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ただいまーってのんびり口調で戻って来た母ちゃんが、春はすりむいただけで大丈夫って言った。
残ってる年長競技もできるって。やるって言ってるって。
「ちょっと泣いてたけどね。最後だからね」
「深い?」
それは、それには、良かったって思った。
けど、温泉付きのホテルに泊まる今日。温泉に入れるのか、行けるのか、も。気になって。
じゃ、ないな。
ゆず先生んとこ、あわよくば早く行こうって、思ってるから。俺。
春が居ると、どこ行くの、なっちゃんって聞かれるから、いつも会う土曜日は春が寝てから。
今日は、居ないなら。明日まで居ないなら、少しでも早く行きたいって。俺。少しでも遅くまで居たいって。
「んー?病院に行ったり、温泉をキャンセルするほどではないなあ」
良かった、とか。
春に対して罪悪感があるのに、良かったとかも、思って。
俺って結構イヤなヤツなんだ。
………ちょっと自己嫌悪。
いつかはちゃんと言わないと。
母ちゃんに言われるまでもなくそう思う。
隠してる以上、嘘が増える。嘘が増えれば、罪悪感も増える。
そして何より。
隠してるからこそ『悪いこと』になる。
違う。悪いことじゃない。ゆず先生とのことは。
そんな風に思ってない。思いたくない。ゆず先生に思わせたくない。
堂々と付き合ってくことができないのは仕方ないこと。
別に知らない誰かに分かってもらう必要はない。
でも。春だから。
春には。
ちっこいけど、まだ。
だから適当に誤魔化せばいいなんて、ないよ。ねぇよ。違うんだ。
春は。俺の大事な大事な弟。だからだよ。
本当のこと言って泣かせて喧嘩して。それでも俺はゆず先生が………柚紀が好きで、柚紀もだよ。だから認めろって。
弟だから、ちゃんと。
って、な。
頭では分かってる。
それも違うか。頭の中の俺は『そうすべきだ』。『そうしなければ』。そう思ってる。言ってる。
そして、そうだよなって俺も思ってる。
黙ってて、何かでバレで、なっちゃんの嘘つきって言われるのと、自分で言って泣かれるのと。
違うだろ。全然。色んなものがさ。
って、人があれこれ真面目に考えてるのに、だ。
母ちゃんが両手をほっぺたにあてて、あああああって感嘆の声を漏らして、何?って見たら盛大にニヤけてた。
その顔やめろ。引くわ。
「聞いてよもうー。楽くんがずっと手を繋いでくれててね?」
「………ずっと?」
「ずっとよ。ずうううううっと。すりむいたところ洗ってる時も、消毒してる時も、絆創膏貼る時も、とにかくずっと。何か言うわけじゃないんだけど、とにかくずーっと春の手を離さないでいてくれたのお♡」
思い出してるのか何なのか、母ちゃんは目を閉じて、気持ち悪いぐらいうっとりとしてる。
しかも今なんか語尾にハートマークが見えたような気がした。
「楽くんってなーんかカッコいいのよねぇ………♡萌えたわあ♡」
「………」
出た。母ちゃんの得意技。『萌え』。
一応ココは年長の応援席で、まだ出番じゃないから人はまばらだけど、居なくはないんだよ、母ちゃん。
誰が聞いてるか分かんないんだからまじやめてくれ。
しかも保育園児見て萌えって。
いや、春がかわいくてそうなることはあるけど。ゆず先生見てもなるけどな?
母ちゃんが今言ってる『萌え』は、楽が春の手を握って離さないことに対してだろ?
それに萌えって、あんた。
あ。
「何よ」
びっくりして、母ちゃんを思わず見た。
うっとりしてるのにドン引きして目をそらしてたけど。思わず見て。
『悪いこと』にしてるの、俺じゃん?って。急に。急激に。
悪いことじゃない。ゆず先生とのことは。
そんな風に思ってない。思いたくない。ゆず先生に思わせたくない。って思ってるのに、母ちゃんが楽と春を見て萌え発言したことに、おいおいって。
楽は春のことが多分好きだ。
見て分かるそれに萌えた母ちゃんに、俺が、おいおい。
ってことは。
俺が思ってるんだ。
ゆず先生に色々カッコつけて言ったけど、俺が好きでいるとか、穴があったら入りたいようなクサイこと言ったけど、言ったくせに、男が男を好きってことが『悪いこと』だって。どこかで。無意識に。
目の前には、それに本気で萌えてる人がいるってのに。
「え、私の顔そんなにひどい?」
「………ひどいな」
思わず笑った俺に、何を思ったのか母ちゃんが言うから、余計に笑えた。
笑ったのは、この人すげぇなあって思ったから。
男が男を好きって、まだタブーじゃないの?
妄想の世間ではいいのかもだけど、世間一般のリアルではナシじゃないの?
だからゆず先生はツライ思いをずっとしてて、俺もどっかで『悪いこと』って。
春に堂々と言えないのは、黙ってることのもっと根本に、『悪いことをしてる』ってのがあるからだ。
なのに、この人は。母ちゃんは。萌えって。
まだ、すぐにはなくならないけど。この罪悪感。悪いことをしてるって意識。
けど、母ちゃんに、救われた気がした。
大多数の人に否定されたとしても、少なくとも目の前のこの人は、俺を生んでくれたこの人は、絶対そんなことしないんだろうって。安心、みたいなの。
悪いことって、まだ思ってる俺のどっか一部分。
そんなものぶっ飛ばすぐらい、俺はアノヒトを好きになってやる。
そう、思った。
春にもいつか。俺が。
「始まるか?」
らいおん組の前に揃って座ってた年長の子たちが立ち上がるのが見えた。
ゆず先生は、春の横にいる。
………ゆず先生の隣にけいこちゃんが居るけど。春の手は相変わらず楽が握ってるけど。
次は、大きくなったよ見て見てレース。
見るよ。大きくなった春を。
そして見るよ。
俺が好きになったアンタを。柚紀を。
隣でむふむふ笑う母ちゃんをスルーして、俺はカメラの準備をした。
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