第18話 逃げられないかもしれない

 思考が停止したというか、頭の中が真っ白になった。

 最早この状況をどう言葉にして説明したら良いのかがまったく分からない。理解できないし、したくもない。取りあえず目が合った。三メートル程の距離でアイツが立っている。そう、アイツ。俺に乗り替えたかもしれない元彼ストーカー(仮)。


 え? 何でいるの? 後ろから足音なんて聞こえなかったよ? どんだけ忍び足極めてんだよ? つか、真妃乃。俺の前に回り込んで振り向いていたよな? 気づかなかったのか? だって元彼ストーカー(仮)、俺より背高いぞ? 見えないわけないよな?


 待ってこれ本当にどういうこと? これ何なの? やっぱ俺、病院に行くべきなの? カラス電線の上だけじゃなくて、コンクリートブロック塀の上にもいるんだけど? 何でそんな増えんの? 何で皆近くにいる元彼ストーカー(仮)じゃなくて俺を見てんの?


 もうこうなってくると俺、アイツらに仲間だと思われてんの? 俺カラスじゃないよ? 歩いて来た道をまた帰ろうと振り向いたら、いきなり出現してんのマジ意味不明。どっから沸いたの? 今までいなかったの何だったの? 何で今日はそっちなの? お前らも隠れ身の術極めてんの? こっち見ないでくれる?


「ハハハ……」


 乾いた笑いしか出てこない。

 この道がおかしいのか、俺の頭がおかしいのか。どっちもなのか。もうよく分からない。


 逃げる? 逃げてどうなる? 多分これ明日もあるぞ? カラス、カラスは病院行くとしても、元彼ストーカー(仮)とは話さないととは思っていた。そう、そうだった。忘れていた。


 あまりの状況に脳が麻痺していたのか、この時の俺はどこかおかしかった。だからその存在へと自分から話し掛けた。


「えっと、先輩で合っているんですかね? 今までずっと真妃乃じゃなくて俺の前に現れていたの、彼女のことで話があったからですか?」


 彼はジッと俺を見つめるばかりで口を開く様子はない。だから俺はまた話し掛けた。


「あの子何か、束縛強いですよね? 先輩、それで白兎に乗り替えようとしたんですか? あの、後輩の俺が言うのもアレなんですけど、ちゃんとお互いに話したら良かったと思いますよ? あ、白兎は俺の中学の時の同級生で今日たまたま会って。真妃乃と居合わせたから、修羅場になりました。先輩がどうしたいのかは俺には分かりませんが、ケジメだけはつけた方がいいと思います」


 後輩の分際で説教垂れてしまったが、元彼ストーカー(仮)はまだ口を開く様子はない。表情も動いていないが、その表情は無表情というようなものではなくむしろ穏やかな顔をしている。良かった。説教垂れて不機嫌そうな様子ではない。

 だから更に俺はまた話し掛けた。


「その、俺としては圧され気味なんですけど、それでも今はあの子の彼氏ですから。ちゃんと彼女と向き合って、俺も今後をどうするのか決めようと思っています。だからあの、もし俺のことを心配して後をついて来たりしていたんなら、大丈夫です。自分のことは自分でちゃんと解決します」


 俺自身の考えを元彼ストーカー(仮)にぶつけた。

 いや、もうその呼び名も変えた方がいい気がする。うん、今度からは先輩と呼ぼう。口からももう先輩って呼んじゃったし。


 先輩に対する不気味さはもうどこか薄れており、真妃乃からの恐怖を受けた同じ仲間目線となっていた。

 今まで抱えていた先輩に対するモヤモヤも、俺が一方的に喋ったことで昇華されてスッキリした。俺は彼に対してすべきことは終えたので、後は先輩の反応を待つばかりなのだが。


 それにしても先輩の顔は穏やかだ。背も高く顔の造りもやはりイケメンであるので、笑ったらさぞかし女子にキャーキャー言われるだろう。

 俺のクラスの女子なんか、いつも俺達男子のことを呆れたような顔で見ている。


 既に俺はカラスの存在なんてどうでも良くなっている。だってアイツらは見てくるだけで動かない。とそんな俺を見つめるばかりだった先輩の口が、ようやく動いた。



「        」



 ……ん? え、何て言った?


「あの、すみません。もう一回いいですか?」

「        」



 んんんんん?

 口パクじゃない。あれ絶対何か喋っているけど、本当に聞こえない。ツンボか? 俺の耳ツンボになったのか?



「        」



 ダメだ。全然聞こえない。

 俺の耳が突如としてツンボになったのか、それとも先輩の声帯が蚊の鳴くような声しか出せないのか。後者だった場合、音楽の授業や合唱コンクールでは悲惨だったことだろう。


 聞こえる距離まで近づこうと思って足を一歩先輩へと踏み出した、その時。




 ギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァギャアアアアアァァァァァアアァアァァ




 ――俺を見つめるだけだったカラス達が、一斉に鳴いた。


「ッ!!??」


 咄嗟に両耳を塞いでその場で耐える。数羽なんて話じゃなく、その空間に存在している全てのカラスが空気を裂くような大きな叫びを発していた。その一羽だけでもよく通る鳴き声なのに全てのカラスが鳴くと大音量で、その声だけで地響きがしそうな程。


 気の抜けていたものが再び凍りつく。冷や汗が米神から伝う。俺は目をかっ開いてその光景を凝視する。


 下手をすると鼓膜が破れてしまいそうなほどのカラスの鳴き声。それでも何事かと家の住人が確認に出てこない不思議。誰もこの道にやって来ない不思議。


 それなのに、どうして。どうして。


 一番カラスの近くにいる先輩が耳を塞がない? どうしてカラスを見ずに俺だけを見ている? どうしてそんなに穏やかな顔をしていられる?

 何で鳴いた? 今まで動かず俺を見ているだけだったアイツら。どうして急に。



 ――――俺が先輩に近づこうとしたから。



 再び俺の中で緊迫さが顔を出し始めた時、黒いものが目の端を掠めた。

 先輩から視線を剥がしてそれの確認をしようとすれば、その黒いものは不規則な動きでこちらへとやって来る。ヨタヨタと方向が定まっておらず、あっちへこっちへフラフラしながらも前進してくる。


 それの姿が確認できる距離まで来て、やっとその黒いものの正体が分かった。あの黒猫だった。

 頭をフラフラと傾かせながら、先輩を通り過ぎた。俺に向かってやって来る。


 黒猫。今も鳴き続けているカラス同様、俺をジッと見ながら道を横切ったあの黒猫。先輩を威嚇し、抱き上げられても暴れていたあの黒猫。


 黒い目をしていたあの黒猫。

 黒い目、の。




 ない。



 目がない。空洞。

 何も映すことのないその二つの穴が、俺を捉えようと――――





 走っていた。昨日と同じように、脇目も振らずに全速力でその場から逃げ出していた。

 分からなかった。すべてが。現実なのかそうじゃないのかも。違う。今までと違う。変わった。全部変わった。この道。やっぱりこの道だった。この道がおかしいし、俺もおかしくなっている。


「ハハハ。あははっ。あはははははははっ!!」


 見開いた目から流れているものは一体何なのか。


 黒猫を見捨ててしまった罪からか、それとも恐怖で心の何かがトんでしまったのか。どちらともであったとしても、もう戻れない。


 戻れない。戻れない。

 もう、逃げられないかもしれない。


 病院。そうだ病院へ行けばまだマシかも。ダメだ。

ダメだ俺、精神病院に行きたいなんて母親に言えるか?

 毎日美味しいご飯を作ってくれる。父親からも守ってやってくれと頼まれている。行方不明のニュースを見た時、あんな風に心配させないようにしないとって。どうすればいい。俺は、どうすれば。



 空が変な色に染まっている。昏い藍色が覆う中で、蛍光しているような赤が重なっている。黄橙おうとうの光は既に遠く追いやられ。



 あぁ、そうだ。思い出した。

 こんな空の色。夕暮れ時。



 ――逢魔が時って、言うんだっけ。

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