10

「ありがとう……。皆のおかげで、あれから僕は一日だって寂しくなんかなかったよ」


 だけど、とブランカは言う。


「だけどね────この夢は、もう……おしまい」


 その言葉を聞いた〈ザフィーロ〉の住人達は、”はっ”と、弾かれるようにその顔を上げた。


 そして、優しく笑う、ブランカの顔を見つめた。


 百年越しの優しい嘘は、もう終わりなのだと。


 朝日は必ず登るように、めない夢もまた、ないのだろう。

 彼は────ブランカという少年はきっと、この優しい夢から醒める覚悟を決めたのだ。


「このままじゃ、皆が安心してけない…………そうだよね?」


 ブランカの口調は優しいものだった。

 けれど絶対にその決意を曲げるつもりもない、そんな力強さを持っていた。


 彼は言った。


 この夢は、もう終わりなのだと。

 この心地の良い夢は、めなければならないと。

 夢はいつだって、朝日とともに醒めるものだから。



 ◇◇◇



 未練を残した魂が現世に留まる事は、”ままある”事だ。


 災害や魔獣の襲撃による突然の破滅が襲った街が、不死者アンデッドの徘徊する幽霊都市ゴーストタウンになるという事例も、世界中ではそれなりに報告されてもいた。


 多少の時間、魂が現世に留まる程度であれば夢枕に立つなどして未練を解消してしまえば召されるものなのだが、亡霊ゴーストとなってからの時間が長くなってくると、本当に心身ともに魔物になってしまうのだ。

 そこまで魔物に染まってしまえば自力ではもはやくこともできなくなり、高位の聖職者による浄化が必要になる。

 最悪の場合、人の魂へと戻れなくなる事もあるらしい。


 そうなれば魔物として『流転の水車』に還り、そこで魂を洗われるまで、人ではない”何か”に成り下がってしまう。


 この街の住人達に残された猶予は、おそらくだが、もうほとんどなかった。

 ここで夢から醒めなければ、彼らに残された人としての残滓ざんしが全て失われてしまうのだ。


「でも……! でも、それじゃあ、あんたがまたこの街に一人に……っ」

「大丈夫。大丈夫だよ」


 アガタに語りかけるブランカは、ふと足元のトマソンに目を向ける。

 彼は未だに情けない格好で地面に座り込んだままだった。


「なんとなく思い立ってゴンドラで街を出てみたら、あの霧の向こうで、トマソンさんと出逢えた……。多分だけど、ザフィーロの力を借りれば、きっと、どこへだって行けるんだ」


 それから住人達に視線を戻したブランカの笑顔は、一欠片ひとかけら寂寥せきりょうもなかった。

 まるで春の日差しのような、清々しい笑顔だった。


「きっと……これから色んな人に出逢えるよ。それになんだか、友達なんかも出来そうな気がするんだ」


 そんなブランカの笑顔を向けられてしまうと、もう何も言えなかった。

 アガタや他の住人達も、その彼の笑顔につられるように、ぎこちないながらも笑みを浮かべてしまった。


 こうして、住人達を街の幻影へと縛り付けていた、たった一つの未練が、春の日差しに誘われて氷解した。


 ブランカはこの街から出て、”世界”で生きていく事を決めた。

 きっと、これから沢山の人に出逢いながら生きていくのだろう。


 ならばこの街は────虚飾にまみれた夢の揺籠ゆりかごは、もう終わりにしよう。


「そう……。そうかい……」

「うん。だから、だからね…………今までありがとう」


 死してなお、たった一人の少年の為に現世にしがみ付き続けたこの街の住人たちはきっと、これでようやっと次の旅へと出ることが出来るのだろう。


 亡霊ゴーストと言うものは、少しでも世界を憎めばすぐにでも魔物へと墜ちてしまうはずのものだ。


 ────にもかかわらず、彼らは長い間、その精神性を”人”のままで保ち続けてきた。


 それは、本来であれば在り得ないような奇跡だった。

 それは、薄氷うすらいの上を歩み続けるような危うい均衡きんこうだった。


 そんな奇跡を成したのは、彼らの精神性を繋ぎとめていたくさびは────もしかするとブランカへの愛情なのかも知れない。


 彼らが皆、純粋な愛情で彼のためだけに留まり続けていたから────自らの欲ではなく完全な他人への愛がその未練だったからこそ、これだけの長い時間その性質が魔物へと墜ちる事がなかったのかも知れない。


 そんな”奇跡”を、ふと、信じたくなった。



 ◇◇◇



「ブランカ……元気でやるんだよ。身体には気を付けてね」

「そうさな……。お前が出てって楽しくやるなら、ワシらもさっさと逝くとするさ」

「あんた、お人好しなんだから、変な人に騙されないようにね? ほら、変な壺とか買わされないようにさ」

「お前ならどこでも皆に好かれるさ。自信もってやんな!」

「頑張ってくださいね。わたくしも、新しい子供が出来たようで、とてもたのしゅうございました」


 そうして、住人達とブランカは口々に別れの言葉を交わしていく。


 一通りの別れが済んだところで、ブランカの後ろに居たトマソンも「追い掛け回してすまなかった」と住人達から謝罪を受けた。


 トマソンの目は大瀑布だいばくふもかくや、という大号泣だったが、ブランカが何か困り事があれば自分を頼ってくれていいと、力強く住人達へと請合うけあった。

 本当に人の良い男だ。


 そんなトマソンを笑いながら眺めていたブランカだったが、一息ついて、改めて住人達を見回した。


「最後に一つだけ……良い、かな……?」


 彼らはやがて、『輪廻の水車』へ旅立つだろう。

 そうして次に生まれてきた時、それはブランカの知る彼らではない。

 彼らはもう、死んでしまった、終わってしまったのだから。


 だからきっと────いや、確実に、これがもう最後なのだ。


 正真正銘、皆と最後に交わす言葉になる。


 次はもう、ない。


 宿屋の優しい店主のアガタ。

 船の修理をしてくれた頑固親父のルイージ。

 市場で客引きしていたエレナ。

 エレナといつも揉めていたロドリゴ。

 落ち着いた雰囲気の資料館の支配人、ジャンパオロ。


 みんな、みんな、この世界から永遠に居なくなってしまう。


 そう思うと、今までの沢山の思い出が、あふれて止まらなかった。


 なんて事はない挨拶、なんて事はない会話、何もかもがもう二度と戻ることはない。

 何もかもが終わってしまったのだと、突きつけられるようだった。


「……いつか皆が生まれ変わったら、きっとこの街の事はもう覚えてないんだろうな……」


 そこで初めて、ブランカの目から涙がこぼれた。


「けど、僕がずっと覚えてるよ。綺麗な街があった事も、魚が美味しい事も、ブーゲンビリアの花の色も、皆が居た事も、ずっと……ずっと覚えてるから。皆の代わりに、僕がこの街を覚えているから。だから、いつか、この街の話を聞いてくれる?」


 きっと彼らは、もう時間の止まったブランカを置いて、何度でも逝ってしまうのだろう。


 けれどもしかしたら、いつかどこかで生まれ変わった彼らとブランカは、また出逢う事もあるかも知れない。


 だって、ブランカは色んな人と出逢いながら生きていくのだと決めたのだから。


 きっと、その時にはきっとまた、島亀の昔話を彼らに話して聞かせよう。

 そうしたら一度途切れた経糸たていとも、またもう一度、繋がるはずだから。

 あの織物テキスタイルのあの切れ端も、またもう一度、織り足されていくいくはずだから。


「馬鹿な子だ……。アタシ達は今、幸せさ。アンタがまた笑ってくれたんだから。聞くよ。何度だってね……」

「ええ、私も聞きましょう。百年という時間はとても長かったようで、それでいて一瞬でしたね……」

「私達がこの街に戻ってきたのは、きっとこのためだったのよ! 運命感じちゃうよね!」

「何もかも亡くして、後は魔物にでもなるだけかと思うたが、人生分からんモンさな。……いや、もう死んどるか」

「おいおいルイージの爺さん、笑いづらいぜその冗談は……」


 一度はその時を止めた島亀ザフィーロの旅路は、今再び始まった。


〈ザフィーロ〉と言う織物テキスタイルは、偶然にもブランカと出会ったトマソンという商人を緯糸よこいとに組み込んで、その経糸たていとを継ぎ足しながら新たな模様を描き始めた。


 もう一度、外の世界へと漕ぎ出した、


 街の思い出と共に、沢山の人と出逢いながら生きていく事を決めたブランカと共に。


 いつか漁師の少年が願ったように、世界中の人々と出逢うために。


「あぁ。でも次に会う時はアタシの方が子供になってそうだねぇ」

「島亀の昔話、他の奴にも聞かせてやっとくれや」

「じゃあね~! 野菜はしっかり食べるんだよ!」

「元気でやれよ! 魚もちゃんと食えよ!」

「貴方ならきっと、大丈夫ですよ。どうかお元気で」


 そう言って笑いながら、街の住人達は手を振って消えてった。



 願わくば彼らの次の旅路は、きっと幸福なものでありますように、と────僕はそう願わずにはいられなかった。



 ◇◇◇



「本当に、良い街でしたね……」

「ふふ、そうでしょう?」


 空は蒼く澄み渡り、〈ザフィーロ〉の街には太陽が燦々さんさんと降り注いでいる。

 虚飾の住人たちが消え、船が行き交うこともなくなった〈ザフィーロ〉の大運河カナル・グランデには、ブランカとトマソンだけが立っていた。


 住人達が消えて名実ともに廃墟街ゴーストタウンとなった〈ザフィーロ〉から、最後に残された、たった一人だけの客人が街を旅立とうとしていた。


「けれど、彼らにはああ言ったのに、一人で残ってしまうんですか……?」

「ええ、もう少しだけ。この街でやってみたい事があるんです」

「それは……お尋ねしても?」


 ふふっと笑うブランカは、一つ指を立てて笑顔で答えた。


「ふふ。……”拉致”です!」

「はい???????」


 明らかに今までの会話の流れから飛び出す筈のない単語に、トマソンが素っ頓狂すっとんきょうな声をあげた。

 とてもではないが、彼の笑顔から飛び出すはずの単語ではなかったのだから、それも仕方がない。


「ああ、ええっと。……客引き?」

「……いえいえ、まだ意味が分かりませんからね??」

「うーん……そうですね……。折角せっかくこのブレスを貰って、たぶん誰とでも出逢えるんだし……? この街を色んな人に見て欲しいなあ、って思いまして」


 トマソンは、彼のこの顔には見覚えがあった。


 宿屋で見たとき以来の、天使の造形とも言える顔を最大限に悪用した危険な笑顔。

 ブランカの小悪魔スマイルだ。


「だから、この力を使って、旅人さんを街に誘ってみようかなーって。まぁ、了承は取れないので無差別なんですが……」


 そう言ったブランカは”えへへ”と、恥ずかしそうに笑った。

 その言葉の真意をようやっと読み取れたトマソンは、彼の笑顔につられるように笑う。


 なるほどそれは、きっと楽しい”悪戯”であり、素敵な”拉致”となるだろう。


「あぁ、なるほど……。それはなんとも……ふふ、面白そうですねぇ。きっと皆さん驚くでしょう」

「でしょう? この街を出るまでに、一人でも多くの人にこの街の素敵なところを知って欲しいんです!」


〈ザフィーロ〉という、時が止まった、滅びた市街。


 されど、その景色だけはいまだに在りし日の美しさを保っており、その街並みは見るものをきっと感動させることだろう。

 そんな街へといざなわれた何も知らない旅人は、ほんの一時の白昼夢の中でこの街の魅力を知るのだ。


 そうして街を後にした旅人は、きっともう二度と足を踏み入れる事のないだろう美しい街並みを思いながら、ふたたび日常へと帰って行く。

 あの島亀の生きた痕跡こんせきを引き連れて、彼の旅を引き継いで、そうして世界中の人々と出逢うために元の世界へと帰って行くのだ。


 自らもこの街に驚かされたトマソンは、きっと開いた口が塞がらないであろう旅人の顔を想像し、我知らずほくそ笑む。


「ええ、それはもう! この街の景色は他で見られる物ではないですからね!」


 そうして、それはなんとも面白そうな考えだと、そう思ったのだった。



 ◇◇◇



 二人は桟橋の先から〈ザフィーロ〉の街を振り返り感慨深げに見つめていたが、どちらからともなくおもむろにゴンドラへと乗り込んだ。


 ゴンドラはゆっくりと桟橋を離れて、晴天にも関わらず、まるで壁のように街の周囲を取り囲む霧の中へ入っていく。


 その後には人が消え去った街が静かにたたずむのみだった。


 けれど、その街にはきっと、これから幾人かの旅人が訪れるのだろう。


 その旅人達は、確かにここに美しい街が在ったという事を忘れないで居てくれるだろうか。


 ……なんて、そんな事は要らない心配かも知れない。



 この街は、世界中を巡ったザフィーロが『最も美しい』とひょうした海に浮かぶ、『亀が愛した”海”の宝石』〈ザフィーロ〉なのだから。





 Clear Qualia 〜白紙の少年〜

 亀が愛した水底の宝石 -precious sapphire on the seabed-


 完

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