2(挿絵)
「ハッ! ……ハァッ……! ……フヒィ…………な、なんでこんなところに
森の中を大きな荷物を背負って走る小太りの男が、思わず、といった調子で
その小太りの
どうしてそんな事になってしまったのかといえば、聞くも涙、語るも涙……と言って良いのかはわからないが、まぁ色々な不運が重なってしまったためだ。
運が悪い事に、当初、彼の旅のの予定
仕方なく森の中を
当然、森を抜けるために腕の立つ────はずの────護衛も雇っていたのだが、さらに運が悪い事にその護衛が口ばかりの役立たずだった。
という……まぁそんな具合の不運だ。
個々の能力はさほどでもないのだが、群れで連携して的確に急所を狙ってくるその戦法は凶悪で、「四匹以上なら荷を捨てて気を引いて逃げろ」というのが旅人の常識だった。
さて、その役立たずの護衛はと言えば────多数の
酷い話もあるものだ。
そうして残された商人────その小太りの男はと言えば、ただいま全力で絶賛逃走中、という訳だ。
たまたま通るはずだった橋が長雨で落ちてしまっていて、たまたま雇った護衛が口ばかりの役立たずで、極めつけに、たまたま濃い霧が立ち込める慣れない森で道を誤ってしまった。
そんな、世の中を探せばごくごく普通に転がっているような……ほんの小さくも理不尽な不幸の連鎖が、彼が今、命”からがら”に森を全力疾走している理由だった。
けれども魔獣という食物連鎖の上位種たちが
大きな荷物を抱えた見るからに運動出来なそうな小太りの男が、百戦錬磨の森の狩人である
彼の命運も、きっと、もうじき尽きるだろう。
……と思ったのだが、そこには数少ない幸運のささやかな助力があったようだ。
彼が仕入れた商品は、大きなリュックに”ぱんぱん”に詰めて背負われており、
後ろから見た男の姿はほとんどリュックにしか見えない事だろうし、なまじ噛みつけたところで、そこにあるのは男の身体ではなく荷物だけだ。
襲い掛かるほうからすればやりづらい事この上なく、そのために狼たちは決定打に欠ける蚊の刺すような攻撃しか出来ていなかった。
だが、そんなささやかな幸運で繋いでいた命運も、
「ヒエッ……!!」
彼の目の前には幅は大きくは無いが、深さはそこそこにありそうな川が
そう────”
当初通る予定だった橋が長雨で落ちていたという話の通り、この近辺の川はどこも、多かれ少なかれ増水しているのだろう。
この小川も例に漏れず、本来の小さな川幅に対して、ありえない量の水が我先にと下流を目指して
その、”小川”と言うのも
────前門の激流、後門の
これはまさしく絶体絶命の状況だ。
無論、
ないと言ったらない。
小太りの男が向かってくるなど、
……であれば「まだ川の方が”まし”だ」と、彼の勘は告げていた。
それはほんの一瞬の
狼がその
◇◇◇
目を覚ました男は、まるで身体中をくまなく殴られたような痛みと服の冷たさに眉を
彼が最後に残った記憶はなんだったろうか────と思い出そうとすれば……そうだ。
森で
この全身の痛みはおそらく、流されながら川の中で岩にでも打ち付けたからなのだろう。
そう考えながら上体を起こそうとしたところで、少し離れた所から天上の
それは青空のように透き通った歌声で、
おおよそ人の身では辿り着けないのではないかと言う程の美しさ。
まさしく天使の歌声と言って良いものだ。
「あ、目が覚めましたかー?」
そして投げかけられたその声も、歌声と同じく、
(あぁ……やはり助からなかったのでしょうか……。では、ここが神の
そう商人に思わせるほどに、とても美しい声だった。
この声の
「美しい声です……。やはり、ここは神の御許……」
現世への未練断ち切るほどの美しい声に生を諦め、彼が安らかに眠りかけた、その時────
「起きて起きて〜」
「おぶぶぶぶ」
大量の水が突然、男の顔にぶちまけられた。
「ゲホッ!! …………ゴホッ!! おぶえっ! なな、なんですか! いきなり!!」
「えっと、なんだかそのまま召されそうだったので……?」
「とどめでしたら今ので刺されそうでしたが!?」
思いっきり眠る態勢だったその男は、鼻にも口にも水が入って盛大に
水を吸ってしまった鼻の奥が”つん”と痛く、とても不愉快な感覚だ。
彼はあんまりの苦しさに
「あはは……すみません。あ、おはようございます〜」
「あ、これはこれはご丁寧に。おはようございます…………じゃなくてですね! ええっと、あなたは一体どちら様でしょうか?」
目の前に居たのは白い服を着た金髪の美少年────まさしく先ほど商人が幻視したような
その
あの
彼は大きく後ろに垂れ下がった藍色の
その肩には、本人の背丈とは掛け離れた大きな重そうな
ぱっと見の印象としては
彼の腰には、先が少し黒みがかった、大きな
────と、まぁこの容姿に先ほどの美しい歌声と来たら、天使と思わない人間の方が少数なのかも知れない。
これでその羽が
────羽根が生えた、美しい歌声の、金髪の美少年。
そう考えると、
……とはいえ、突然に生を諦めるのは、
「おっと、失礼いたしました。初めまして、商人さん。僕はブランカ。ブランカ・ロセッティです」
「私は見ての通り行商人でございますが、トマソン・クックと申します。気安くトマソンとお呼びください。えっと……それで、ここはどこなのでしょう……?」
今いる場所だけでも把握しておきたいと商人────トマソンは周りを見渡したが、周囲が深い霧に覆われているせいで、あたり一面が真っ白い壁にでも囲まれているかのような有様だった。
恐らくはまだ森の中の川畔(かわばた)のはずなのだが、こうも霧が濃くては、目の前以外何一つ分からない。
現在地の目処も、周囲の地形も……視覚からでは何一つとして情報が得られなかったのだ。
だが、そんな切実な動機からの問いへの答えはと言えば────
「森ですかねぇ」
「森ですかぁ…………………………」
トマソンの頭から、”すうっ”と魂が抜けていく幻視が見えた。
良く言えば物腰穏やかで”ほのぼの”。
悪く言えば天然。
そんなブランカの要領を
「……じゃなくてですね! 地域的にはどのあたりなのかという事です!」
「なるほど。それは分からないですね~」
「なんですとぉ…………」
トマソンの頭から”すうっ”と、もう一度魂が抜けていく。
人の魂は3/4オンスだと思っていたのだが、二回も抜けられる人種がいるとは驚きだ。
トマソンの魂は、ここまででもう1と1/2オンス分は抜けたはずだ。
……まぁ、そんな冗談はさておき、そこに関してはブランカにも何やら言い分があるらしい。
「ぼくは船で来たので、細かい地理はちょっと」
「ああ、なんだ、そういう事でしたか……」
一瞬トマソンは「どこまで天然なんだ!」と天を
船を
そして、彼はここまでのやり取りで、早々にブランカから地理についての情報を得るのは諦める事にしたらしい。
地理に関しては全く把握していないようなので、このまま話していても
「流されているところを助けていただいたようで、ありがとうございました。なにかお礼がしたいところなのですが、どうやら荷物がいくつか川に流されたようで……。たいしたお礼もできず、申し訳ないです」
命の価値に見合うかというと
礼目当てで助けたわけではない、と言う事らしい。
「気にしないでください。トマソンさんも大変だったんでしょう?」
「ですが、命を助けていただいてそういう訳にも……」
「う〜ん……って言ってもなあ……。……あ、良いこと思いつきました! そのお金は船賃としていただきますので、代わりに僕の街まで船に乗って行きませんか?」
「なんと……! それは願っても無い話です! ……ですが、これでは全く礼になりませんねぇ……はは」
トマソンとしてはどこかわからないとはいえ、ひとまず街に
”ばつ”が悪く、ついつい苦笑してしまう。
「そんな事は無いですよ? 街の皆も喜ぶと思いますし」
けれどもしかしたら、いつかブランカの街で
恩返しはその時に少し色をつける形で返せば良いのではないか、とトマソンは考えて彼の
「では、お世話になります。その街までお願いしましょう」
「はい、喜んで! それではこちらへどうぞ。お客様」
そう言ってお金を受け取ると、ブランカにはすっかり商売モードの
その所作、立ち振る舞い、そして話し口調が、これまでの人懐こそうなそれから、相変わらず人当たりはいいが心なしか澄まし込んだ印象のある商売人のそれに変わっていた。
そうして二人がゴンドラに乗り込み終えると、ブランカは岸を足で蹴り、櫂を岸に立ててから
────────────
登場人物立ち絵:https://kakuyomu.jp/users/nekomiti/news/16816700429054807486
・ブランカ・ロセッティ - Blanca Rossetti
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