第23話 もう、あの頃には
ケタケタと小刻みに身体を震わせて笑っている。そんな明らかに狂っている笑い方を見ても、もう恐怖心など沸かなかった。
「……やっと、やっと気づいてくれたのね!! あははははは!! 勝ち! 私が勝ったの!! 何がカメよ! 寿くんはちゃんと気づいてくれた!! バカはアンタの方よ!! ふはは、はーはっはははあははは!!」
笑い狂う彼女の目には、最早俺など見えていないのだろう。髪を振り乱し、一人で喜びに打ち震える様は何かの怪しい儀式のようだ。
けれど、きっと彼女は戻れない。純粋であっただろうその頃の彼女には、もう。
「多田野くんっ!!」
「っ!?」
後ろから腕を掴まれて引っ張られ、たたらを踏みながら振り返って――目を見開く。
「白兎っ……!?」
「早く行くよ! 早く!!」
どうしてここにいるのか、神楽坂高校の制服を着た彼女は俺の腕を必死に引っ張ってくる。もう声を掛けても真妃乃のあの様子では反応しないだろうと、一度だけその姿を視界に収め、俺は白兎とともに俺が進むべき道へと走り始めた。
暫く走って、辿り着いた公園。途中で止まることもなく走り続けて疲れた俺達は昨日と同様、ベンチへと座った。
「……意外に体力あるな、白兎」
「だって私、いま陸上部だものっ、はぁ」
中学の頃とは本当に別人であるかのような変貌である。高校デビューというやつだろうか?
呼吸を整えて一段落し、話をするために口を開く。
「何であそこに?」
「話がしたかったの。昨日、邪魔が入って途中になっちゃったし、このままじゃ多田野くんが危ないと思って。……見たでしょ? あの子、もう狂っちゃってる」
聞いて、やっぱりかと思う。
本当にベアの言う通り、えんがちょー!を言いに来ていたみたいだ。見た目とか中身も変貌したのかと思ったけど、そういう彼女の律儀さというか、根っこの部分は変わらないようである。
「今朝来てたのもそれでか?」
「うん。まさかあの子も来ているなんて思わなかったけど」
俺は二人とも来ているとは思ってなかったヨ。
どこか遠い目をする俺に、白兎が真剣な眼差しで見つめてくる。
「多田野くん。あの子に何て言ったの?」
「何で?」
「だってあんなに狂い笑いしてるの、私、もう……っ」
涙目になって、カタカタ震え始めた白兎。俺はそんな彼女のする態度をどう受け止めたらいいのかあれこれ悩んだ末、正直に話すことにした。
「俺の彼女、元彼のこと先輩か元彼ってしか呼ばないから。俺さ、彼女からその人のことストーカーだって聞いてたんだよ。だからずっと脳内でも元彼ストーカーって呼んでいて、その人の名前知らなかったから。だから聞いた。あれは誰だ、って」
「……え。人として、聞いたの?」
「は? 人じゃなかったら何なんだよ。お前自分の元彼のこと、屑の次は幽霊扱いする気かよ」
言うと、ハッとした様子で慌て出した。
「ち、違くて! そう。そうなんだ。そっか。……なんだぁ」
「変なやつ」
ホッとしてふにゃっと笑う顔は、中学の時にしていた笑顔と重なる。
ショッピングモールで見た彼女は友達に囲まれていた。鞄にドでかいぬいぐるみのキーホルダーを付けて。変わらないところもあるけれど、変わった。
「多田野くん、そのキーホルダーなんだけど……」
俺のリュックで揺れているカラスを見つめ、物言いたそうにしている。俺はやっぱりそれを摘まんで、プラプラと揺らした。
「目印だから外せって?」
「っ!」
「やっぱ白兎もそう思ってるのか? 俺の彼女がさっきそう言っていたから。俺はお守りのつもりで付けてるんだけどな」
今日あの道にカラスはいなかった。
継続は力なり。コイツもようやく神の使いとして目覚めたようである。何だかこの不細工さも見慣れてきて、愛着が沸きつつある。
「……外さないの?」
「うん。本当は今日、彼女と別れるつもりだったんだけど、それどころじゃなくなったし。だからまだ彼氏の立場である俺は付けてなきゃなと」
聞いた白兎の目が見開かれる。
「別れるの!?」
「え、おう。そんな驚くか?」
「驚くよ! だって昨日の今日だよ!?」
「まあな。ちょっとさ、俺の方にも事情があって。それに彼女は白兎とも付き合っていた元彼のことをストーカー扱いしていたけど、実際にはストーカーじゃなかった訳だし。解決してあげたかったから一緒にいたけど、それも解決したから」
中学の頃のような気安さで、ペラペラと話し出す俺の口。自分からよく話し掛けていたせいか、聞かれてもいないことを喋っている。
「解決したって、どういうこと?」
「彼女が束縛執着系……今はもうそう思ってないけど、多分元彼も俺と同じように感じてたんだと思う。だから彼女の彼氏になった俺に、注意を呼び掛けるために現れていたって分かったんだ。つまりストーカーは、彼女の思い込みだったってこと」
「…………」
白兎は黙りこんだかと思うと、覚悟を決めたような目で俺を見据えてきた。
「多田野くん、あのね」
「そう言えば白兎。足、大丈夫か? 昨日擦りむいたところ」
言い掛けたことを遮って問えば、「え」と呟き俺の視線を辿って、自分の膝小僧のことを言われているのだと理解したようだ。
「あ、だ、大丈夫。本当にちょこっと擦りむいただけで、そんなに血も出なかったし」
「そっか。陸上部入って、身体頑丈になったんだな」
「そ、そうかな?」
俺は空を見上げた。紅き緋を映していた空は、昏い藍が混じり始めている。
唐突にベンチから立ち上がった俺に、釣られて立ち上がった白兎。
「多田野くん?」
「もう暗くなり始めたし、そろそろ帰った方がいいぞ。白兎、家ここから近いのか? 途中まで送るけど」
「えっ? あ、ううん。大丈夫! 走って帰ったらすぐだから」
「さすがだな陸上部」
そんな軽快なやり取りをして公園を出る。
聞けば、白兎の家は俺のアパートからそう離れていないところにあるらしい。そしてそれを聞いて、朝早くに待ち伏せできた理由にも納得した。早起きして遠くから来ていたらどうしようかと思っていたものは、これで晴れた。
「じゃあな、白兎」
「うん、またね」
手を振る俺に、どこかぎこちない笑みを浮かべて振り返してくる。そして背を向けてゆっくりと歩いて行く白兎の背中をせめて見送ろうと思い、その場から動かずに見守る。
ゆっくりとだが彼女が帰るべき道へと進んでいたその足は、しかし歩むごとにそのスピードを落としていった。歩いていた白兎が遂に立ち止まる。
「……あのね、多田野くんっ!!」
その場から振り返って俺を見る彼女の顔は――焦燥に満ちていて。
「絶対に人じゃないものとしてアレのこと、あの子に聞いちゃダメだよ! キーホルダーも外して! そうじゃないと、アレに狙われるから! 多田野くんに擦りつけようとしているの!! だから、だから……っ!!」
そこまで言って言葉を詰まらせた白兎に、俺は苦笑した。
「白兎、俺は彼女と別れるって言っただろ! そんな心配するな! 遅くなると親御さんが心配するぞ!」
大きな声で言った俺に、白兎がくしゃりと顔を歪める。
ったく、何でお前が泣きそうになってんだ。そんなに頼りなさそうな男か俺は。
もう一度手を振れば、今度は笑って手を振り返してくれる。そうして背を向け直し、今度こそ彼女自身の帰り道を歩いて行く背中を見えなくなるまで見送った。見送って、暫くそこで佇む。
「何で止まるんだよ、お前……」
……覚悟を決めたような目で見てきたから、嫌な予感がした。だから何気なさを装って遮ったのに。
俺は基本的に人に途中で話を遮られることはあっても、自分から遮るようなタイプの人間ではない。
空の色の染まり具合で、いるんじゃないかとは思っていた。
最初の頃は気づかなかったけど先輩があの道で現れる時は、思い返せばいつもこんな染まり具合の空だった。
カラスはいない。役目を終えたのか、あのカラスどもは今日に限って現れなかった。
『だからさ、寿』
『白兎さん。指チョンパさせないようにね?』
ベア。
ベア、ダメだったかもしれない。
一回はちゃんと遮ったんだ。俺、させないようにしたんだよ。意味が分からなくてもさ、嫌な予感がしたんだよ。だから話もさせないように、もう帰ろうって言ったんだよ。
先輩が。
俺と同じ制服を着た、背が高くて茶髪に染まった髪をサラリと揺らした男子生徒がそこにいる。
いつも合っていた視線が合わない。それはそうだ。だって先輩は、俺の方を向いていない。
先輩は。
俺が見送っていた白兎が進むべき道の、先にいるだろう彼女をジッと見つめて。
口角を、上げていた。
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