3
川の流れに乗った船は
トマソンが川に飛び込んでからどれだけの時間が経ち、一体どれだけ流されたのかは定かではないが、川の流れが”激流”から”急流”程度には緩やかになっているのを見るに、あの小川からはだいぶん離れたらしい。
周りは霧に覆われて全く視界が利かないにも関わらず、よくもまぁどこにもぶつけずに操船できるものだ、とトマソンは感心する。
もしかすると何度も通った
「この霧の中でそれだけの
「ありがとうございます。まぁ、いつも船に乗ってますからね。自分の足みたいなものです。岩くらい流れを見てたら当たりませんよ。それにしても、トマソンさんはどうしてあの川に?」
「うっ……よくぞ聞いてくれました……」
そのブランカの問いに待ってました!と言わんばかりに、トマソンは宿場町を出てからの散々な目にあった話を涙ながらに語った。
彼自身の災難は小さな不幸の連続ではあったが、そんな
人間だれしも
注意深く生きなければ、いつ、どこで命を落とすかわからない。
治安の良い
そんな危険を避けるためにも、『剣の
……が、今のトマソンの有様を見る限り、彼の観察眼の点数は落第点のようだ。
とまぁ、そんな過酷な世界だからこそ、安全な人の領域の外に出る人間は貴重だ。
普通の人間は危険をおして街の外へ出る職を選んだりはしないのだから。
だって、いつ死んでもおかしくないのだ。
当然だろう。
そうなると外の商品や情報というものは、
「そ、それは……。ご無事でなによりですね……」
「えぇ……そりゃあもう。ですがブランカさんに助けて頂いて命を拾ったようなものですからね。このご恩は忘れません」
「大袈裟ですよ。浮いてたのをゴンドラが
あんまりにもあんまりな助かり方には、さしものトマソンも苦笑する。
まぁ、劇的な助かり方をしたかった訳ではないし、命あっての物種なので問題はないのだが。
そう────命あっての物種だ。
助かっただけで良しとしなければ。
「想像より雑な助かり方ですね……。いや助かった事には変わりはないんですが……」
「良かったですね。ふくよかで」
「う〜ん、
◇◇◇
そんなこんなで川を下り続け、二人は
小さな船にしては
流石は
ブランカのゴンドラは、黒い塗装に金の装飾が施された高級感がある
そんな船を持つブランカもきっと、客を相手に商売をする
話し上手に聞き上手、というのも頷けるというものだった。
それからしばらくゴンドラに揺られて、また少し時間が経った頃のことだ。
ようやく街が目と鼻の先まで近づいてきたらしい。
心なしか、トマソンの目には周囲の霧が薄くなってきたようにも見えた。
「もうすぐ河口に着きますよ。街もすぐそこです!」
「いやあ、楽しみですねぇ」
「ええ、楽しみにしててください。魚とかとっても美味しいし、あと街並みも自慢なんです」
ブランカの街を見せたくて仕方がないという気持ちを隠さない笑顔に、トマソンもついつい街を楽しみにしてしまう。
今に至るまでの森でのトラブルは、いつも以上にトマソンを
────そんな心持ちだったからだろうか。
トマソンは、普段なら気がついていたかも知れない違和感を、幾つか見落としてしまったのだ。
たとえば、彼が通るつもりだった橋の下にはゴンドラが通れる高さなどなく、船が通るはずがないこと。
たとえば、彼が通るはずだった橋から河口まではとても長い距離があり、数日かかっても辿り着ける距離ではないこと。
たとえば、
◇◇◇
視界を覆っていた霧が薄くなり、
それと共に、そこはかとなく海の気配を漂わせた潮の香りが鼻をつき始めたのが分かった。
そんな川の
まだ周囲に街の気配は
この海はおそらくは地形的には
見渡す限りの海面に大きな波の気配はなく、そこにあるのは
遠く
遠くから聞こえる、”ざあ”と砂浜に波が打ち寄せる音。
近くから聞こえる、”ちゃぷん”と
それらは各々の
霧の切れ間から覗き始めた空は、少しばかり明るかった。
真上にあたる天頂は真っ暗闇だが
未だ周りが真っ暗闇ではない所を見ると、まだ日が沈んでから、さほど時間は経っていないのかも知れない。
おそらく、これから辺りが暗くなるのと共に、夜空には星々が
トマソンがそんな事を考えながら心地のよい船の揺れに身を任せていると、ふいに彼が森で目覚めた時に聞いた美しい
後ろを振り返ってみてみれば、ブランカが
こうなると、もはや修行か何かとしか思えない重さになる。
だと言うのに、
それは、まるで
けれどブランカは、その重労働をこなしながら歌まで歌っているのだから
その実力は、常日頃から操船も歌唱も努力を
それに気を取られていたトマソンは気付く事はなかったが、いつの間にやらゴンドラの
当然、ゴンドラの後方に立ったままのブランカでは手が届くはずもない。
それが暗くなると勝手に灯りがつく魔道具か何かなのか、はたまたその他の技術体系の技が使われた便利な
全てを飲み込む暗黒の底のような夜の海にあって、それはとても頼りない、小さな
そのランタンは、光源が月と星しかない夜の
小さな波がゴンドラへと打ち付けるたびに
そんな一つ一つの小さな音たちは、初めは自分本位に歌い踊るばかりだった。
けれどやがて、それらが寄り集った音は小気味のいい調子で
互いに響きあって
海が奏でる全ての音が、ゴンドラを
それは
トマソンはそんな光景に我を忘れていた。
歌に聞き入り、ぼうっと星空を見上げていた。
しかし、やがてはそんな心地よい時間も終わりを告げてしまう。
コンサートの終わった船の上では、
「素晴らしい! 思わず、時間も忘れて聞き入ってしまいました……」
「ふふ、ありがとうございます。……さてと、丁度街も見えたところで────」
そこで一度言葉を切ると、ブランカはゴンドラ後方の狭いスペースで器用に片足を引き、装飾品のように浮き玉の下がった帽子を取って手を胸にあてた。
それはどこぞの貴族がするような正式な所作で、仰々しくも足先から指先までが堂に
「『亀が愛した海の宝石』〈ザフィーロ〉へようこそ! この街は、喜んで『旅人』を歓迎しますよ」
ブランカの告げた歓迎の言葉。
それを受けて、先程まで歌に聞き入って全く回りを見ていなかったトマソンは、
そこにあったのは、ブランカの告げたその名の通り、『海の宝石』と呼ぶに相応しい景色だった。
────街が、海に浮いていた。
遠目にも美しい街並みだ。
それは間違いないのだが、おかしな事にその周囲には陸地は見当たらない。
島ひとつを街としているようにも見えるのだが、それならば建物のそばには砂浜や
なのに、それがないのだ。
本当に、海の上に直接、街の建物が建っているかのようだった。
そんな街並みを照らすのは、沢山の
それが真っ暗な海に反射して逆さまの街を照らし出している。
その様はまるで、水中にもう一つの街があるかのようにも見えた。
「こんな海辺にあるのだから、きっと漁師町か港町なのだろう」とトマソンは思っていたのだ。
これほどに美しい街だとは予想だにしていなかった。
その街の港には、たくさんの船が
黒を基調とした塗装で統一された、シックで高級感溢れるブランカの”それ”と似たような意匠のゴンドラ。
美しい装飾で
そして、港からは様々な店が立ち並ぶ賑やかな
魚や果物、交易品や香辛料といった品々が並ぶそんな
だが、ゴンドラはそれを横目に素通りして、建物の間にある細い水路へと入ってしまった。
これから港に降りるのか、と楽しみにしていたトマソンには、少し拍子抜けだ。
「おや、このゴンドラは港には泊めないのですか?」
「ふふ……。この街は、人が歩く道よりも、水路の方が多いんです。直接ゴンドラで乗りつけた方が早いですし、橋がない
「……なるほど。それはありがたいです。しかし、水路の方が多いとは……もしやとは思いますが、この街は海の上に直接建っているのでしょうか?」
トマソンが驚くのも無理からぬ事だ。
入った水路の脇には、土手や
水路の両側では
おそらくは家の裏手からすぐに船に乗り込めるように、と考えての事なのだろうが……。
そして水路の両端には、一家に一隻はあるのではないか思える数の膨大な数の小船が
そんな光景を見せられれば、この街の
だがなによりトマソンを驚かせたのは、その建物の下だ。
水底の
これには流石に絶句した。
だが、彼が驚きブランカに尋ねて見たところ、流石に街の全てがそうと言う訳では無いらしい。
「水中に立てた杭の上に立っているのは、軽い施設ですね。それと、あとで区画整理されそうな物はそういう作りになってます。港の近くにはそう言う建物も多いですねえ。基本的には、
「森、ですか……?」
「ええ、森です。街の基礎が、木の杭でしょう? 街をひっくり返したら、ぎっしり木の杭が詰まっているでしょうね。だから、森なんです」
木の杭を街の基礎────土台に使っている家が立ち並んでいるのだから、街をそっくりそのままひっくり返せば使った凄まじい数の木材が立ち並び、さぞ森のように見えるだろう。
なんとも小粋で
「ああ……! それはそれは、なんとも面白い表現ですねえ……。ですが、森……森ですか。それだけの丸太の確保も決して楽では無いでしょうに……」
「ここは川の河口近くで、しかも湾の中で波も穏やかですからね。丸太は手に入りやすいし、石材も運びやすいんです。それに、そもそもこの
背後を振り返ったブランカの視線の先には、
街の建築の際、木材の運搬に使われた川の一つがそれと言う訳だろう。
「伐採した上流で
そう呟くトマソンは、流石商人といったところか。
彼は、「ここに街を作れ」と言われたらどうするか、と言う視点から〈ザフィーロ〉の立地を評価する事で、その建築手法の有用性に気付いた。
この街の立地を思い出してみれば分かるが、街が河口付近にあり、海の上なのだ。
どれだけ巨大な丸太であっても埋める場所の真横まで船で運び込めるのだから、陸で同じ作業をするのとは
一般的に考えればありえない建築が成立した背景には、この街の立地と海運技能を活かした物資運搬能力の高さがあると言えた。
だが生半可な太さの丸太では、これほどの街を支える基礎にはなりえないだろう。
当然、巨大な材木が大量に必須であり、その運搬には凄まじい労力がかかったはずだ。
正直、こんなところにそこまでして街を作るかと問われれば、中々に悩む所だった。
けれど、そこにもまたこの街の独特な建築と同じように、街があるのが”ここでなければならない”ような、何か特別な事情があったのかも知れない。
そう思い至れば、
一人の商人としても、一人の旅人としても、トマソンはこの街の成り立ちが気になってしょうがなかった。
「この街に興味を持ってもらえたようで嬉しいです。おすすめの宿まではもう少しありますし……少し、昔話をしましょうか。この街で育った人は皆知ってる話なのですが……」
「それは興味深いですね……。ひとつ、よろしいですかな」
「ええ。それでは────」
こうしてトマソンの了承を得たブランカは一息ついて、静かにこの街の来歴を語り始めた。
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