断章 星屑の書斎

1(挿絵)

「……………………?」



 ふと気付けば、視界はまるで水中で目を開けた時のように歪みきっていた。

 視界の中のあらゆる光が、二重三重にぼやけていた。


 いつの間にか、目から涙が零れていた。


(今のは、何……?)


 オルバースが語る”物語”に、いつの間にやら聞き入っていた事は確かだ。


 けれど────いつからだろうか。


 途中からは、話を聞いているという認識すらなかった。


 それはまるで物語の登場人物の一人になったかのような、そんな没入感。

 それは舞台を披露する演者の一人にでもなったかのような、そんな感覚。


 自らの自意識すら曖昧あいまいになった気がしてしまい、僕は咄嗟とっさに自分が何者かを確認する。


 なんだかすこしだけ落ち着いてきたせいか、先ほどまでの記憶喪失が改善してきた気がした。


 自分は、僕は、誰だったろうか?



 そうだ……クリア。

 ……クリア・ウェンデルだ。



 決してブランカでもなければトマソンでもない。


 僕は、本が大好きな、ただのしがない少年だ。

 そして夢は、世界中を冒険する事。


 幼い頃から病気がちで心臓が弱く、家から外に出るのが難しかった分、本を読むのが大好きな子供だった。


 けれど病が進行してからは立つ事も歩くことも満足に出来ず、僕の世界は病室とAI制御の車椅子で移動ができる病院の敷地内だけになっていた。

 来る日も来る日も、ベッドの中で本を読んでは車椅子で敷地の散歩をするだけの、ほぼ寝たきりの生活を送ってきた。


 そんな生活だったものだから、友達と呼べるような人間なんてほとんどいなかった。


 近くに住んでいる子供か何か知らないが、ネットに入ったサッカーボールを抱えた目元に傷のあるくすんだ金髪の少年が一人、よく敷地に忍び込んでいるのはよく見掛けていた。

 彼と話をするのは楽しかったと思う。

 それを友達……と読んでいいのなら、一人はいたのかも知れない。


 けれど彼を除けば、友達と呼べるのは夜空の星くらいなものだった。


 ……あぁ、そうだ。

 星を眺めるのも好きだったかな。


 末期には合併症なども患ってしまい、もうベッドの上から動くこともできなかった。

 そんな生活の中での楽しみといえば、電子図書館のレンタル機能でダウンロードできる電子書籍と、ベッドから眺められる夜空くらいだったからだ。


 インターネットで拾った星図と夜空を見比べて、星の名前を探すのだ。

 そうしてその星一つ一つに、どんな物語があるのだろうと思いを馳せる。


 それは些細だけれど、僕の大切な楽しみだった。


 そうして、ある日僕は眠りについて────そのまま二度と、目覚める事はなかった。



 ◇◇◇



「あぁ、思い出しちゃったかあ……」


 はっと顔をあげれば、オルバースが優しそうな、悲しそうな、なんとも形容しがたい苦笑を浮かべながらこちらを見つめていた。


「君は、幸せになっても良いんだ。……だからさ、忘れたままでも良かったんだよ?」


 その顔にはどこかしら琴線きんせんに触れるものがある気がする。

 何か、上手くは言えないが気にかかる所がある気がした。


 そうだ……。

 よくよく思い返してみれば、オルバースの顔には見覚えがあった。


 青い髪の人懐こそうな、少年の顔。

 それは、鏡を見ればいつでも目に飛び込んでくる顔だ。

 世界で一番、見慣れた顔だ。



 僕だ……オルバースの顔は僕の顔そのものだ。



 その事実に気づいた瞬間、”ぱきん”と音を立てて、目の前の少年────オルバースの姿にヒビが入った。


「君はクリア────『白紙の語部かたりべ』クリア・ウェンデル。そして、僕の名前はオルバース」


 そう宣言するやいなや、目の前のオルバースの姿がかすみ、空間がうごめくようにその姿を変え始める。


「世界が前に進み続ける力の根源。先の見えぬ闇を照らす篝火かがりびまもり手。大彗星スターズが一柱────『希望のやじり』 オルバース」


 そう名乗ったオルバースの姿は、すっかり人間の”それ”とは掛け離れたものになっていた。


 下半身は獣の如き鋭い爪を持つ四足に変わり、上半身は人間の形をしてはいるが、先程までの”クリア”の姿とは、同じ顔ながら全く違う顔つきになっている。


 そして信じられないが、その背後には明らかに物質とは思えない、光を凝り固めたかのような浮遊する円陣を背負っていた。


 その円陣は、確か……そう、魔方円というものだ。

 昔に何かの本で見た、七十二柱の悪魔の召喚に使われたという”あれ”のように見えた。


「やっとだ……やっと出会えたよ。クリア」


 人とは似てなる異形いぎょうへとその姿を変えたオルバースは、そう言って笑った。


 物理法則も、生物学も完全に無視したその様は、まるで神話に語られる伝説の獣のようだった。

 この部屋で出会った時からオルバースの言動にはおかしな点が多々あった。

 だが、目の前の光景はそれら全ての違和感を事実として納得させるだけの説得力を持っていた。


 きっと、彼は人間ですらない、何かもっと、高次の存在なのだろう。


「えっと……? 君は、何……? 人……じゃ、ない?」

「そうだね。君に分かるように、となると……『精霊』って名乗ればいいのかな」

「精霊…………。精霊って、小説や神話の……?!」

「小説はよく分からないけど、神話はそうかも知れないね」


 ────精霊。


 小説や神話に登場するあの精霊だ。

 御伽話おとぎばなしの中の世界の、超自然的な存在だ。


 勿論もちろん、まだそう簡単には信じられないが、目の前の彼の姿は、絶対に人間ではない。

 そもそも姿が変わるのだって人間業にんげんわざではないのだ。


 心のどこかの常識をじ伏せてでも、自身が精霊であるという彼の言葉を信じざるを得なかった。


 すごい。

 本当に精霊だ。

 ファンタジーだ。


「信じてくれるみたいだね。君は昔から、御伽話おとぎばなしが大好きな子だったから、混乱はしないとは思ってたけど」

「うん……! すごいね。もしかして、この部屋もオルバースが?」

「君の好みに合わせて作ったんだよ。とは言え、実体はないけども」


 そう言ったオルバースが片手を振ると、部屋の壁が、風に吹かれた砂のように消え失せた。


 消えた壁の先に広がっていたのは、無限に広がる星の海────宇宙だった。

 上下左右どこを見ても、星空が広がっている宇宙空間の真っ只中ただなかだったのだ。


「うわっ! 息、が…………出来る……」

「あはは。息は……してるつもりになってるだけかな。君は星幽アストラル体だから、もう息をする必要はないんだよね」


 星幽アストラル体……初めに出会った時にもオルバースは『星幽アストラル領域』と言っていた気がする。


 確か神智学では星幽体と言うはずだ。

 ……なんだかよく分からないのだけれど、ざっくりと言うと『魂的な何か』みたいな認識だ。


「えっと、星幽アストラル体? っていうのは……?」

「……難しい。ざっくり分かりやすく説明すると、魂かなあ」


 あんまりに難しいからか、これまたざっくりと説明を投げられてしまった。


 でもひとまず、魂っぽいという認識で問題なさそうだ。


 けれど、僕がこの場に魂だけで存在しているという事実は、どうしても……ある真実を示唆してしまう。


 気付いていなかった訳ではないけれど、その事実を突きつけられると、真冬に冷水で手を洗った後のように冷たいてのひらで、心臓を握りつぶされるような感覚になる。

 生命の持つ根源的な恐怖心が、心を凍りつかせていく。


「魂……って事は、やっぱり……」

「…………」


 夢だとか、幽体離脱だとか……という線もあったはずなのだけれど、答えがないという事はきっと違うのだろう。


 はオルバース瞑目めいもくして、何も語らない。


 だが沈黙は、この場においては、口を開くよりもなお雄弁に語っていた。


 ────その問いへの答えは、Yesだ、と。


 魂だけで精霊と会話しているこの状況、それが指し示す事実はよくよく考えなくともすぐに分かる。

 そうでなくとも、自分の体のことは自分が一番良く知っているのだから。



 きっと……僕の身体はもう、息をしていないのだろう。



 僕は生まれつき身体が弱かった。

 体を動かす激しい運動は出来なかったし、外を出歩くのも一人では難しかった。


 それでも笑って生きられた理由は勿論、家族が優しくしてくれたから。


 そしてもう一つ、僕が、本を読むのが好きな子供だったからだ。


 本の中の世界では、真っ暗な押入れクローゼットの奥が怪獣の島だったり、森のねずみたちがパンケーキを焼いたり、小さな魚達が集まって大きな魚に立ち向かったりするのだ。


 僕は、そんな絵空事を読んでいるだけでとても楽しかった。


 しかしやがて、病状が進行するにつれて、家で過ごすのも難しくなっていった。


 病院のベッドでは一日中本を読むのが習慣になっていたが、それでもまだ大好きな本に囲まれていられた僕は幸せだった。

 日中は本を読み、夜は窓から星を眺めて過ごしていた。


 けれど、いつからか起きていられる時間も少なくなってきて、大好きな本を読むことさえ難しくなってきた。

 そうなってくると新しい本を読むのが難しいので、夢現ゆめうつつの心地で今度は前に読んだ本を思い出すのだ。


 そうしてそのまま眠った日は、夢の中で御伽話おとぎばなしの世界を旅することができた。

 剣と魔法の幻想ファンタジー世界の住人の一人として、現実のように不自由をせず、自由気ままに旅をすることができた。


 それは、人に言わせれば現実逃避だったかも知れない。

 けれど僕にとっては、紛れもない現実リアルだったのだ。



 中国チャイナには『胡蝶こちょうの夢』という説話がある。


 ある人は夢の中で胡蝶こちょうになり、自由気ままに”ひらひら”と舞い遊んでいた。

 そして胡蝶こちょうがふと目を覚ますと、その人は人間であったことに気付き、今まさに眠りからめたのだと気づいた。


 けれどその人は、もしかしたら自分は本当は胡蝶こちょうで、葉に止まり眠っている間に見た夢がこの人間としての生活なのかも知れない。


 そう考えたのだ。


 これは胡蝶こちょうの見る人の夢なのか。

 はたまた人の見る胡蝶こちょうの夢なのか。


 そんな話だ。


 ────『胡蝶こちょうの夢』か、『人の夢』か。


 それは夢を見ている本人である本人には分からないことだ。

 だから、確認のしようもない。


 けれどその語り手は、その疑問には意味がないのだと言った。


 胡蝶こちょうであれ人であれ、自分が今そうだと信じている生の中で満足が出来ればそれで良いのだと、そう言ったのだ。


 僕には、その主張が正しいと思えた。


 体が弱く病室から出られない僕の世界は、この狭い病室の中と病院の敷地だけだった。


 けれど本や夢の中では、その登場人物になりきって、どんなことだって出来るのだ。

 それに、僕は一日のほとんどを寝て過ごすものだから、本を読む暇ならいくらだってあった。


 僕は現実を生きている時間よりも、胡蝶こちょうとして夢を見ている時間の方が長かった。

 だから僕にとっては、『胡蝶こちょうの夢』の方が現実よりもなお”現実”だったのだ。


 僕は、漫画コミックやゲームに逃げる人生も、あっても良いと思う。

 それを楽しんでいる間に、君が胡蝶こちょうになっているのなら、その胡蝶こちょうとしての幸福は君の幸福でもあるのだろうから。


 だって、どちらがどちらであろうと関係はない。

 そうだろう?


 胡蝶こちょうも、人も、どちらでも幸福になれるのが理想だけれど、現実はそう甘くない。


 理不尽だ。

 不条理だ。

 不平等だ。


 だからこそ僕は、胡蝶こちょうとしての幸福で、人としての幸福の不足を補うことが不健全だとは、決して思わない。


 君のその夢は、胡蝶こちょうの夢は────誰でもない胡蝶こちょうにとっては、紛れもない現実なのだから。



 僕は、そんな夢の中で半身ベター・ハーフとすら呼べる相手と出会った。


 ……今にして思えば、その夢の中で僕の手を引いて居たのは、オルバースだったような気もする。


 それに、その半身ベター・ハーフと胸を張って呼べる”彼”も、現実のあの病院で僕に会いにきてくれていた気がする。


 未だ記憶が曖昧だけれど……嗚呼、そんな気がするのだ。


 けれど、それこそ、夢でも現実でもどちらでも良かった。


 手を引いてくれたオルバースも、僕の半身ベター・ハーフも、僕にとってはどちらも現実だったのだから。



 ……話を戻そう。


 やがて病の末期には、僕は起きていられる時間がだんだんと短くなってきた。


 そうなると自分が今寝ているのか起きているのか、その境すら曖昧になってきた。


 話し方なんていうものはとうの昔に忘れてしまったし、衰弱しきった体では歩く事もできなかった。



 そうしていつか僕は眠りについて、そのまま、二度と目醒めざめることはなかったのだ。



────────────

登場人物立ち絵:https://kakuyomu.jp/users/nekomiti/news/16816700429054835411

・『白紙の語部』クリア・ウェンデル - Clear Wendell

・『希望のやじり』オルバース - Olbers

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