第30話 C支えてくれるもの
C支えてくれるもの
あの人一人じゃ重過ぎる
彼女と二人も重過ぎる
彼にあいつにいっぱい来た
いつの間にやら大きな輪だ
〈緊急事態だ。早く来てくれ〉
か。いつかの俺のメールそのまんまじゃんかこれ。どういうことだ、これ。まあ、俺みたいに変な策を弄するタイプじゃないし、本当に緊急事態なんだろうな。
集合場所は街が一望出来る、ある建物の屋上。重要な話がある時に使う場所だ。メールの内容といい。かなりのことなんだろう。そして、そのかなりのことで思い付くことが一つだけある。
「おお、お久」
屋上の更に上、階段を覆うコンクリートの上。そこまで昇ると純がいた。夜空を見上げて立っていた。会うのは三週間ぶりくらいだ。花の見舞いが一度に一人までなのだが、入れ替わりで少し会っただけである。実際に会ってちゃんと話すのは花の容態を説明した時以来になる。因みに俺は週一で見舞いに行っている。
「花の蜜を吸う鳥が、風を起こして飛び立つと、夜空に浮かぶお月様が、花を照らして輝かす。今は月の輝きが強い時間だ」
「おいおいのっけからどうした」
「花鳥風月。花がゲームでよく使う名前だって」
「ああ、そうなのか。で、うん。話が全然掴めないが」
純は毎日見舞いをしているらしい。仕事を上手く抜けて行っているそうだ。行き過ぎて頭がおかしくなったのかもしれない。
「結論から言う。花と別れることにした」
ドクンッと心臓が大きく脈打ち、痛みを伴う。バランスが崩れ、数歩後ろに下がってしまった。
「何があったんだ」
俺は慎重に聞いた。
主治医の言葉を思い出す。昨日見舞いに行った時は、確かここ一週間ほど見舞いに来なくなったと聞いた。この一週間で何かあったのかもしれない。他に良い人が見つかった……にしては期間が短過ぎるな。一週間で諦める覚悟をしたということだろうか。それなら納得出来る……。納得出来る、か。そう、純が決めたことなら納得せざるを得ないな。そう思った。
「花の治療の方法が見つかった」
純は手短にそう言った。
始め、意味が分からなかった。治療はしている。主治医の意見では今が最善の治療なのだ。昏睡状態でずっと、半永久的に眠らせること。定期的に起こしてみて、改善を図る方法。見込みはない方法……。それに代わる治療ということだろうか。それなら万々歳である。ただ、それなら純も嬉しいはず。なのに花と別れるときている。何がどう繋がるかわからない。
いや、やっぱりおかしい。一週間先生と会ってないはずで、俺は昨日会っている。新しい治療については一言もなかった。それに、新しい治療があれば家族にまず連絡が来るはずである。何故純が我々よりも早く知っているのだろう。
「先生が言っていたのか」
話のキーポイントはここだと思った。何かがおかしい。
「ああ」
「嘘だ」
すぐ切り返す。
「だとするなら、家族に先に連絡が来るはずだ。お前、何を考えている」
企みを仕掛けるのが下手な奴だ。残念ながら俺はその道のエキスパートだ。
「嘘じゃない。俺が先生から引き出した。つい先ほどな」
俺……。純の一人称じゃない。口調も違う。
「お前誰だ。純じゃないな」
俺はすぐに回り込んで純らしきものの正体を見る。と、顔を見て数歩下がってしまった。純であって純じゃない者がそこにいた。漆黒の目、ずっと流れている涙。無表情なのか歪んでいるのかわからない顔。俺が回り込んでも反応一つないそれを見て、頭を抱えてしまった。見てはいけないもの、見ていられないものだ。震えが込み上がってくる。
「純じゃない、か。そうかもな。でもほかに名前もないんだ。そう呼んでくれないか」
声がこちらに向いている。きっと視線もこちらに向いている。それがわかるだけでひどい悪寒が走った。ただ、彼がここまでになった理由は知りたくて、震えた声で言葉を紡いだ。
「一体何があったんだ。お前に」
「それはどうでもいいんだよ。君の知らないことだから」
口調が純に戻っている。声も夜空に向いている。今なら少しは向き合えるかもしれない。そうして顔を上げると、純が優しい顔をして、空の闇を見つめていた。涙は止まっている。
「どうでもいいわけないだろ。俺たちは親友だ」
何が彼をここまでさせたのか。その原因はきっと花なのだろう。俺が紹介した相手だ。血縁でもある。俺にも責任はある。
と、純が大きく目を閉じた。目を開けるとまたさっきの顔に戻った。
「花の記憶を消す」
言葉に凄い重圧があり、反射的に目を逸らしたくなる。しかし、目を逸らしてはいけない。向き合うんだ。やつが言った言葉も気になるが、今はそれどころじゃない。
「一体何があった」
全てを押し返すように大声を出した。
「君は知らなくていい」
純と奴が混じった声。最後の圧は凄かった。身体のバランスが崩される。顔を上げることが出来ない。息も上手く出来ない。それでも無理矢理呼吸をし、顔を上げ、足を踏ん張る。
「お前一人で抱えるな、お前の負担を分けてくれ」
絞り出すように言うその台詞が、真っ直ぐ彼を射抜くように弓を引いた。
「わかってる。そのためにお前を呼んだ」
効いたか効かなかったかわからない。ただ、俺の願いは聞き入れてくれるようだ。
「そうか、それならいい」
とりあえず話を聞くことにした。
「花の記憶を消すとか言ってたな。どういうことだ」
「事件に関する記憶を全部消すことになる。俺との記憶もだ」
「待て、事件の記憶を消すのはわかる。だがどうしてお前との記憶も消す必要がある」
「事件に関連する記憶だからだ。特に俺は深く関連している」
「どういうことだ。わかるように説明してくれ」
「……花の発狂が、俺をトリガーにしているからだ」
純の目からまた涙が溢れてきた。
「花が発狂する時、俺は側にいた。花は何か命令されていた。花は男に跨っていた。一人で動いていた。俺を見ると絶句した顔になって止まった。しかしすぐに命令された。一〇秒から始まるカウントが減っていき、〇になる前にまた動き始めた。俺から目を逸らし、いつしか激しく動いて、果てた。絶叫を上げながら。奴が何かを言うと、花は更に絶叫を上げた。世界がその声で壊れていくのがわかったよ」
現場で何が起こっていたのかを初めて知った。いつもひどいことをされたとしか聞かされなかったし、何かそれらしきことは想像がついていたので、詳しくは聞かなかった。そういう意味では俺は逃げていたのかもしれない。具体的なことを知ってしまえば、怒りが抑えられないから。刑務所の中だろうが殴り込みに行ってしまったと思う。自分を抑えるためにという言い訳で知ろうとしなかった。
だが純は違う。現場を知っている。花が壊れる瞬間に立ち会っている。何も出来なかった自分がいる。怒りもそうだろうが、自分への失望も大きかったはずだ。花を見る度にその失望が大きくなり、今の純になってしまった。あり得る話だ。
「今、やつが何かを言って絶叫したと言ったな。なら悪いのはお前じゃない。やっぱり奴だ」
純一人のせいじゃないことを、根本的には奴が悪いことをアピールする。
「関係ない。俺が来てからおかしくなったのは事実だ。俺は行くべきじゃなかった」
「そんな事あるか。お前が行かなければ、それこそ花は戻ってきたかわからない。相手は人身売買組織なんだろう」
「警察だけ行けばよかった」
「何言ってんだ。お前の立場なら誰だって動かずにはいられないだろ。誰もお前を責めやしない。お前は何も悪くない」
「俺が俺を許せないんだ」
雄叫びが上がる。空に浮かぶ月に届いてしまうかと思えるものだった。何も言い返せなかった。
「俺との記憶は全て消えて、花は目覚める」
「ならまた俺がお前と花を引き合わせるよ」
カラカラに乾いた笑い声を出してみる。
「無理だよ。関係する者の再接触は記憶を呼び戻す」
「そんなん、そんなん……」
なんて言えばいいかわからない。そんなのお前が損するだけ。そう言いたい。関係ないって言ってやりたい。純だけじゃない花だって損をする。そんなの誰も得しない。もちろん、花は正常に戻る。しかしそんなの納得出来ない。俺にそんなこと言う権限があるのか。これは二人の問題。二人が当事者だ。
「金は俺が払う。お前には親御さんに治療の許可の取り付けを頼みたい」
「待てよ。金ぐらい俺達が払う。俺の妹だ。俺たちの家族だ」
その言葉を言った瞬間、純の顔が悲痛に歪んだ。
「俺に払わせてくれ」
そしてその言葉を聞いた瞬間、果てない先の地平線が見えた気がした。
俺はとんでもない事を言ってしまったのだ。
血の繋がった家族こそが最後には支え合うべきものだ、と思っていた。理由は簡単だ、血が繋がっているから。でも、家族は特に親は一生子どもの面倒を見れるわけではない。これも理由は簡単だ。寿命があるからだ。だとすると、一生かけてその人を支える人とはどういう人だろうか。小さい頃はしょうがない。それは家族だ。しかし、大人になってからは……。血の繋がらない人間に託すしかないのではないだろうか。血の繋がらないのに家族のように愛し、いや、家族以上に愛してくれる、人生の実りを育んでくれる者。お互いにそうなれる者に託すしかないはずだ。俺は純に託した。花を。純なら花を、花なら純を支えられると信じたからだ。なのに俺はその資格が純には無いように言ってしまった。
「わかった。ごめん」
赤の他人になる以上、純と花を繋ぐものはお金と、レールを引く計画だけ。今の純に花を支えられるものはそれが精一杯。確かにこれは返還作業ではある。でも、それは花だけの返還で、純まですっぱりと帰る必要はないのだ。いや、純は帰りたくないのだ。帰りたいはずがないのだ。好きだから。家族以上に愛しているから。花を。今純がしたいことは出来るだけ花を支えてあげることなんだ。
「言ってくれ。お前のやりたいようにやるから」
俺もまた覚悟を決める。お前の想いを少しでも残してやる。
「ありがとう」
ようやく彼と向き合える気がした。
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