74

 ゆず先生の熱は、触って分かってたけど、計ったらやっぱりまだあった。

 

 

 昨夜よりはそれでもだいぶ下がってて、微熱って言えるぐらいにはなった。

 

 

 

 

 

 そして俺は、熱があるのに普通に仕事に行く準備を始めたゆず先生を、止めることもなく、見てた。

 

 

 覗いてもいいよ、なんて、いたずらっぽく笑ってシャワーを浴びに行くゆず先生を。

 

 

 いいよ、休めよって、無理すんなって言うことなく、見てた。

 

 

 

 

 

 俺はまだ高校生で、家事が忙しいからアルバイトさえしたことなくて、自分で働くってことがどんなことか、知らない。

 

 

 

 

 

 でも、真面目を絵に描いたような父ちゃんを、見てた。

 

 

 ふらっふらになりながら毎日書いてる母ちゃんを、毎日見てる。

 

 

 働くことがどういうことかって、一応目の前で見てきた………つもり。

 

 

 プラスでコノヒトの、ゆず先生の頑張り。一生懸命練習してるとこ。

 

 

 だから。

 

 

 熱があるんだから休めよ、なんて。

 

 

 

 

 

 俺は言わない。言えない。

 

 

 

 

 

 時間。

 

 

 春が起きるのは7時。

 

 

 ここから家までは最短15分。信号に引っかかることを考えて20分は欲しい。

 

 

 

 

 

 そのギリまで、居た。ゆず先生んとこに。

 

 

 居て。

 

 

 行く準備をするゆず先生に、そろそろ帰るなって。

 

 

 

 

 

「ありがと、なっちゃん」

 

 

 

 

 

 抱き締めたゆず先生が、俺の背中にきゅって腕を絡めた。

 

 

 それに俺は、うんって、言って。

 

 

 

 

 

「………見てる。だから頑張れ」

「………うん」

「夜、また来るから」

「え?」

「だから熱が上がっても、来るから、大丈夫だから。だから、頑張れ。行ってこい」

「………なっちゃん」

 

 

 

 

 

 どうしたって、やらなくちゃいけない時はあるんだ。

 

 

 多少無理したって。責任とか、そういうの。

 

 

 俺だって、もしゆず先生があの日の母ちゃんみたいに血吐いて倒れたってなってれば、当たり前に止めるけど。

 

 

 そこまでじゃなくたって、下がらないすげぇ高熱とか、すげぇ頭痛とか、そんなだったら止めるけど。病院行けって言うけど。

 

 

 

 

 

 熱。だけ。

 

 

 しかももう微熱で、咳やくしゃみが止まらない風邪でもない。

 

 

 なら。

 

 

 今日1日。いや。せめて運動会の間だけでもって気持ちで行こうとしてるゆず先生を、行く気でいるコノヒトを、俺は。

 

 

 せめて。俺は。

 

 

 

 

 

 止めないで、いたい。その気持ちを、分かりたい。

 

 

 

 

 

「アンタを見てる」

「………うん」

 

 

 

 

 

 ありがと、なっちゃん。

 

 

 

 

 

 その声が、少し震えてたような、気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に着いたのは、春を起こす時間のまじギリで、我ながらよく間に合ったもんだと思った。

 

 

 

 

 

「おかえり」

 

 

 

 

 

 音を聞いてなのか、ちょうど春を起こしに行くとこだったのか、母ちゃんがリビングからふらっと出てきた。

 

 

 

 

 

 相変わらずのボサボサ頭。

 

 

 開いてんのか開いてないのか謎の目。

 

 

 

 

 

 何か言われるか?って思ったけど。

 

 

 何も、で。普通、で。

 

 

 

 

 

「ただいま。………ありがと」

 

 

 

 

 

 行かせてくれて。

 

 

 親として、ダメって言うこともできたのに。

 

 

 しかも行く先は付き合ってるって相手。しかも男。

 

 

 分かってて。

 

 

 

 

 

 いくら普段からそれなりの信用を獲るための言動を心がけてるからって、もう感謝でしかない。

 

 

 

 

 

「下がった?」

「………下がんねぇ」

 

 

 

 

 

 照れ臭さもあるから、単語だけになっちまったけど。答えた。聞かれなくても報告はしたと思う。

 

 

 それが次への信用になるから。

 

 

 靴を脱いで上がって、春起こすわって。

 

 

 

 

 

 言ったことはやる。守る。

 

 

 

 

 

 今までもそうしてきたつもりで、だからこそのある程度の信用で自由。

 

 

 それって、結果。そういうのが、結果、さ。

 

 

 これからは、アノヒトを守れる何かに繋がっていくのかもって思ったら。

 

 

 

 

 

 今まで以上に、やる。やってやる。きちんと。

 

 

 まだ俺は高校生で、ガキで、何もできないから。せめて。

 

 

 

 

 

 そう思った。だから、やる。

 

 

 

 

 

 母ちゃんは、本当に何も言わなかった。

 

 

 正直、もっとネタにされるか、もっと何か言われるかって。

 

 

 けど、違うな。違うよ。母ちゃんは言わない。

 

 

 

 

 

 信用してないのは俺じゃんって、なんかごめんって思った。

 

 

 

 

 

 春がゆず先生のことを好きって言ってることにだって、母ちゃんは何も言わなかった。

 

 

 そうか、春はゆず先生が大好きなのかって、春の話を聞いてた。

 

 

 俺にも、ひとネタ500円とは言ったけど。

 

 

 ニヤって意味深に笑うことはあったけど。

 

 

 言われるかもって勝手に予防線張って、無駄に警戒して。

 

 

 何年息子やってんだよ。

 

 

 

 

 

 母ちゃんごめん。母ちゃんありがと。

 

 

 

 

 

 口に出して言うことは、まだできないけど。思ってるよ。そう。

 

 

 

 

 

「夏」

「ん?」

 

 

 

 

 

 呼ばれた。

 

 

 

 

 

「私、今日、春とホテルにお泊まりしてくるからヨロシク」

「………は?」

「春、明日お休みでしょ?入院騒ぎで寂しい思いさせたし、お泊まり保育も運動会の練習も頑張ってたし、今日の本番も頑張るだろうし、ご褒美にね。急遽近くの温泉付きホテルを予約したから」

「ご褒美って………俺には?俺は?春だけかよ」

 

 

 

 

 

 確かに母ちゃんの入院中、春は頑張った。

 

 

 俺が困らないようにしてくれてた。聞き分け良くて、ぐずらないで、俺の手伝いもいっぱいしてくれた。

 

 

 けど、俺だって頑張ったっつーの。

 

 

 なのに春だけかよ。

 

 

 年が離れてるから、に、しても、ちょっとずるくね?

 

 

 俺のごめんとありがと返せやって、ひとりでむっとしてたら。

 

 

 

 

 

 母ちゃんは笑った。それこそ………ニヤって。

 

 

 

 

 

「だから、私たちが居ないことが、あんたへのご褒美、でしょ」

「………え?」

「まだ下がってないのに仕事じゃ、またきっと上がる」

 

 

 

 

 

 ………母ちゃん。

 

 

 

 

 

 びっくりして。

 

 

 それってつまりって、びっくりして。

 

 

 

 

 

「運動会終わってご飯食べたら行くからねん」

「行くからねんって………まじで言ってる?」

「残念ながら超まじで言ってるわー」

 

 

 

 

 

 春にはテスト期間中って言っときなさいよー。

 

 

 

 

 

 それだけ言うと母ちゃんは、それだけ言って母ちゃんは、ひらひらって手を振って、リビングに戻ってった。

 

 

 

 

 

 え。

 

 

 ちょっと。待って。

 

 

 

 

 

 いや、行くつもりだったけど。

 

 

 最初から今日の夜も、春が寝てから行くつもりだった。熱上がるだろうしって俺も思って。

 

 

 自分でもきっと上がるって分かってて仕事に行くゆず先生を、ちょっとでも安心させたくて。

 

 

 

 

 

 ………母ちゃん。

 

 

 

 

 

 まじすげぇご褒美だわ。

 

 

 

 

 

 ありがとって。ありがたいって、思うのと同時に。

 

 

 

 

 

 春。

 

 

 春、ごめん。

 

 

 

 

 

 罪悪感がまた、募った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る