zwei. ロヒケイット(サーモンのクリームスープ)

「なぁ、夢って人間のどの器官が見ると思う?」


 カチャカチャと測定器を外すブロンドヘアの女性に、バスクは唐突に問いかける。所々入ったパープルのメッシュがさらりと揺れ、その大きな瞳と視線が合った。


「さぁ、一般的には脳って言われてるけど……アンタも見るんじゃないの?」

「あ、いや。聞きたい事間違えたわ。……例えば、泣くぐらい悲しい夢を何度も見るってよ、やべー事なのか?」

「……何アンタ悲しい夢でうなされてるの? 相当ストレス溜まってるか、気持ちの整理がつかないとか……一応脳波は今日正常だったけど、もう少し詳しく見とく?」


 心配そうな視線に何故か妙に気持ちがイラついて、「けっ、俺じゃねーんだよ」とそっぽを向く。


「……ならいいけど、おかしいなと思ったらいつでも言うのよ」

「ルセーんだよ、脳みそ花畑。ちゃっちゃと管外せや、俺は帰る」

「はいはーい。バスクくん、早くアタシの事名前で呼んでくれないかなぁーっと」


 おちゃらけたように言いながら、測定器を外す作業に戻った彼女の頬にはマシンオイルが一筋べったりと付いていて。両手のない自分はそれを拭ってやることすらできないと思うと、何故か心臓のそばがちくりと痛んだような気がした。





 夕刻、女性整備員付き添いの元電動車椅子を動かし飛行部隊の庁舎に向かうと、目の前から書類を手にしたメイヴィスが歩いてくるのが見えた。


「メイヴィス中尉、お疲れ様でーっす! 本日もツンツン具合が光っておりました、バスクくんをお連れしましたよーっ」

「ああっ? 誰がツンツンだよ、フッざけんな」


 その明るくも見えるやりとりに少し微笑むと、完全に仕事モードのメイヴィスが足を止めてバスクの乗る電動車椅子の取っ手に手を掛ける。


「ああ、ノーラか。いつもご苦労。……申し訳ないんだがバルクホーンの小隊の帰投が遅れていてな、戻るまでバスクはこちらで預かろうか?」

「……戦闘中か?」

「元パイロットは察しがいいな、哨戒中に連邦の偵察機と遭遇したらしい。まぁ彼らの事だ、よっぽどのことがない限りは無事に戻ってくるよ」


 睨みつけるような少年とは別に、少しだけ不安そうにしている女性整備員——ノーラ——の肩に優しく手を置きながらメイヴィスはそう諭す。


「おい、花畑。あのクソチビが連邦ごときのヘボパイロットに墜とされる事はまずねぇからよ、ンなアホ面すんなや」

「……バスク」

「で、そこの氷結野郎はもう仕事は終わりなのか?」

「ああ……報告書を出せば今日は上がりだが?」


 ちょっと上官になんて口の聞き方してんのよ! とノーラにぽこんとはたかれながら、バスクはその真っ赤な対のアイレンズをキュイィンと細めながらメイヴィスを見上げる。


「んじゃ、俺鍵持ってるから家まで送れや、ちょっと手を貸せ」





「……可愛い子よねぇ、ノーラ」

「はぁっ? テメェ女もいけんのかよ、クソアマぁ」


 官舎へと戻る道すがら、誰もいない通路でひっそりと耳打ちされてバスクは思わず殺気立つ。振り返ればくつくつと余裕の笑みで微笑まれ、なんだか妙に癪だ。


「無理よぉ。そういう意味じゃなくって、ノーラは元気で可愛いよねって聞きたかっただけー」

「ざけんな。……テメェのその二面性とか諸々に比べりゃ、花畑の方がだいぶ女なのは確かだけどよ」

「まっ、生意気ー。そろそろ名前で呼んであげるくらいしたらいいのに。優秀なアンタの担当整備官でしょーが、嫌いじゃないんでしょーっ?」

「ルセーよ。テメェこそ大尉の事、花畑みてーに"イッル大尉"って呼びゃいいのにさっ……」


 意地の悪い笑みで見上げてみれば、予想に反して少し寂しそうな笑顔でメイヴィスが笑っていて。なんとなく居心地の悪さを感じたバスクは「けっ」と一声吐き捨てるように呟いて、目の前に視線を戻した。




***




「アイツ、部隊にいる時の様子どうだよ?」

「ん? アイツって? バルクホーンのこと?」


 玄関を開け、慣れ始めたリビングに電動車椅子を進めながらバスクはぽつりと問いかける。


「普通よ。強いて言えば、ちょっと顔色は悪いかなって」


 聞くなり、むすっとした表情で車椅子をくるりと動かしてバスクがメイヴィスを正面に見据えた。困ったように眉尻を下げるメイヴィスを見て「気づいてんなら言えや」と低い声音で呟く。


「いつから?」

「……いつからって、そんな」

「俺が来てからじゃねーの?」

「そんな事……」


 時々、夜中夢うつつな中、うなされている声がする。ふと意識が覚醒して、息を切らしながら起きた影に問いかければ「何もないよ、ごめんね」と返されるのだ。少しはだけた布団もかけ直され、水はいらないか? なんて聞いてくるけれど。


「目の前で倒れられたら気分わりぃんだよ、人の世話ばっか焼きやがって」


 ぶすくれたその表情、困ったように笑ってメイヴィスはそっと少年の頭を撫でる。まるであの男がそうするかのように、遠い昔に一番大好きだった姉がそうだったように——。


「バスク、お腹空いてない?」

「あ? クソアマてめ人の話聞いて、」

「たまにはさ、あのバカ休ませましょ?」


 そう言ってウインクをするメイヴィスに、「ああ、もう勝手にしやがれ」とバスクは天を仰ぐのだった。



 スオミの豊かな河川や海で獲れるサーモンは、国民が昔から愛する馴染んだ味。かっ飛ばし気味に出た買い物の座席でバスクは揺られながら「ざけんな」とずっと言っていたが、温かいカフェオレを差し出されてむすっとしながらもそれを飲んだ。


 一口大に切ったサーモンにディルシードのパウダーと塩をまぶし、バターを溶かした鍋で炒める。

 一度焼き色がついたサーモンを取り出し、そこに玉ねぎを入れ軽く炒め、細かく刻んだネギを入れる。しんなりしたら少しバターを追加してジャガイモとにんじんを加える。

 少しジャガイモに火が通ったところで、水を具材が浸かるまで注ぎ中火でコトコトと煮込んでいく。


 サーモンの旨味とバターの香りの合わさったふんわりとした湯気が部屋の中を満たしていった。


「お前、料理なんかできんだな」


 意外そうな声に、「あっ、わたしの事なんだと思ってんのよぉ」と少し頬を膨らませて鍋を見ていたメイヴィスが振り返る。


「酒癖のわりぃクソアマ」

「あーっ、失礼しちゃう。これでもね、小さい頃から母親に習ってキッチンに立つくらいはしてたのよ」


 ま、男の子はもっと剣術のお稽古を頑張ればいいからってよく言われてたんだけどねー。そう独り言のように呟きながら、メイヴィスは再びコトコトと湯気の立つ鍋に視線を戻す。

 軍服から着替えたその後ろ姿は、いつもそこに立つ姿よりだいぶ小さく見えたけれど、不思議となんだかしっくりくるようで、バスクは口をつぐんだ。


 十分煮詰められ少し水分の減った鍋に、先に炒めておいたサーモンを入れ、生クリームをゆっくりと注ぎ入れていく。

 沸騰させないように火加減を調整しながら煮込み、ブラックペッパーとディルを加えればスオミのサーモンスープ、Lohikeittoロヒケイットの完成である。


「どうする? あんまり遅くなってもアレだからアンタだけ食べといたら?」


「いや、いい」とバスクが返すのとほぼ同時に、玄関ががちゃりと開く音がした。


「あ、あれっ。メイヴィスも来てたの? っていうかあれっ?」


 そこに広がるのは温かな香り。

 顔を見れば、先にバスクが帰ったと聞いて走って戻ったのだろう、外はだいぶ寒いというのに部屋の主人であるバルクホーンは額にうっすらと汗をかいていた。


「あ、アンタ帰投後にシャワー浴びてこなかったでしょ。だいぶ煙臭いんだけど。お湯沸かしてるから先に浴びて来たら?」

「……いや、っていうかどうしたの? 飯食った?」

「そこのクソアマが今作ったとこだよ、待っててやるから頭洗って着替えてこいやボケ」


 拍子抜けたようにリビングの入り口で固まっているバルクホーンを見て、少しため息をついたメイヴィスはおもむろに近づいてその腕を取る。


「はぁい、クソガキ命令なんでおじさんはバスルームにブチ込みまぁす」


 えっ、ちょっ、何? というバルクホーンを引っ張りながら「クマ、ひどいよ。あんなんでもクソガキ結構心配してるから、とっとと顔洗って来なさい」とひっそり囁く。


「……何でそう目敏いかなぁ」

「自分のせいでアンタが毎晩うなされてるって思ってるわよ、多分」

「……」


 あちゃーと困ったような顔をしつつも、やっぱり疲労からか若干足取りの重いバルクホーンのネクタイとジャケットをひん剥くと、「ごちゃごちゃ考えるのは後っ! とりあえず洗ってこい!」とバスタオルと共にバスルームへ押し込む。


 軍隊は早風呂が常だ、十分もしないうちに頭を拭きながらリビングに戻れば、先ほどの温かな匂いがそこに溢れていた。


「わたしはいいから、アンタは食べるっ」

「わ、わかったよ。ごめんって」


 バスク用のスプーンを手に取ろうとすれば、思いっきり睨まれ思わず手を引っ込める。

 部屋で栽培しているディルを乗せた、サーモンと野菜の甘みが溶け込んだスープ。ひと匙すくって口に入れると、夕刻の空を闘い冷え切った身体の中が温まっていく。

 クリームのまろやかな食感と、濃くないちょうどいい塩味がすっきりと喉を通っていった。


「……あ、美味しい。サーモンとか久しぶりに食べたよ」

「スオミの家庭料理だからねー、ダイチェのお二人の口に合えば幸いですよーってね」


 にっこりと微笑みながら、その間にもバスクの口にロヒケイットをゆっくり運んで食べさせる。この光景も、なんだかそろそろ見慣れてきたたものだ。


「あれっ?」


 ふと、その視線をテーブルの中央へと移す。


「ンだよ、二人で買って来たんだよ。文句あっか」


 そこに飾ってあったのは小さな鈴蘭。彼女が、キーサが大好きだった花。二人で、初めて一緒に育てた花。


「今度でいい、俺の知らねぇ姉ちゃんの話聞かせろや」

「バスク……」

「ウゼェんだよ、俺は別として姉ちゃんは最期までお前の事信じてたんだから。俺じゃなくて姉ちゃんを信じろやボケ、マジで気分わりぃ」

「どうしてそれを……キミが」


 視界がふと歪んだ気がして、思わず目元を抑えた。こんな事で揺らぐなんて、やっぱり疲れているのかもしれない。


「はぁい、そこまで。生意気なクソガキは捻くれないようにちゃんと食べましょーねー」


 まだ何か言いそびれたような表情カオでいたバスクの口に、大ぶりのサーモンを突っ込むと、そっとメイヴィスはバルクホーンが自分の影になるような形に座り直す。


「ごめん……」

「なんで謝んのよ? アンタも人の世話ばっか焼いてないで、ちゃんと今日は食べなさい」

「……ありがとう」


 言われるがままに口に入れたロヒケイットは、さっきよりも少しだけしょっぱい気がした。


 たまにはね……、そうメイヴィスは独り言ちる。


「あ? なんか言ったかよクソアマ」

「ん? 美味しいかなーって言ったのよ。アンタはちゃんと食べて、明日も陸軍部にちゃんと行こうねぇーっ」

「……ガキ扱いすんじゃねぇ」


 アンタほど広い背中も心も持ち合わせていないけど、せめてこの瞬間くらいは。

 泣く事すら許されないほど自分を責めてしまう優しい貴方に、ここでは泣いてもいいんだよって伝わりますように——。

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