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「昔々、あるところに大きな大きな亀がいました。


 その亀はとんでもなく長い寿命を持ち、その長い生の中で、世界中の海を旅したと言われています。


 北風が吹きすさび、流氷が流れ着く極北の海域。

 世界の果ての海に、空からちてきた最果ての楽園。

 珊瑚さんごと色鮮やかな魚達が住まう、南国の大堡礁グレートバリアリーフ

 東方の深海にあると言われている、竜王の娘が住まう竜宮城。


 亀が辿ったその道程みちのりは、人の一生では何周しても到底足りないような、それはそれは長い旅路でした。


 けれど、そんな亀にもとうとう”寿命”が訪れようとしていました。


 そんな自らの”旅の終わり”を前にして、亀はこう思ったのです。


『最後のひと時は、これまで見てきた中で最も静かで美しい海で、穏やかに過ごそう』と。


 そんな亀が選んだ、長い旅の最後の地が、この海でした」


 そこで一旦話を区切ったブランカは、水路を出ると同時に、その船を大きく回頭かいとうさせた。

 水路のかど左舷さげんがぎりぎりにかすめながら、それでいて衝突するような不安を覚える事もないスムーズな操船だった。


 そうしてゴンドラが出た先は、大きな川かと見紛みまごう程の巨大な水路────いや、これはもう水路などとは言えないだろう。


 ────とんでもない川幅の、大運河だ。


 先ほどまで通って来た、ゴンドラが三隻も擦れ違えばぎっちりと詰まって動けなくなるような小さな水路とはまるで違う、掛け値なしの大運河カナル・グランデだった。


 そこを行き交うのはブランカの操るような小さなゴンドラだけではない。

 見上げるほどの巨大船ガレーに大量の帆柱マストが林のように乱立する帆船トールシップと、行き交う船の数も、その種類も段違いだった。


 この大運河カナル・グランデこそが、この街の中での本当の意味での『目抜き通りメインストリート』なのだろう。

 先程の”地上の目抜き通りメインストリート”など、ここカナル・グランデに比べれば小道に等しかった。


 造船技術や装飾のおもむきが異なる、様々な異国から訪れたであろう船たちの船倉には、きっと遥か海の彼方から仕入れてきた交易品がぎっしりと詰まっているのだ。

 そんな、これまでとは違う表情を見せる〈ザフィーロ〉に、トマソンは目を丸くする羽目になった。


 彼はこの街に着いてから驚くような事しかなかったが、いち商人としても、一人ひとりの人間としても「この街の景色は、これから一生忘れられないだろう」と、そう思ったのだった。


 そんなトマソンの顔を見て”くすり”と笑ったブランカは、また”ぽつり”と昔話を再開した。


「自らの最後をさとり、最後のひと時を過ごすためにこの海にやってきた亀は、そこでひとりの少年と出会いました。


 その少年は小さな漁村で生まれ育ち、村を出る事なく暮らしていました。

 彼は御伽話おとぎばなしが大好きで、いつも外の世界へ憧れていましたが、来る日も来る日も、海に漁に出ては村に帰るばかりの生活でした。


 けれどもそんなある日、彼はいつもは何もないはずの場所に、大きな島を見つけたのです。


 不思議に思った少年は、その島に上陸して探検する事にしました。


 すると、島に登った彼の前に、大きな大きな亀の頭が現れたではありませんか。


 なんとその島は……巨大な亀の甲羅だったのです。


 しかもその亀は人の言葉を話す事もできたようで、少年に話しかけてきました。


 少年にとって亀との出会いは、何の変わり映えもしない日常を、御伽話の世界に塗り替えてしまうような、そんな”素敵”の始まりでした。


 その日から少年は、毎日のように亀の元を尋ねては、彼の思い出を聞くようになりました。

 来る日も来る日も少年と亀は語らい、いつしか二人は友人と呼べるような間柄あいだがらになっていたのです」


 トマソンはブランカの話に聞き入りながら、街の風景を眺めていた。


 話を聞いている素振りはあるが、街の景色からも目が離せない、そんな風情だ。

 ブランカは彼の様子に小さく笑う。


 昔話の間にも、巨大な船が起こす波に揺られながら大運河を進んでいたゴンドラは、再び小さな水路へと入っていく。


「けれど、そんな日々も長くは続きませんでした。


 亀の寿命が、もうすぐそこまで迫っていたのです。


 しかし、亀はふと、自らの旅がまだ終わっていない事に気付きます。


 亀は長い間旅をしてきましたが、その旅路を知る者はその亀だけしか居ませんでした。


 ……それも当然です。

 彼はずっと、たった一人で旅をしていたのですから。


 けれど、そんな誰にも知られず終わるはずだった旅路は、少年と出会った事で彼の知るところとなりました。


 そして、亀と語らった少年の”人生”という旅路は、その亀の命が尽きた後も、きっと続いていくのでしょう。


 もしかしたら、その少年はいつか誰かに、その亀との思い出を楽しげに語るのかも知れません。


 そうしたらきっと、その誰かもまた、亀の旅路を辿る事ができるのです。

 世界中の誰かが彼の旅の思い出を語り続ける限り、亀が死んでもその旅には終わりが来る事はないでしょう。


 そう気付いた亀は、思いました。


 ────それはなんて素敵な事なのだろう、ってね。


 だからこそ、彼に最後に出来た友人である少年の旅路もまた、出会いに満ちた素敵なものであれば良いと、そう願ったのです。


 けれど亀にはもう、時間が残されていませんでした。


 少年がこれから先、出会いに満ちた人生を送るためには、果たして自分は最後に何をしてやれるのだろう。


 そう考えた末に亀は、『自分が死んだあと、自らの甲羅を世界中の人々が行き交うような、そんな素敵な街にすれば良いのだ』と思い立ちます。


 それを少年に告げると彼は悲しみましたが、それでもと亀にさとされて、最後には亀の背に移り住む事を決めました。


 やがて亀の命が尽きると、そこは巨大な島になりました。


 こうして、波の穏やかで美しい景色の広がる湾の一等地に現れたこの大きな島は、少年のための、新たな村となったのです。


 その村は順調に発展を続け、その便利な立地から交易船の立ち寄る港として栄えていったと言われています。


 やがて時が経ちその街の領主となった少年は、街と沢山の出会いをくれた友人であるあの亀の名前を、この美しく発展した街につけることにしました。


 そうして、海の只中ただなかに浮かぶ美しい街は、こう呼ばれるようになったのです。


 ”亀が愛した海の宝石”〈ザフィーロ〉、と。


 これが、この街に伝わる昔話。

 世界を旅した、島亀の物語です」


 話を終えたブランカは、片足をわずかに引いて軽くお辞儀をして見せた。


 今回は帽子はそのまま、片手もそのままの”ただのお辞儀”だ。


 静かに、そして優しく語りかけるようなブランカの語りには、胸に訴えかけるものがあった。

 彼の話の先に、顔も知らぬ誰かの人生の息遣いを、確かに感じた気がした。


 歴史の遥か彼方にたたずむ、今はもう、影も形も見えない誰か。

 けれどその誰かは、確かにそこに生きていた。

 その証が、ふと、見えた気がしたのだ。


 顔も知らぬどこかの誰かが、その生の限り歩んだ足跡。


 その足跡れきしは、今を生きる人々が振り返れば、いつだってそこに見えるはずのものだ。

 砂浜に残る自分の足跡の間に、いつかの誰かの足跡もまた刻まれているはずなのだ。


 今語られたこの街の歴史はきっと、その足跡が始まる、初めの一歩の物語だったのだ。


 トマソンは、そう思った。



 ◇◇◇


 そんなトマソンの心のうちを知ってか知らずか、ブランカはもう一つ話を始めた。


「この街は交易で栄えた街なのですが、街自体が一枚の織物テキスタイルなのだと言われてるんです。


 それを形作っているのは、積み重ねてきた歴史と言う経糸たていと

 それに彩りを添えるのは、今を生きる住人たちと言う緯糸よこいと

 そんな織物テキスタイルを飾り立てるのは、この街にあふれる沢山の出会いと言う添毛パイル


 今この街にいる僕たちは、まさに今この瞬間も、模様を描き続けているんだと言います。

 そしてその模様は僕たちの行動次第で、きっとどんな図柄にもなるのでしょう。


 だから、トマソンさんがこの街を訪れたのは、きっと偶然じゃないんです。トマソンさんも街を彩るための緯糸よこいとの一本として招かれたんですよ。この街────〈ザフィーロ〉にね?」


〈ザフィーロ〉がいったい何年の歴史を持つ街なのかは分からない。


 だが、一つだけ分かる事があった。


 街の歴史が描いてきた、少なく見積もっても何百年、もしかしたら千年も超えるかも知れない長さを誇る織物テキスタイル────その壮大にして精緻せいちな模様の一番端に、今トマソンが立っているという事だ。


 そう思えば、なんだか少し、身が引き締まる思いがした。


 たかが一本の糸だ。

 されど一本の糸だ。


 これまで織物テキスタイルの仕入れをした事は一度や二度ではないが、だからこそ分かった。

 織物テキスタイルの持つ美麗な模様を描く上では一本だって無駄な糸はないし、糸の一本だって不足してはならない。


 まずは山岳地帯で羊飼いが育てた羊の毛を刈り、羊毛ウールを手に入れて、それを綺麗に洗い上げる。

 その羊毛ウールの繊維をカーダーで整えて、軽く丸めてローラグを作る。

 出来たローラグから繊維を引き出しつつっていき、紡錘スピンドルで紡いでいく。

 それだけの手間をかけることで、ようやっと、俗に言う『糸』となるのだ。


 完成した平織ひらおり用の糸は無着色だが、添毛パイルとなる糸は染色されて色糸いろいととする。


 そうやって苦労の末に手に入れた大量の糸を、今度は布に織っていく。

 その際、平織ひらおりの組織の合間に添毛パイルを結ぶ事で美麗な模様を描き出すのだが、この作業がこれまたとんでもない。


 添毛パイルは単体では、ただの”糸に絡みついた毛”でしかない。

 だが、事前に考えた図柄に沿って適切に配置する事で、それは集まり、組み合わさり、絵柄となる。


 しかし、それだけの労力をかけて編み込んだ添毛パイルも、緯糸よこいとを通してくしで叩けばたった数ミリに圧縮されてしまう。


 その数ミリを何回、何千回、何万回と繰り返す事でようやっと、巨大で、精緻で、美麗な模様テキスタイルが浮かび上がってくるのだ。

 複雑な図柄の絨毯ともなれば、職人一人がかかりきりで、数年をかけて、やっと完成するような代物だ。

 巨大で繊細な途轍とてつもない代物しろものにもなれば、それこそ人生をかけて作り上げることになるだろう。


 たった一枚の布に、そこらの人間では想像もつかないような、とんでもない労力がかけられている。


 トマソンはそれを知っていた。

 途轍とてつもない労力である事を知っていた。


 だが、だからこそ────この街を行き交う人の”人生”を織物にたとえられれば、その労力を知っているからこその得心とくしんもあった。


 普通に老衰で死ぬまで平穏無事に生きていくのは、決して楽ではない。


 日々の食い扶持ぶちを必死で稼ぎ、税を納め、戦争や災害で家財を失わない事を祈り、病や怪我もしないように気をつけなければならない。


 ────ただ、生きる。


 たったそれだけの事が、たったそれだけの事なのに、筆舌に尽くしがたい程に大変なのだ。

 その大変さが、トマソンにはふと、機織はたおりの労力と重なって見えたのだ。



 ブランカは、一人の人間パイルの選択によって、これから描かれていく織物の柄が少しずつでも変わっていくのだと言った。


 一介の商人である自分が、果たしてこの街で何が出来るのだろうかと、トマソンは考える。


 商人として成功するために、誰に対しても努力したと胸を張れるような生き方をして来た。

 そして事実、商会も持った彼は商人というくくりの中では成功者に入るだろう。


 ────けれど、それまでだ。


 商人として成功するというのは、商品のやり取りをして、富をきずくということだ。


 けれどもその過程で、常に自分は世界に関わり続け、自分の選択一つで世界がその表情を変えるなどと考えたことがあっただろうか。

 日々の仕事に追われ、漠然と、漫然まんぜんと生きてはいなかっただろうか。


 目から鱗が落ちる、などと陳腐ちんぷな表現はすまい。

 正しく、神の光に目が洗われた気がした。


 今までずっとにごっていた視界が、ブランカの聖水の一滴のような言葉で、一気に透明にんでいく気がしたのだ。


 トマソンが商売をするということは、自分が仕入れた商品を買ってくれた客の人生を変えるということだ。

 そしてその客が、その商品を使って生きることで、世界もまた、変わっていくのだろう。


 人は誰しもが、”自分の人生”という物語の主人公だ。


 トマソンの人生は彼が主人公なのだから、彼にとっては、自分の仕事である商売は小慣れたものだ。

 いつも、いつでもそれを経験しており、自分が物を売るのはもはや小慣れた日常の一環ルーチンワークであった。


 けれど、トマソンの商品を買った客はどうだったのだろう?


 物にもよるが、同じ商品を何度も何度も店に訪れて繰り返し買うような客など、消耗品、日用品、もしくは業者向けの販売を除けばそうはいないだろう。


 だからきっと、トマソンの店で商品を買ったその客にとっては、それがかけがえのない一回だったはずなのだ。


 トマソンにとっては、日々の仕事の中で何十人と相手にする客に対する応接のうちの一回。

 けれども客にとっては、その日に休みを確保し、あるいはお金をずっとためて、誰か大事な人への贈り物を買うために訪れた、人生で最初で最後の一回かも知れない。


 それに気づいた瞬間、トマソンの頭の中を埋めたのは、”後悔”だった。


 あの日、少女が買ったハンカチは、大事な父親への感謝の印だったかも知れない。

 あの日、男性が悩んでいた髪飾りは、結婚を考えている恋人への親愛の証だったかも知れない。


 彼らに真摯に対応しなかったかといえば、そんなことは絶対にない。

 一人の商人として、彼らが求める最高のものを選ぶ手伝いをしたという自負はある。


 けれども、もしかしたら彼らがトマソンの店を使う一生に一回の機会だったかも知れないと思えば、もっと出来ることがあったのではないだろうか?

 そしてなにより、どうして自分は、それに思い至らなかったのだろうか?


 いつだって他人に優しく、親切に生きてきたつもりだったが、相手の立場に立って商売をするという一番大事なことができていたかと問われれば、胸は張れなかった。


 ……今からでも、遅くはないだろうか。

 いや、何かを始めるのに遅すぎることなど、世の中には一つもないだろう。


 だってブランカは言ったではないか。

 ”現在”の行動という緯糸よこいとは、経糸たていとにそって積み重なり、やがて”歴史”になると。


 ならばきっと、彼が気づいたこの心構えを店員たちへの教育方針へと反映することは、仮にトマソンが死んだあとでも、未来で”模様”を描き続けることに繋がるだろう。


 トマソンは水郷すいごうの街並みを眺めながら、そんな思いを新たにしたのだった。

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