第22話 逢魔が時
「…………」
「…………」
並んで下校する二人の間に、会話なんてものなどありはしない。交際五日目にしてこのような重苦しい帰り道になるなど、誰が想像できようか。何度でも言うが俺はできなかった。
一週間も経たずしてこうなると誰が思った。俺は今から別れを切り出さなければならぬ。どこか虚ろな目をした、隣を歩く彼女に。
失言マシン・ベアは俺の提案にあの後プンスコしていたが、お前があんな空気にさえしなければちゃんと真妃乃に別れを切り出せていたんだ。多分。恐らく。
今の機嫌がどうなのかさえこの様子では分からない。いや、ハッピーでないことだけは分かる。
あの教訓に一体どんな意味があったのか。
ベアと言い合いしている時はまだ良かったのに、あの話を聞いてからずっと虚ろな目をしている。俺は一生分からなくていいとか言われたけど、逆に気になってしまう。
「寿くん」
「はいっ」
唐突に呼ばれ、思わずビクッとしてしまった。
重大発表を控えた圧力と、隣からの無言の圧力と、あの道からの圧力で押し潰されそうで意識散漫になっていたため、急な一言には心臓が縮むかと思った。
彼女は俺を見ずに、前を真っ直ぐ向いている。
「私ね。元彼に付き纏われ始めたの、あの日からなの」
落ち着いた穏やかな声が紡いだその内容に、目を瞬かせて思考を働かせる。
「あの日?」
「寿くんが私のハンカチを拾ってくれた日。夏休みの最後の日。あの日はさ、とっても暑くて、暑くて、何が起きたのか分からなかったの。とっても衝撃的で、信じられなくて。まさか自分の身にこんなことが降りかかるなんて、思ってもみなかったの」
聞いて、確かになと思う。
誰だって自分が浮気されて別れ話を切り出したら、その後ストーカーされるなど思うまい。まあ先輩の場合はストーカーじゃなかった訳だけど。
そのことを伝えようと思って口を開く前に、真妃乃が話を続けた。
「どうすればいいのか分からなくて。一人じゃどうにもできなくて。誰かに助けてほしくて、あの日ずっと歩き続けたの。一人取り残された私を助けてくれる誰かをずっと探していたの。そうして出会ったのが寿くん、貴方なの」
顔を向けてきた彼女の目は虚ろではなかった。
瞳がキラキラと輝いていて、とても、とても幸せそうに微笑んだ。
「本当に嬉しかったの。私あの時、自分がハンカチを落としていたことにも気づいていなかった。声を掛けてくれて、ハンカチを渡してくれて。すごく、すごく嬉しかった。この優しい人なら私を助けてくれるって、私の全てを懸けた運命の人だって。そう、思ったの」
「真妃乃……」
何と言っていいか分からず、名前を呼ぶことくらいしかできなかった。今から別れを切り出そうとしている身で、取り繕うような言葉を発することなど無理だ。
真妃乃の視線が俺の顔から、リュックに移る。
「カラスのキーホルダー、ちゃんと付けてくれているのね」
「……まあ、な。お守り代わりみたいな、ものだし」
「そう。寿くんにとってはお守りなんだ。……あのね、寿くん。お揃いのキーホルダーは私にとっては、目印なの」
「目印?」
自分の所有っていう、そういう意味か?
「そう。私の傍にいる人はこの人っていう、目印。間違えないでねって」
「…………」
目印。間違えるな。
ストーカーに見せつけるためのものだと考えれば、意味は通る。
真妃乃はキラキラと瞳を輝かせている。
笑っている。――――嗤っている。
ヒヤッとするものが背筋を下りた。
……俺は、何かを間違えている? きっと恐らく、根本的な何かを。考えろ。放棄するな。今じゃないとダメだ。違和感を覚えた、今じゃないと。
「寿くん、何で黙っているの? 私のこと知ってもらいたいの。ねぇ、会話しないと私のこと知れないよ? ねぇ。ねぇ。ねぇ!」
「頼むから静かにしてくれ……っ!?」
違和感。どうして、真妃乃は。
気づいた。彼女はずっとそうだった。
じゃあ何故? 嫌悪があるのなら仕方がない。けれど、この子はずっとそういう感情を俺に見せなかった。……なかった、の、なら。
そもそもその感情自体が、別のものであったのなら。
「寿くん、もうここまで来たんだよ!」
「え……。……えっ!?」
真妃乃が腕を広げて、周りを見渡すようにしてグルリと回る。それに釣られて見ることで、ここがどこなのかを知った。
歩いていた。確かに歩いてはいた。気づかなかった。どうして気づかなかった? 俺達はゆっくり歩いていた筈だ。例え意識散漫になっていたとしても、あの突き当たりまでもう少しだと気づく筈だ。
――――どうしてもう、目の前にその突き当たりがある?
「あはは、あはははははは!!」
笑い声が。嗤い声が響き渡る。
人のいない住宅街の通り。誰も来ない通り。俺と真妃乃しか存在していない、この道。
「寿くん! 私ね、もう六日目なの! 六日目なんだよ!? 気づいてるよね!? 色々おかしなことが起きてるの、気づいてるよね!!?」
弧を描いた、歪に曲がった口から吐き出されるもの。
「ごめんね嘘吐いて! 見えてたよカラス! 私にも!! 見えてたの!! だって見えてるって本当のこと言っちゃうと、安心しちゃうでしょ!? そうなの! 私もそうされたの!!」
ゆらゆらと左右に揺れて、まるで振り子時計のように。
「優しい寿くん! 私のこと知りたいって言ってくれたよね!? 今すごく困ってるの! 寿くんが気づいてくれないから、すごく、すごく!! 嫌よ気づいてくれなくちゃ!! 助けて。助けて寿くん助けて助けて助けて助けて助けて助けて!!!」
後ずさる。
本当は見えていた? あのカラス達が?
俺に嘘、吐いていた? ……何だよそれ。何だよそれ。何だそれ!!
「おかしいよ、お前」
沸々と込みあげる、これは。
「俺、あれ俺にしか見えてないのかって、自分がおかしくなったのかって。すごく悩んで、俺はお前にちゃんと、向き合って。なのに、今度は助けて? なに虫の良いこと言ってんだよ。何で一緒に解決しようとしないんだよ! 彼女だろ? 彼女だったんだろ!? ちゃんとお前のことを知りたかったから、好きになりたかったから、ストーカーのこともちゃんと解決してやろうって!!」
失望。落胆。怒り。
それらが綯い交ぜになった感情が俺の中で爆発した。これまで蓄積していた我慢やら恐怖やらが、すべて弾け飛んだ。
今まで彼女の何を見てきたのか。たった五日で、何が分かろうものか。
「一緒に解決……? 無理だよ、そんなの」
当然のように、それは有り得ないと含まれる。
「誰だって自分が可愛いもの。一番だもの。そうでしょ? 人間なんて、そんなものでしょ?」
「……今までそんなヤツしか、お前の周りにはいなかったのか?」
「元彼、最後に私に何て言ったと思う?」
無言で首を振る。
真妃乃は見開いた目の端から、涙を落とした。
「『これで俺は自由になれる。真妃乃、ありがとう』って、そう言ったの」
落ちた涙はアスファルトのダークグレーを濃く染める。ジワリと黒く、濁っていく。染まる。凪いだ心で見上げる空は既に染まっていた。紅き緋の夕暮れ。
馬鹿だ、俺は。もっと最初にちゃんと詳しく聞いて、知ろうとしていたら良かったのに。どこの誰かをちゃんと。それを、聞こうとしていたのなら。
空を見上げるために僅かに上げていた顔を戻して、真妃乃を見つめる。途中からではなく。初めから壊れていた、彼女。
ならば俺は彼女にとって何だったのか。どういう存在だったのか。
俺の優しさに縋って、ずっと助けを求めていた。彼氏などではない、俺という存在は彼女にとっては本当に、文字通りスーパーマンだったのだろう。
知るべきだと思った。
それが彼女にできる、俺の最後の救いの手。
「教えてほしい」
「なにを?」
目を一度瞑り、小さく息を吐いて視界を開く。
映るのは紅き緋を背に負った、京帝 真妃乃という少女だけ。
――――カラスなど、どこにもいなかった。
「ずっと、先輩か元彼って言っている。あれは、誰だ?」
彼女の顔が、歓喜に染まった。
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