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 聖堂バシリカ内へと飛び込んだトマソンは、大急ぎで扉を閉め切って扉から離れた。


 つい先程、建物をすり抜けてきた亡霊ゴーストの老紳士に追い詰められたばかりではあるのだが、何を隠そうここは聖堂なのだ。


 聖なる場所であるここならば、今度こそ追跡の手を逃れられるかも知れないと、彼は自分に言い聞かせる。

 なにゆえ聖堂かと言えば「不死者アンデッドと言えば聖なるものが苦手なはず」という安直な発想からだった。


 だが考えてみれば、まだ日が高いにもかかわらずあの亡霊ゴースト達は平気で屋外に立っていた。

 それを踏まえると、この聖堂にもどれだけ効果があるが怪しいところだ。


 だが、最早もはや打つ手のないトマソンには手段を選んでなどいられない。

 彼はもう、すがりつけるのなら誰でも良いというレベルで追い詰められているのだ。


 だからこそ、そこにいた人物は、絶体絶命のトマソンにとってはまさに救いの神のように見えたのだった。


「あれ? トマソンさん?」


 彼が見たのは、聖堂バシリカの長大な身廊の先にある十字廊クロッシング────その前に敷かれた聖域サンクチュアリに接した聖歌隊席クワイヤに立つ、ブランカ・ロセッティの姿だった。


 十字廊クロッシングとその周辺にいくつもの巨大なドームを備えたこの大聖堂バシリカの内部は途轍もない高さを誇っており、ドームの高窓クリアストーリから降り注ぐ神聖な光は、聖歌隊席クワイヤを壮麗に、そして荘厳に照らしている。


 そこに立つブランカの姿はまさに愛の神クピードー────トマソンと初めて出会った時に彼が勘違いしたように、だ────のようで、神々しい一枚の宗教画のような光景だった。


 こんな時でさえなければ、声をかけずにその背を見つめ、祈りを捧げたかも知れない。

 それほどに”絵になる”景色だった。


 だが、今はそんな場合ではない。

 この緊急事態の最中、この街ではトマソンと最も縁深い人間と出会えた安心感は、まさに筆舌に尽くし難かった。

 これでやっとひと安心出来ると、ほっと胸を撫で下ろしたものだ。


「ブランカさん!! ご無事で良かった……! 実はですね……」


 だが、ブランカに助けを求めようとしたトマソンは”はたと”気付く。


 ────もしや、ブランカも不死者アンデッドではないのか、と。


 思えば、トマソンがこの街に辿たどり着くきっかけとなったのはブランカの案内だった。

 彼がこの魔物の巣窟へと誘ったのだから、ブランカも不死者アンデッドの一味である可能性が高いのではないか?と考えるのは当然の帰結だ。


 なにより、あんな森にゴンドラが居たという点も、今にして思えばおかしな話だった。


 ……今更だ。

 本当に今更だ。


 だが、なぜあんな霧深い森の小川にあれだけ豪華な観光客向けのゴンドラがいたのだろうか?


 それに、この街の立地も謎だ。

 これも今更が過ぎる疑問ではあるが。


 トマソンはそもそも〈アインガルド帝国〉から〈シェンゲン諸国〉へ向かって旅をしていたのだ。


 そこに、”こんな水郷はない”。

 というより、そもそも”海すらない”。


 ……それにだ。

 今にして思えば、この街で見かけた案内板の表示は、〈エートス共和国〉で使用されている文字────『エートス共通語』だった。


 では……それでは、この街は一体なんなのだ?という話だ。


 今更の疑問が……冷静であればすぐに気づいたはずの疑問たちが猛烈に噴出する。

 命の危険から救われたことに舞い上がって、疑うべきはずの様々な違和感を見落としてしまっていた。


 現状では彼もかなり……いや、むしろ一番怪しいとすら言えるのではないだろうか?


「彼こそがこの街へ生者を迷い込ませる役割をになった不死者アンデッドなのでは?」という結論に辿り着くのは、至極しごく自然な流れであった。


 あれだけ慌てふためいておきながら、今更に”しら”を切りとおせるかははなはだ疑問ではあったが、それでも確認だけはしておきたい。

 そう思い、恐る恐るブランカの足元に目を落とすトマソン。


 聖堂の最奥、高窓クリアストーリから差し込む壮麗な光の中に佇むブランカの足元には────確かに、影があった。


 その事実に、トマソンの全身から力が抜けた。

 安堵が”わっ”と溢れてきて、思わず崩れ落ちるように座り込んでしまった。


 亡霊ゴーストに、影はないものだからだ。


 では街の住人たちはどうなのだ?と言われれば、正直にいうと、彼は見ていなかった。

 昼間に道を歩いていて、「こいつは亡霊ゴーストか?」と誰も彼もを疑って影を確認するものなどいる訳がない。


 だから街の住人たちの影の有無については、未だに良く分からないままだ。

 しかし、全く気にしていなかったせいで気づかなかったものの、恐らくは彼らに影はないはずだ。


 自分が触れた、れないは、亡霊ゴーストの意思で再現する事ができる。


 しかし、意識の外から突然触れられたり、水が触れた場合や光に当たった場合などは対応しきれないのだ。

 押し返すためにも特殊な力を使う必要があるのだから、そもそも触れられた事に気付かなければそんな事が出来ようはずがない。


 そして、亡霊ゴーストには光を遮る事も難しい。

 そもそも光というのは波動の一種なのだが……それを理解している人間が、この幻想ファンタジー世界にどれほどいるのだろう。


 理解できないものに対して、意図的に影響を与えるのは不可能なので、そんな芸当は亡霊ゴーストには出来ないというのが通説だ。

 この世の全てを完璧に知り尽くしたような亡霊ゴーストがいるのなら、光の波動すら制御して影を作れるかも知れないが、そんな者がいれば今頃はとんでもない伝説の魔物になっている事だろう。


 だからこそ、影があるかどうかが亡霊ゴーストを見分ける手がかりとされているのだ。

 つまりその足元に影があるブランカは、しっかりと実体のある、生きた人間、と言う事になる。


 そうトマソンが安心した直後、背後の扉が激しく音を立てて開かれた。


 トマソンはその音に驚き、現状を思い出して狼狽し、足をもつれさせながらブランカ足元へ転がり込んだ。


「ひいいい……!! そうです!! 私追われていたんです!!!」


 聖堂の扉を開いたのは、半狂乱のトマソンを剣呑けんのんな眼差しでにらみつける住人たちだった。

 建物へ入ってこられたという事はすり抜けることも出来たはずなのだが……なぜか今は、彼らは普通にドアを開いて入ってきた。


 やはり聖なる場所の筆頭である聖堂には、何かしら彼らに亡霊ゴーストらしい力を発揮させない特性があるのだろうか?


 一触即発の雰囲気の街の住人たちとトマソンとは裏腹に、ブランカはのんびりとした口調で皆に話しかける。


「ええっと、皆さんお揃いでどうしたんです?」

「そんな暢気のんきなぁ!!」


 こんな時でも変わらずマイペースなブランカに、「空気読めよ」と言わんばかりにトマソンがすがりつく。

 そして、そんな調子のブランカとは真逆だったのがザフィーロの住人達だ。


 聖堂の入り口に立つ住人たちはブランカへと視線を向けると、少し”ばつ”が悪そうな表情を見せた。

 彼らのその様子は、どこか冷や汗をかいて焦っているようにも見える。


 それを見ていると、まるで”トマソンとブランカを会わせたくなかった”かのようだった。


 聖堂内に張り詰めた糸のように緊張した空気が満ちる。


 そんな中、慎重に言葉を選びながら口を開いたのは、宿屋の女主人のアガタだった。


「ブランカは先に帰っておきな。アタシ達はちょっと……その商人さんと話さないといけない事があってね……」

「ひいいい! 殺されてしまいます!! この人達は……」

「やめとくれッ!!!!」


 トマソンの叫びをき消すように、アガタの怒声が叩き付けられる。


 これには”さしも”のブランカも肩をびくりと震わせた。


 人の良い優しいアガタがこんな風に怒鳴りつける事など、今まで一度たりともなかったのだ。

 彼女がこんな表情をする事があるだなんて、彼には想像もつかない事だった。


 だが、直後にアガタの口から出たのは、先程とは打って変わって弱々しい懇願だ。

 それは、今にも消え入りそうな悲痛な叫びだった。


「やめとくれよ……。その子は知らなくて良いんだ……その子だけは、このまま幸せに暮らしていけるんだ……。頼むよ…………」


 アガタはそのまま泣き崩れ、周りの皆に支えられるようにして座り込んだ。


 状況を理解できずに固まるトマソン、アガタをじっと見つめるブランカ。


 そんな時間が果たして何秒間続いたのだろうか。


 実際にはたった一秒だったかも知れないし、一時間だったかも知れない。


 彼らにとっては永遠にも思えるような長い静寂せいじゃくの末に、ブランカはそっと口を開いた。


「………僕ね、知ってたよ?」


 住人たちにとっては、その言葉はまるで────


「この街にはもう、神さまはいないんだって」


 死刑宣告のような言葉だった。



 住人たちは動揺し、その瞳はあまねく絶望の色に染まっていた。


 力なく地面を見つめ項垂うなだれる者がいれば、両手で顔を覆う者、ただただ立ち尽くす者も居た。


 彼らは────この街の住人たちは皆、既に亡霊ゴーストとなっている。


 そんなどうしようもなく無常な現実を、果たしてブランカにどう説明すれば良いのだろうか?

 こんな残酷な事を、どんな顔をして言えば良いのだろうか?


 彼らは悩んだ。


 そして、その答えは……どうしても出なかった。


 だから彼らは、いつかこのめない夢が終わるまで、何年でも、何百年でも、嘘をつき続けると決めた。


 それまでと同じように、さも生きているかのように装って、ずっと……ずっと、街の住人を演じ続けてきたのだ。


 皆、隠し通せていたのだと思い込んでいた。


 なのに────


「みんなが昔と同じように振舞おうとしてくれてたの、本当は気付いてたよ? ……だからね……だから、気付いてない”ふり”をしてたんだ……。それがみんなの優しさだって、気付いていたから……」


 不死者アンデッドである彼らは、嘘をつき続けなければいけなかった。

 そうでもしなければ、たった一人まだ生きているブランカが、本当に独りぼっちになってしまうから。


 ……だというのに、その嘘は、とっくの昔に既にばれてしまっていたのだ。


「うあ…………あぁ…………あぁぁぁぁ………………」


 彼のその聖母のような眼差しを向けられたアガタや他の住人達にできる事は、嗚咽おえつを漏らしながら泣き崩れる事だけだった。



 ◇◇◇



 この街の時が止まったのは、今から数十年から百年以上前の事だった。


 彼らにはその正確な数字は分からない。

 なぜなら、この街の時は、もう止まってしまっているからだ。


 その日も、昨日と同じように晴天で、一昨日と同じように船が行き交う。

 そんな日になるはずだった。

 それまで何回、何百回、何千回と繰り返した日常と代わり映えのない、いつも通りの日常になるはずだった。


 しかし────そうはならなかった。


 沖合いに現れた強大な海蛇シーサーペントのような魔物の一撃によって、その日常はもろくも崩れ去ってしまったのだ。


 暴れ狂う海蛇シーサーペントの起こす大波は、人の背丈どころか建物よりも高く、街の一切合財いっさいがっさいを押し流した。

 人には抗いようのない、神の裁きに比肩する一撃だった。


 人々は海にさらわれ、船は木端微塵こっぱみじんに破壊された。

 珊瑚は砕け散り、魚は陸に打ち上げられ、沿岸部の森は根こそぎ押し流された。


 この街だけでなく、周辺の沿岸部の街や村も、全てが壊滅した。


 そして川をさかのぼった大波は、大陸の内陸部にまでも甚大な被害を出したのだ。



 そうして美しい街並みは一瞬にして水底に沈み……後には何も残らなかった。



 しかし、その街にはたった一人だけ、生き残った人間がいた。


 それが、たまたま街で一番高い鐘楼で歌っていたブランカだった。


 その高さまでは流石に波も届く事はなかったし、島亀の背に建てられた、頑丈な作りで魔術的な強度も高かった鐘楼は、終末の大破壊のような大波にも耐え切った。


 その聖堂に守られて、彼は無事生き残った。


 ……だが、それが良い事であったのかと言えば、必ずしもそうとは言えなかった。


 生き残った────いや、生き残ってしまった少年にとっては、現実は余りにも苛烈かれつ過ぎたのだ。


 何もかもが破壊されつくした無残な街並みは、まるでこの世の地獄のようだった。


 聖堂はその硝子ガラスの全てが破壊され、内部のありとあらゆる部分に海藻や流木と言った漂着物が絡みつき、冒涜ぼうとく的な怪物の腹の中にでもなったかのような有様だった。

 美しかった街並みもほとんどの建物が基礎を残して根こそぎ失われ、一部の残った建物も聖堂と同じような有様だった。


〈ザフィーロ〉の代名詞でもあるラグーナは大津波により根こそぎさらわれ、島亀の背以外の区画はそのほとんどが基礎の杭と飛び散った石材だけになっていた。



 そして何よりも、人が、動物が、溺死した数えきれないほどの命が、ラグーナと街の残骸に引っ掛かり、無残に散らばっていたのだ。



 それに耐えかねた彼は目と耳を覆った。


 知覚できる全ての情報を拒絶して全てを無かったことにした。


 だってそうしなければ、心が死んでしまいそうだったから。


 どうしてこんな事になってしまったのか。

 どうして皆が死ななければいけなかったのか。

 どうして自分だけが生き残ってしまったのか。

 どうして誰も助けてくれないのか。


 ────どうして、どうして、どうして。


 繰り返される疑問。

 そのたびに心は擦り切れていった。


 ”ぼろぼろ”になった心が導き出す答えは、何度繰り返そうとも、いつだって、一つだけだった。



 ────みんなと一緒に死んでいれば良かったのに、と。



 そうして彼は、心を閉ざした。



 けれど、そんな彼を見守る者が、一人いた。


 それは、この街の誰もが知る、遥か昔にちたものだった。

 それは、この街をずっと見守り続けていたものだった。


 その名は『ザフィーロ』────遥か昔に世界を旅した、巨大な島亀の精霊だ。


 島亀ザフィーロは、長い年月を経て、生前の最期には既に神獣の領域に達していたのだ。


 彼は街の土台となる事で精霊となる最低条件の”名前”を得て、長い間この都市の人間に愛され、信仰され、神格を上げ、今この時になって初めて街の守護精霊として生まれ変わることができたのだった。


 ────しかし、遅かった。


 ようやっと精霊として目が覚めてみれば、街は既に水底に沈んだ後ではないか。


 遅過ぎた。

 何もかもが遅きに失した。


 しかし彼は、見つけたのだ。

 まだ一人だけ、彼が護るべき住人が残ってる事に気が付いたのだ。


 だから彼は、最後の住人を守る為に仮初めの街を作った。


〈ザフィーロ〉の全域を巨大な結界で囲み、その内部の時を戻して在りし日の景色を再現し、その状態で永遠にとどめることにした。

 ブランカへ不老不死の祝福ブレスを与え、”精霊の愛し児ブレスド”としたのだ。


 そうすれば彼の手にはまだ、守るべき街と護るべき住人が残るのだから。


 それはまさしく『大いなる業アルス・マグナ』と呼ぶに相応しい、人の常識を容易に飛び越えた大魔法だった。

 奇跡の結晶の如き大偉業だった。


 だがそれは、何の解決にもならない。

 なっていない。

 ただのザフィーロの自己満足にしかならなかったのだ。


 壊れた硝子ガラスの破片を組み合わせた容器に水を注いでも、水はそこには溜まらない。


 そんな事をしたところでブランカの心の傷が癒える事はあるはずもない。


 ザフィーロの行いはブランカにとって、何の救いにもならなかったのだ。


 全てを失った抜け殻のようなブランカと、ただ寄り添い続けるだけのザフィーロは、それからずっと、二人きりで聖堂にたたずんでいた。


 それはまるで聖像のようであったし、死体のようでもあっただろう。


 生きている事と死んでいない事は、必ずしも同じ状態を示さない。

 死んではいないが生きているとは言いがたい、そんな状態だった。


 街に変化があったのは、それから数日後の事だった。

 その変化は、信じられないような変化だった。


 全てが滅び、時の止まった街へと、幾らかの住人たちが帰ってきたのだ。


 もしや、神の恩寵によって人が生き返るという、常識では有り得ない奇跡が起きたのだろうか?


 ……答えは、Noだ。


 住人達は確かにそこに存在していた。


 だが、彼らは既に”人”ではなかったのだ。


 その正体は星幽アストラル体────すなわち、『輪廻の水車』ダーレストの祝福ブレスを受けた低位の不死者アンデッド……亡霊ゴーストだったのだ。


 亡霊ゴーストとは、自らの死を認められない魂や死すら自覚していない魂が、輪廻を司る精霊である『流転の水車』ダーレストの祝福を受けて歪んだ生を得た、不死系統の魔物の事だ。


 そんなものを作り出す奴はきっとろくな趣味をしていないな、と思うかも知れない。


 だが、実際の所は彼には悪意もなければ魔物を作り出す意図もない。

 ただひたすらに、『流転の水車』の善意によるものだ。


 彼の力で仮初の歪んだ生を得た魂は、不死者アンデッドとしてその心残りを遂げる機会を得る。


 その心残りは、自らを殺した者への復讐であったり、残してきた家族への別れであったりと、人によって様々だ。

 そうして心残りの消えた魂は、ようやっと迷う事なくく事が出来る。


『流転の水車』が望むのは────それだ。


 心残りがあって輪廻転生の輪に帰ってこない魂を呼び戻すために。

 彼らの心残りを晴らす一助として、『流転の水車』は不死者アンデッドを作り出す。


 けれどいつまで経っても昇天しなかった場合、不死者アンデッドの精神性は少しずつ魔物のそれへと傾き、よほど強靭な心を持っていない限り、知性の無い魔物へと成り下がってしまう。


 そうして知性を失った亡霊が、俗に言う亡霊ゴーストと呼ばれる魔物になるのだ。


 亡霊ゴーストとして蘇った街の住人たちも、その心残りを解消することなく彷徨い続ければ、いずれは完全に魔物へと成り果てるだろう。


 だが彼らの無念は、突如として強大な魔物に殺された無念は、どうやっても晴らせるものではない。

 彼らはそのどうしようもない無念を抱え、それを晴らすこともできず、生ける者全てを恨む、完全なる魔物へと堕ちてしまうだろう。


 ────そのはずだった。


 だがその時、彼らはふいに、聖堂に生者の気配を感じたのだ。


 彼らが恐る恐る聖堂に足を踏み入れると、そこにはただ一人生き残ったブランカが居た。

 聖像のように、死体のように動かない、ブランカがいた。


 たった一人で生き残ってしまった彼の姿は見ていられないほどに小さく、風でも吹けばそれだけで死んでしまいそうな程に弱々しかった。

 そんな彼を見た住人たちは、誰一人として口には出さなかったが、心のうちでは皆、同じ思いを抱いていた。


『何事も無かったかのように振る舞い、この街で暮らし続けよう。たった一人生き残ってしまったこの子を再び孤独にしないために、自分たちも生き残ったように偽ろう』と。


 そうして、不死者アンデッドたちの代表として一歩前に出たアガタは、気掛けて嬉しそうな表情を浮かべて、こう言ったのだ。


「良かった……! アンタも無事だったんだね?!」


 その声を聞いたブランカは、壊れかけの錻力ブリキ人形のようにぎこちなく顔を上げた。

 アガタの笑顔を認め、周囲の住人たちを見回し、泣きながら笑った。


 それ以来、この街の住人たちはみな、生前と同じようにそれまでの生活を繰り返してきた。


 ブランカ以外の人間は誰も生きてなどいないのに、いつもと同じように仕事に精を出し、日々を楽しみ、時々祭りを開いた。

 なるだけ明るくブランカに接し、面白おかしく話をした。


 ブランカのためだけに、在りし日の街を演じ続けてきた。


 彼らは皆、”嘘つき”だった。


 どうしようもなく空虚で、どうしようもなく優しい”嘘つき達”だった。



 ◇◇◇



 亡霊ゴーストたちと一人の精霊が、たった一人の少年の為だけに作り上げた虚構の箱庭。


 在りし日の街をかたどった、虚飾塗きょしょくまみれで優しい、廃墟街ゴーストタウン

 終わることのない、温かな夢の揺り籠。


 それが、『亀が愛した”水底”の宝石』〈ザフィーロ〉という街の正体だったのだ。

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