蓮の葉、のれた
左、左、右斜め前、正面にジャンプ、右斜め前、左。
アサミちゃんの教えてくれたことは十年経った今でも覚えている。
近所の公園に大きな池があって、そこにはたくさんの蓮の葉が浮いている。
実はいくつかの蓮の葉の下には杭が打ち込んであって、うまく踏んでいけば、池の中島まで渡れるのだ。
亡くなるまで公園の管理をしていたアサミちゃんのおじさんが、内緒だよと教えてくれた秘密を、アサミちゃんは僕にだけ教えてくれた。当時はまだ恋心の意味すらわかっていなかったけれど、アサミちゃんの特別になれた気がして、とても嬉しかったことを覚えている。
だから高校生になった今でも、特に用がなくてもこの池を見に来ることがある。左、左、と乗れる蓮の葉を目で追って確認して、いつでも向こう岸に行けるようにルートを思い出す。
今日は池に先客がいた。あのころの僕と同じ、六歳くらいの少年だ。
彼は少年らしい勇気と好奇心を持って、蓮に乗ろうと、ゆっくりと足を葉の上に伸ばしている。
「そこはだめ」
たしかに小さい子供なら、蓮の葉に乗れることがあるらしい。だけど種類が違う。乗れるのはここの池に生えているものよりも、二回りほど大きい特別な品種だ。
僕の言葉が届くよりも先に、体重が乗り切ったのが先だった。少年の重さに耐えきれなくなった蓮は、少年もろとも池に沈んでいった。
「誰か!」と叫んでみたものの、周囲に人影はない。慌ててケータイで救急に通報し、細かい説明は省いて公園の名前だけ叫んで端末を放り投げた。
上着を脱ぎ捨てて、勢いよく池に飛び込む。少年はパニックを起こして暴れていたけれど、ぎゅっと抱きしめるとやがて冷静さを取り戻して、おとなしく掴まってくれた。
少年を抱えたまま池から這い出すのは不可能だったので、沈まないようにだけ気をつけて救助が来るのを待った。
少年を無事に助けたことで、『お手柄高校生』『勇気ある行動』だなんて、地元の新聞に載って恥ずかしかった。同級生にはからかわれるし、なんで一人で公園にいたのだなんて聞かれてごまかすのにも苦労したし、あまりいいことはない。
周囲の大人たちは僕のことを、ヒーローのように扱いたがった。
でも実際は違うのだ。事故が起きたせいで、あの池が閉鎖されたり、調査されたりするのが嫌だった。
左、左、右斜め前、正面にジャンプ、右斜め前、左。
深夜一時、あの公園を訪れて、誰もいないのを確かめる。
池を渡るのはひさしぶりだ。
正しいルートを選べば、中島まで渡ることができる。アサミちゃんもおじさんも今はもういないので、このことを知っているのは僕だけだ。
だから、誰も気づけない。
向こう岸には、行方不明になったアサミちゃんの死体が埋めてあるのだ。
僕が殺した。
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