zehn. ヘルネケイット[木曜日のスープ]
「あっ、ごめんメイヴィス」
「いや、気にするな」
今週何度目だろう、流石に回数を数えはしていないけれども。
誰にも気づかれないようにふぅと息を吐いたつもりが「おわっ」と間の抜けた声と、目の前の光景に身体が反射的に反応する。
「……大丈夫? メイヴィス」
「すまない……」
よろけた肩を咄嗟に両手で掴み、支えるような体勢になり少し気まずそうにそう問いかけた。
「いやぁ、申し訳ないーっ」
「ディー、ちょっとお前最近……」
「小隊長殿ぉー、至急確認していただきたい書類がぁ!」
「……わかった、今いく」
割って入るようなダムの声に、少々呆れた表情で一つ息を吐き出したメイヴィスが、その肩にかかる手からするりと抜けて歩き出す。
本当に姿勢がいいなぁとその背中を数秒見ていれば、隣から声をかけられた。
「……今、何考えてるんすか。バルクホーン中尉?」
「ははっ、君たち本当にメイヴィスのことが好きなんだね」
困ったように笑いながら、バルクホーンは目の前で大量の荷物を両手に抱えたディーの手元から、その山積みに重なっている箱をひょいと手に幾つか持ち上げる。
「何を考えて悪戯してるのかは知らないが、アイツには怪我をさせない程度にな」
「……ちぇ、こいつぁ手強いや。先は長そうですねー」
「……?」
「あっ、俺別にこれくらいの荷物なら正直持てるんでね、大丈夫ですよーっと」
言うなり、バルクホーンに持ち上げた箱を戻すように促しそれを受け取り直すと、ディーはタッタッと軽い足取りで執務室の方へと去って行った。
「……うーん、俺嫌われるようなことしたかなぁ。でも……」
奴ら、流石にそこまで子供っぽくはないはずだけど。バルクホーンは一人取り残された廊下でふとため息をつく。
ここ一週間、少しでもメイヴィスと話そうとすれば何かと遮られ、そうかと思えば先ほどのように何故かぶつかったりぶつけられたり。ちまちまとした悪戯はあるものの、そこに悪意のカケラも感じられないのがまた不思議で。
だけど任務ともなればびしりと揃って行動しなんの負荷も掛けようともしない。
バルクホーンは悪戯コンビの真意が測りきれず、もやもやした不思議な戸惑いを腹の底に感じていた。
(まあ、別に。いつか俺がいなくなった時でも、ディーとダムが側にいるだろうし……)
もう何年も前の話だ。スオミにやってきて二年目、メイヴィスの秘密を知った夜の事——。
あの時はまだ階級も下で、同期として並んでいられるのも自分しかいなくて。ほいほいと「では私の寿命を使ってください」なんてユカライネン大尉に差し出すもんだから。
見てられない、そう感じたからこそ自分もとすぐそこに並ぶように手を挙げた。
本人がどう思おうが、もう二度とあんな風に泣いて欲しくもないし、自暴自棄で自分を投げ出さないでほしい、これ以上傷つかないでほしいと思った事は確かで。
(まあでも。時々……全然俺なんかよりカッコよくて頼もしくもあるんだけどね)
だからこそ。「女性なんだから、もう危険な任務で飛ぶのは辞めたら」とは、どうしても言えなかった。それはただの、自分のエゴで。彼女の努力も葛藤も、踏み躙りかねないものだと思ったから。
婚約者の死を改めて突きつけられた時、その弟から憎しみの言葉と罵声を浴びせられた時。その償いができないかと思った時に。
——その拳銃を取り上げてくれたのはメイヴィスだった。
(貸し借りって、俺の方が昔から借りがあるようなもんなんだけどなぁ……)
死ぬに死にきれず、後悔ばかりで。死に場所を探していたような自分に。
いつも目を覚ますような言葉をくれたのはキミの方なのに。
「うーん、難しいなぁ」
ディーとダムは、「ユカライネン大尉とくっついてほしいから、あんまり余計なことすんな」って遠回しに言いたいんだろうか。
「……俺だって。そうなってほしいと思ってるのになぁ」
……もし。そうじゃないなら、なんだろう? 単純に、メイヴィスと過ごす時間が減ったのがなんだか気に食わないんだろうか。
うーん、確かに。確かに最近バスクのお迎えも頼んじゃったし。休みも少ないのにウチに来るけどさ。
「あれっ?」
なんで……こんな。なんていうか……悩む? いや、もやもやするんだろう俺。
そういや、ここ一週間ずっとこんな調子だなぁと、ふとメイヴィスが夕食や酒を呑みに最近自宅に訪れていなかった事に気づく。
(あっ、そうか。でもさ、それってやっぱ娘を嫁に出す親父の気持ちと一緒なのかなぁ……。いつかそういう日が来たら、ほら、あの子が俺の家に今のように来てちゃダメだろ……)
俺完全におじさんだなぁ、と一人苦笑いを零しながら、バルクホーンは待機室へと次の哨戒任務や書類の確認をしに歩を進めて行くのだった。
「チッガーウ!!!!」
「わわっ!? どうしたんすかディー曹長、こんなところで」
舌打ちをし、完全にアメコミの悪役ばりの不機嫌な表情で角に身を隠して廊下の端を窺う体勢のディーに、たまたま居合わせたハートマンが問いかける。
「ンアァ!! なんだぁお前の小隊! お前以外情緒がマトモなやつ皆無なんじゃねーの?」
「んっ? それお誉めいただいてる感じっすかね? いやでも、ほら。バルクホーン中尉とガードナーさんもいますし。ぶっちゃけると皆すっごく可愛いですよ? 小鳥ちゃんと少尉殿とか、意味わかんないくらい真っ直ぐで鈍感で」
「ちげーよ! ああもう!」
バリバリとそのオレンジブラウンの髪を掻き乱すディーに、ハートマンは怪訝な表情を返す。
「……珍しいっすね。ディー曹長がそんな悩むなんて」
「はぁ? 俺のどこが悩んで」
「だって、貴方割と軍の事も人の事も、面白いから眺めてるけど正直知ったこっちゃねーよってタイプの人ですよね」
「……」
小悪魔のような表情で気まずそうに目を逸らすディーに、ハートマンはにこりと微笑む。
「まぁまぁ。そうやって声出ちゃうくらい、貴方にとって大切な案件なんでしょう? 今は俺が聞いちゃいけない感じがしたんで。時が来たら教えてくださいよ、話聞くくらいなら俺できるんで」
ぽん、とその肩を軽く叩き、ハートマンは待機室へ続く廊下へと歩き出す。
「なぁ、ハートマン」
「はい?」
「お前よぉ、カノジョの周りの人間が反対したりさ、嫌がらせして来たら……どうする奴?」
そんな、と笑いながらハートマンは振り返る。
「だって俺っすよ? 反対しなくなるまでちゃんと話しますし……つーか反対なんてさせませんし。嫌がらせも彼女には悟らせないうちに終わらせますからっ」
「ちぇっ。聞く相手、間違えたわ」
「あーっ、ヒドい! 俺これでもすっごくすっごく考えて、根回しするタイプっすからね」
そう屈託無く笑う笑顔は、さすが軍一の王子様と呼ばれるだけある眩ゆいもので。
この心根の美しさを守ったのも、彼の師となったバルクホーン中尉の人柄の賜物でもあって。
(なぁにが「あの子の幸せな人生が続く時、そこに自分はいないもんなぁ」だ。ど阿呆かよ)
心の声が聞こえるから、遠慮はしない。切るものはさっさと切るし、相棒を傷つける奴は社会的な制裁だって平気で与える。……もちろん、小隊長殿が傷つく事に対しても、だ。
(アンタがいなくなったら、一番泣く人、誰だと思ってんだよ。フザケンナよ……)
ポケットに手を入れると、待機室にタバコを忘れて来た事に気づき、ディーはもう一度悔しそうに舌打ちをするのだった。
***
「あっ、ココいい?」
「……別に。許可を取るような事でもないだろう」
ふんっ、とコーヒーを飲みながら冷たい視線でメイヴィスは声の主を一瞥する。
お決まりの、軍での"彼"としての姿で。
「メイヴィス、スープだけ? キミはもう少し食べた方がいいって」
その優しい声に、少し困ったような表情でもう一度視線を投げる。
昼時を少し過ぎた隊食堂。そのテーブルの向かい側に、よいしょっとバルクホーンが腰掛けた。
「お前だって……スープじゃないか」
「いや、トレーの上見ろよ、パン食うし俺」
木曜日。昔のスオミでは金曜日が断食の日で、その前日に栄養価の高い豆と豚肉のスープを食べていた習慣が今でも残っている。
ここ第13師団の基地でも、決まって木曜日の隊食堂のランチメニューはこの
「一個、食べる?」
「……いらん」
「……」
見ればメイヴィスはスープにもほとんど手をつけておらず、本をめくりコーヒーを啜っているだけだ。
「メイヴィ……」
「ここ数日。あんまり、食欲がないんだ」
老いかな、と自嘲気味に笑いつつもその目線はこちらと合うことがない。
「なぁ、俺さ。お前と昼飯食おうと思ってここ来たんだけど」
少し、彼にしてはとても珍しく。むすっとした声でバルクホーンはそう告げる。
エンドウ豆をとろとろになるまで煮込んで、玉ねぎと豚肉を加えた濃厚なスープ。マスタードを少し浮かせたその色鮮やかなスープをスプーンですくって、彼はゆっくりとそれを口に運んだ。
「……なんか、あったの?」
「別に、何も」
「そう……」
温かなスープを嚥下してその喉が動くのをぼうっと見つめる。
スオミではポピュラーな固めのライ麦パンをちぎり、もしゃもしゃと食べている音を聞きながら、目のやり場に困ったメイヴィスは自分のトレーに目を落とした。
「ほら」そう差し出されたのは柔らかい白パン。
ちょっとだけ、いつもより機嫌の悪そうな、それでも優しい声。
「凹んでも、ウチのシュヴァルべは絶対飯はがっつくぞ。動けなくなったらダメだ、とさ」
「そっか……」
不意に。柔らかい、普段出さない方のメイヴィスの声が洩れた。
少しだけ微笑み、その差し出された白パンを受け取る。
「お前が食ってるの見てたら、食えそうな気分になったよ馬鹿」
「はいはい、それは良かったです」
呆れたように顔を上げれば、にこりとした表情でメイヴィスがヘルネケイットを一口口に含んだところだった。
スープはだいぶ冷めているのに、何故か他のスパイスが加わったかのように温かい気持ちになるようで。まるでポタージュのように、素材が溶け出たスープの味が、冷たくなりかけた心に沁みていく気がする。
(私、落ち込んでたのかなぁ……。でも、なんか今は、寂しくないかも)
そう、こくんとスープを飲み込めば、自然と笑みが溢れていた。
「ふっ、バルクホーン。お前と食うメシは少々旨く感じるらしいな」
「はいはい……」
なんだか最近物憂げなメイヴィス中尉が笑ったのが美しかった! と、少しだけその場に居合わせた女性隊員が騒いだそうだが。それはまた別の話——。
「ねぇ、メイヴィス?」「なぁ、バルクホーン?」
おや? と二人は顔を見合わせる。
「バスクは元気にしてるか?」
「変わらずだよ、最近キミが来ないから心配してる」
「……そっか」
「あのさぁ」
ん? とメイヴィスはスープをもう一口啜り、顔を上げる。
「スープ食ってたら、俺フライが食いたくなったんだけど。今度食いいかない?」
「……私も、ちょうどワインを切らしてたところだ」
その返事を聞くなり、にっこりと笑って返すバルクホーンと、ふんと涼しい視線のままそっぽを向くメイヴィス。
食堂の端っこで「あーもう! まどろっこしい!!!」と声にならない小さな叫び声がしていた事を二人は知らないのだった。
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