fünf. エルダーフラワーのシロップ
「っぶねー」
洗い物を棚にしまおうとして、そこにあったワイングラスに軽くぶつけてしまい、思わず独り言ちる。
ピカピカに磨かれたそれは、高くはないものの決してお安くもない。三つお揃いのワイングラス。
「割った?」
「あ、いや。大丈夫」
鋭い赤い眼光に、そんなにまじまじとグラスを見ていたのかとハッとして、ゆっくりと棚に戻す。
「クソアマいねぇとわりかし静かだよな……」
「どうしたバスク? 寂しいかい?」
「ンなんじゃねーよ、ころすぞ」
にこりと笑った視線は、そのまま刺すような視線と決してお綺麗とは言えない発言で返された。この子の口の悪さにもだいぶ慣れてきたな、とバルクホーンは手を止めてソファに座る少年の方へ歩みよる。
緊急で編成が組まれた小隊が、同じ連合のノルゲ王国に発ってからしばらく経つ。
序盤こそは通常と違うローテーションでバタついたものの、そこはやはり直属の部下であるハートマンの成長が目覚ましく、攻撃力の要を一週間もの間不在にさせていても何も問題はなかった。
「はいはーい! あとは若手に任せてもらって、クマの酷いおじさんは休みましょーねー」なんて言われて、自分だけこうしてオフをもらってしまう始末だ。あんまりな言い草に、歳上で直属の上官でもあるユカライネン大尉にも爆笑されてしまい、延々と口の聞き方を説教するハメになってしまった。
そろそろ彼には小隊長の任を譲ってもいいとは内心思っているのだが、断固として普段飄々としたその部下は自分の下にいるという意志を曲げないらしい。
「大丈夫だよ、ディーとダムは優秀な諜報員だし、別に敵国に乗り込んでるわけじゃないんだから。そろそろきっと帰ってくるよ」
「ンだから! 俺は別になんも言ってねーじゃねーか。それに、花畑がウッセーんだよ、クソチビが帰ってきたかって連日いの一番に聞きやがる……」
言いながら唇を尖らせる仕草が、見た目相応の少年のようで思わず頭を撫でた。すぐに首をブンと振り拒絶の仕草をとられる。
「ガキ扱いすんじゃねーっ!!」
「いやいや、おじさんからすればバスクはまだまだ若い子供みたいなもんだよ」
「テメェ、身内ヅラすんじゃねーよ、クソが」
はははっ、と軽く笑って聞き流してから、ふと窓辺にある花やハーブの植木鉢に目をやる。
「……クソアマが戻ってくるまで、枯らすんじゃねーぞ」
「はいはい、もちろんですよ」
季節が過ぎて花の閉じてしまったアスターは、それでも茎が綺麗にまっすぐのびていて、何故かそれが本来の持ち主の無事を暗示しているようでもあって。
ふとバルクホーンはその横ですくすくと育つ別の植物に目をやり……思いついたように立ち上がる。
「ちょっと出かけようか?」
「はぁ? 何しに……」
「本屋と、市場。ほら、暇なんだろ? 空いた時間にノーラと読書でもしたら?」
はぁ? とか、おいっとブツクサ呟くその返事は聞かずに、彼を抱き上げ車椅子に乗せる。少しばかり目立つその金髪と赤い目を覆うように、その頭に大きめのキャスケットを被せた。
「……本は、嫌いじゃねーよ」
「うん、知ってる」
「どうしてもってんなら付き合ってやるよ」
「ありがとう。どうしても俺が本屋に行きたいから、一緒に選んでくれるかい?」
けっとバスクは目をそらしながら舌を打った。
「……テメェのそういうとこ、やっぱすげー嫌いだ」
***
「でねっ、その返しがまた切なくてー」
「ウッゼェェエ!! 昼間も花畑と火の鳥野郎とその話だったのに、帰ってきてからもこれかよ!」
「なぁに? 当事者の話聞いたんならもっとキュンとするようなネタ提供しなさいよ」
「ぜってぇ言わねえ! もしなんかあってもテメェには言うかよクソアマァ!」
数日後、国外での救出任務を終えて帰投したメイヴィスをこの家に呼べと言ったのはここで目くじらを立てている少年の方で。
素直じゃないんだから……とバルクホーンはその話を聞いて頷きつつ、ひっそりと笑う。
「ほらほら、言い合いはそこまでにして」
「……あらっ、珍しいじゃない」
ワイングラスと、ごとりとテーブルに置かれた瓶を見つめて、メイヴィスがバルクホーンを見上げた。
「三人でも同じものが飲めたらいいなって、バスクが」
「言ってねーよ! ざけんな!!」
その声を聞きながら、ふふふっと嬉しそうにメイヴィスが頬杖をつく。
薄めの琥珀色の液体の入った瓶の口を開ければ、マスカットのような甘い香りがふんわりと漂う。
Seljankukka、エルダーフラワー。妖精の住むと言われるニワトコの木の花を煮詰めたシロップ。
北欧の初夏に作られる、定番の味の一つだ。
一つ目のワイングラスには、ソーダ水とシロップを。
二つ目にはビールとシロップを。
三つ目には、ワインとシロップと——。
「……粋なことするじゃない?」
「だって、こういうの好きでしょ?」
浮かべられたのはベリーの実と、フレッシュなミント。
ミントを浮かべるアイディアはあったものの、シロップを買いに行った先で「アイツ、こういうの好きそうじゃん」とバスクとほぼ同時にベリーのパックに目をやったことは内緒だ。
「おかえり」
「……ただいま」
そうにっこりと笑うと、二人はバスクの目の前に置かれたグラスにそれぞれ手に持ったグラスをそっと寄せて。
ミントの浮かんだ三つのグラスが合わさり、チャンッと軽快に鳴る音がした——。
「来年の初夏には、花からシロップを作ろうかなと思って」
「あら、いいじゃない? バルクホーン上官から花の香りがするって、ますます女性隊員が沸き立つんじゃない?」
苦笑いして見れば、既に何度目かのグラスを空にしたメイヴィスがおかわりを所望していて。
「からかうなよ、ありゃハートマンのついでだろ。俺はもうおじさんだって……」
(キミこそ、そこそこキャーキャー言われてるじゃないか……)
氷の女王様なんて呼ばれてる、クールで厳しい偵察小隊の小隊長が、こんなにふにゃりと笑うなんて……ねぇ。
内心呆れつつも、バルクホーンはそっとその差し出されたグラスにエルダーフラワーのシロップとワインを注ぎ入れるのだった。
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