小難しい話ばかりするんだ。あのジジイ


 そう、吟遊詩人ミンストレルが朗々と高らかに語りあげるように、わざとらしい仕草でオルバースは言った。


 ……楽園と似たようなものだろうか。


 魂が水車で汲み上げられているのはちょっと想像がつかないけれど、魂が次の生へと送られる場所らしい。

 そして、そこの管理人がこの状況に関係している……らしい。


「じゃあ、次だけれど……君はどうして僕に逢いたかったの?」

「君が僕を見つけてくれたから。君だけが僕のことを見上げてくれたから。……覚えているか分からないけど、僕の名前も君がくれたものだよ」


 ……と、そう言われても、すぐには心当たりが思い出せなかった。


 オルバース……オルバース…………。


 言われてみれば、程度には何かしら聞き覚えがある気がする……。


 そんな名前を聞いたことがあったはずなのだけれど、混濁こんだくした記憶の先は底の見えない泥沼のように曖昧あいまいで、求める記憶を手繰たぐり寄せようとしてもなかなか上手くはいかなかった。


 沢山の本を読んでいたせいか知識や語彙ごいには多少ばかり自信があったのだけれど、それはそのまま、膨大すぎる知識の中から該当する情報を選び取る事の困難さにも繋がっていた。

 なまじ知っている事柄が多すぎるものだから、どれがどれだか、分からなってしまうのだ。


 長生きしている人はいつもこんな感じなのかも知れないな……。



 …………あぁ、そうだ。



「オルバース……。もしかして、あのオルバース……?!」


 やっと……やっと思い出した。


 僕は病院で星を見上げている時に、新しい星────というか彗星か────を発見した事があったのだ。


 時間だけは有り余っていたから、星の一覧を見ながら名前を調べるのを趣味にしていた時期があって、来る日も来る日もそんな事をしているうちに、ある日、名前のない星を見つけた。


 その名前のない星は恒星と比べて光が弱く、気付くものが今までに居なかった天体だった。

 僕が見つけたのは星……所謂いわゆる恒星ではなくて、彗星だったらしい。


 のちに専門家の計算で軌道周期が約七十三年と判明したその彗星には、僕が命名する権利を与えられた。


 本来の命名には色々と複雑な規則があったようなのだけれど、不治の病でずっと病院から出られない子供が発見者という事で、航空宇宙局の偉い人の働きかけで、なんだか良くわからないうちに僕の裁量で自由にさせてもらえる事になった。



 そうして、僕がその彗星につけた名前が『オルバース』だった。



 それに彼とは、夢の中でも出会ったことがある気がする。


 勿論、僕が夜眠っている間に見たただの夢だと、その時はそう思っていた。

 けれど、まさか本当に存在していたなんて……とても驚いた。


「そう。君のくれた名前だよ。クリア」

「びっくりした。彗星って、話せたんだ……」

「僕が話せるのは、あの時から力を得たからさ。君に名前を貰って、ね? 名前がなければそもそも格以前の問題だもの」

「本当に、たったそれだけで…?」


 名前なんて、発見者に与えられた特権で付けただけだ。


 そこまで喜んでもらうようなことでもないと思うのだけれど、彼────オルバースにとっては違ったようだ。


 なんだか生まれたての小鳥が初めて見た僕の事を親だと思ってしまったかのような、ちょっとした罪悪感がある。

 だって、名前を決める以外何もしていないんだもの。


「君にとってはそれだけでも、僕には違う。あの日からずっと、僕は君と出会うのを楽しみにしてた」


 ずっと、と言うのは、少し恥ずかしいような、嬉しいような……。


 ……うん。

 でもやっぱり、なんだかんだ嬉しいんだと思う。


 身体を起こすのも難しくなってからは、家族とあの少年以外、ほとんど人と会話をした覚えがなかった。

 病室での独りの時間が増えていった。


 そうすると、だんだんと寝る時間も増えていった。


 ……いや、よそう。


 でも、オルバースは名前を与えられてからずっと、僕の事を気にかけてくれていたらしい。

 ベッドから動く事すらできない僕が、誰かに対して何かを与えられる事などない。


 ────僕はこのまま、この病室という狭い世界で一人で朽ちて行くのだ、と。


 そう思っていたのだけれど、どうやらそうではなかったようだ。


 ”そうではない”事が、なんだかどうしようもなく嬉しかった。

 たとえ人ではなく精霊であったとしても、何の価値もない命だったはずの僕が、誰かに何かが出来ていた事が嬉しかった。


 何の生産性もなく、人に何をしてあげられるでもなく終わるはずだった人生に、少しでも意味があったのだと、そう言って貰えたような気がしたのだ。


「ずっと見ていたから、僕の好みはお見通しってこと……? それで、さっきの話をしてくれたの? 僕が本が好きだから」

「半分は、正解」

「……? 残り半分は?」

「”実習”……って言えばいいのかな? 僕の精霊としての力────『希望の権能オルバース』を見せたかったんだよ」


 精霊としての力というのは、さっきの物語の事だろうか。


 なんだか、不思議な物語だった。


 寂しいけれど暖かくて、不幸だけど幸福で……あの物語の登場人物、皆のこれからの旅路の幸運を願わずにはいられない、そんな素敵な物語だと思った。


 その権能というのは、もしかしたら吟遊詩ジョングルールのような、素晴らしい語り手になれる力だったりするのかも知れない。

 今となってはなんの意味もないけれど、そんな能力があったら絵本の読み聞かせなんかをしてみても楽しかっただろうなと思った。


「物語の中に引き込まれるような……素敵な話だったよ。僕も、久しぶりに”わくわく”してた」


 ずっと本を読んでいなかったせいだろうか。


 オルバースの物語は、心に染み入ってくるようだった。

 渇いてひび割れた大地が水を一瞬で飲み干すように、僕の中に染み込んできた。

 本当に夢中になって聞いていたんだ。


 けれどそれを聞いたオルバースはそっとかぶりを振った。

 そういう事ではないらしい。


「君は、あれがただの絵空事えそらごとだと思ってるみたいだけど、違うんだよ。


 あれが彗星の権能────『希望のやじり』。

希望の権能オルバース』の力。


 理不尽を貫き不幸を穿うがち、その先にある希望と幸福へと手を届かせる力だ」

「えっと、なんか……ごめん。よく分からないかな……」

「人間には、ちょっと難しいかな?」


 ”くすり”と一つ笑ったオルバースは、その手をこちらへ差し出した。

 そこに目をやれば、どこからともなくその掌に青白い、けれども暖かい光がそっとともった。


 そのあかりを見た僕は、どことなく心地の良いほの明るさを感じた。

 たとえて言うのなら、暗い部屋で蝋燭ろうそくの灯りをじっと眺めているようなそんな静かで優しい明るさだ。


 その灯りを手にたずさえて、オルバースはゆっくりと語り始めた。


 彼の声音には何かを宣言するような力強さがありつつも、目の前の僕だけに聞こえるような、決して大きくはない声量だった。


 きっとそれは、一言で表すのならば『誓い』と言うのが相応しい表現だと思う。


 誓いというのは、ある種の約束だ。

 口にしたその行為をきっと成し遂げるという決意を自分以外の誰かと共有する儀式だ。


 果たして彼は、誰に、何を誓うのだろうか。


 そう思いながら、僕はそっと、オルバースの言葉へ耳を傾けた。


「人の生には意味はなく、生まれてきた後は、ただ生きて死ぬだけだ。


 そこには為すべき運命さだめはなければ、果たすべき義務もない。

 そこには掲げるべき正義はなければ、倒すべき悪もない。


 貴方がいなくても世界は回るし、時のさざなみはいずれ貴方がのこした足跡をも押し流すのだろう。

 だから、いずれ消え去る貴方の生には、何の意味もないのだ」


 一息ついたオルバースの手元から、青白い灯りがふわっと舞い上がる。


 それと同時にもう一つ、少し紫がかった灯りが頭上から降りてきて、二つの灯火が、一つに交じり合った。


「けれど、なればこそ────貴方の生は貴方だけのものだ。


 貴方の生には何の意味もないのだから、その意味を決める権利は、貴方だけが持っている。

 そこには何ひとつの義務もない、自由に満ちた貴方だけの人生だ。


 どんな道を歩んだとしても、貴方には最後に笑ってく権利がある。


 きっと貴方は命の限り歩き続け、やがてたおれて土に帰るだろう。


 それまでは、貴方の生は、貴方のためだけに使うと良い。


 他の誰でもない、貴方の歩く人生だから。

 貴方がつづる物語なのだから」


 少しの間、中空を漂った灯りは、ゆらゆらと僕の手元へ降りてきた。


「やがて貴方が旅を終えるその時に、僕は終わりの先で貴方を待っている。


 そこでいつか出会うことがあったなら、その時にはきっと、貴方の生きた軌跡じんせいを聞かせておくれ。


 そうして、少し休んだら、また、次の旅に出よう。


 何の意味もない貴方の人生を、僕だけは、ずっと見守っているよ。


 だから、安心して生きておいで。


 誰のものでもない、貴方だけの人生を。

 貴方の旅路に、幸福を」



 オルバースが話し終えると同時に、青白いあかりは僕の中に溶けていくようにすうっと消えた。


 その瞬間、自分の身体が自分のものではないような、今まで感じたことのない不可思議な感覚が駆け抜けた。


 突然、意識だけが他の誰かの身体に入ってしまったような感じだった。


 なんだか腕枕で長く寝てしまって手がしびれているような、そんな感覚だ。

 とにかく、自分の身体にものすごい違和感を感じた。


 自分の手が目の前にあるのに、思い通りに動いているのに、その手はまるで他人のそれのようだった。


「えっ?! 今の……何、これ……?!」


 そんな戸惑う僕を落ち着かせるように、オルバースは優しく僕の手を取ってこう言った。


「安心して。今のは精霊の誓い。この世界に生まれた精霊が、自らの在り方を定めて、果たすべき役割を決めるための言葉だよ」


 オルバースの言葉は、普通に考えれば内容を理解出来るはずもない、別の世界の常識だ。


 意味が分かるはずはない……。

 なのに、なぜだか分かってしまった。


 ……と言うのも、先ほどの不思議な感覚が駆け抜けた後、自分の記憶なのに、自分の記憶ではない記憶が混じっているのだ。

 前世の記憶だとかそう言う規模ではない、まさしくアカシアの記憶アカシックレコードに近い規模の膨大な情報だ。


 今なら僕は、世界が無から生まれたその過程プロセスすら、つい先ほど見てきたかのように語れるだろう。

 そこには、人がどこから来てうまれてどこに逝くのかすら刻まれていた。


 おそらくは、その記憶が知っているのだ。


 オルバースが語る、精霊の成り立ちと誓いの言葉の意味を。


「そして……今生まれた精霊と言うのは、君のことさ。『白紙の語部』クリア・ウェンデル」


 僕の名前を呼んだオルバースは、少しばかり首を傾げて、安心させようとするかのように僕に笑いかけてきた。


 彼はやっと自分の為すべき事を為した、という晴れやかな顔をしていた。

 しかしその表情を収めると、そっとその目を伏せて謝罪をしたのだ。


「精霊にとってはとても大事な事なのに、何もかも勝手に決めてごめんなさい。

 でも僕はどうしても、君にあのまま終わって欲しくなかった。病室から出る事なく終わって欲しくなかった。君はきっと、もっと幸せになれるはずだった……幸せになってよかったはずなんだから」


 オルバースが何を思っていたのかは分からないけれど、自分が自分ではなくなった事と、何が起きたのかと言う事は自然とよく分かった。


 なぜかと言えば、どこからともなく知識が得られたからだ。

 今まで忘れていただけで本当は知っていたのではないかと思う程に、自然に僕の記憶の中に混じっている知らないはずの記憶。


 その記憶には、僕が夢だと思い込んで忘れてしまった、最期の記憶が混じっていた。

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