第3話 へるたいむ

 赤く錆びた昔懐かしい形の鍵を鍵穴に差し込み、俺は引き戸を開けた。


 少しカビっぽい匂いが鼻を指した。入るとすぐに布団、テーブルが目に入る。風呂は無いがシンクとトイレはある。生活するには十分だと感じた。そして備え付けられていた鏡で、初めて自分の姿を見た。最初に感じたのは親近感だった。しかしそのすぐ後に強烈な嫌悪感が身体中を駆け巡った。今まで人生を共にしてきた顔、身体だというのはなんとんなく分かった。

 そういえば年齢も知らされていなかった。ぱっと見は二十代で、いたって普通の青年という感じである。


 鏡から、そして自分から逃げるようにして布団に横になる。俺はそこから動く気になれなかった。そして1分もしないうちに、こっくりと眠りに落ちた。


 のそりと起き上がる。一体どのくらい寝ていたのだろう。……時計がない。そもそも時間の概念はあるのか? なんとも言えない倦怠感が体を包む。シンクの水で体を無理やり起こし、とりあえず俺は酒場に行ってみることにした。家を出てさっき来た道を戻る。一番通りに出るとすぐに「へるたいむ」という、俺の家と同じように古びたバーがあった。さっき通った時は気づかなかった程に看板は小さいが、扉には「おーぷん」と書かれた掛札が掛けられている。恐らく裏返せば「くろーず」の文字があるのだろう。雰囲気に惹かれたので俺はここに入ることにした。


 扉を開けると、からんころんという懐かしいドアベルの音がした。そしてまさにバーというような酒瓶が並んだ棚とカウンターが俺を出迎えた。


「うるさいなぁ」

 カウンターの中央で突っ伏していた男がむっくりとこちらに顔を向ける。

「いらっしゃいませ。すみません、この方大分酔いつぶれてしまったようで」

 バーテンダーの年老いた男が困った表情を見せた。


「ちょっとここ座れよ」

 客の男が俺を見て隣の椅子をぽんぽんと叩く。その腕に力は全く入っておらずふにゃふにゃだ。俺は仕方なくそいつの隣に座った。


「俺、ヤマノ。お前は?」

 隣に座っている男はそう言った。

「名前は……分からないんだ」

 俺はそう言うと、ヤマノは眉をひそめた。

「えぇ? まだ無いの? じゃあ俺が名前をつけてやるよ。」

 そうだなぁ……と言いながらヤマノはしばらく目をつぶり思案した。そしてはっとしたように目を開き、意地悪な笑みを浮かべると、口を開いた。

「人殺し」

 俺は何も言えなかった。確かにそうかもしれないけど、それはお前だって……そう反論したかったが、苦笑することしか出来なかった。

「悪い悪い。冗談だよ。」

 ヤマノは俺の背中を二回叩いた。少し痛かった。

「レンとかでどうだ? かっこいいだろ」

 レン……かっこいいのかは分からないが、とにかく自分に名前が無いのは気持ちが悪かったので受け入れることにした。

「ああ。レンでいいよ。呼びやすいし」

 俺があまりにすんなり受け入れたもんだから、ヤマノは少し不思議そうに微笑みながらグラスを傾けた。二十代後半くらいだろうか。酔いつぶれて茹でだこみたいになっているが、顔は整っている。もし会社とかにこんな人がいたら、モテるだろうなぁと思う。

「俺、ついさっきここに来たんだ。地獄に。一回寝たからどのぐらい時間が経ってるか分からないけど」

 そう言うと、ヤマノはいきなり顔を近づけ肩を組んできた。

「奇遇だな。俺もここに来たのは昨日だぜ。」


 随分距離が近いなとは思ったが、仲間が出来たようでなんだか嬉しかった。ふらふらのヤマノを連れ、俺たちは銭湯に行くことになった。












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地獄と地獄。 畔 黒白 @Abekenn

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