第23話 B貴女の願い2

B貴女の願い




 ザー、ザー。




 夜の海は何も見えなくて怖い。音だけが聞こえて、いつか私達を飲み込んでしまうようで、海の方へは進めない。




 砂浜の感触が変に気持ち良いのが更に怖い。甘い蜜で油断させようとしているように思えるからだ。海辺に来てから、ずっと彼女に手を引っ張ってもらっている。どうやら怖いのは私だけのようで、彼女はどこか陽気だった。




「怖い時はね、空を見るといいよ」




 確かに彼女はずっと空を見るように歩いている。私も空を見上げてみた。すると驚いた。夜空がすぐそこにあるようだった。星々が月が励ましてくれる。引っ張られなくても一人で歩けるようになった。




 空に最も近いところはここなのかもしれない。




 そんな気がした。




「ねえ信ちゃん。最後にお願いがあるの」




 空が一番綺麗に輝く場所で、彼女は振り向いてそう言った。




「私を覆う病気を全部取って欲しいの」




 そう言って、スカートを開くのがわかった。そして、どこかの令嬢のように膝を屈伸させる。




「私を抱いて」




 その言葉を聞いて、私もまた紳士らしく振舞った。一枚一枚丁寧に施術する。蜜月よりも甘い月が私の施術を見守っていた。




 ザザー




 冷たい。海水が流れてきた。やはり私たちを飲み込むつもりだ。彼女が泥と化した砂浜に捕えられようとしている。急いで私は抱き上げた。




 ゲホゲホゲホ。




 強く抱きしめ過ぎたのか、彼女が咳をする。私は急いで離れようとした。




「そのまま抱き締めて」




 彼女がそう言う。私は離れるのを止めた。




 ゲホゲホゲホ。ウェッ、ゲホゲホ。




 発作だ。




「もっと抱き締めて」




 私は彼女の言う通りに抱き締めた。




「もっと強く」




 不思議なことに発作が止まる。




「私を治すの」




 しかし彼女は苦しそうだ。少し緩める。




 ゲホゲホゲホ。




「もっと強く」




 ええーい、背に腹は代えられない。




「もっと」




 彼女の声が潰れてた。




「もっーー」




 ダメだ。これじゃあ死んでしまう。もう一度緩める。




 ゲホゲホゲホゲホ。ゲホゲホゲホゲホ。




 どの強さが正解かわからない。




「私を殺して」




 えっ。




「殺して治して」




 何を言って……。




 ゲホゲホゲホ、ウェッ、ウェッ、ウェッ。




 強く締める。




「そう、もっと」




 涙が出てきた。




「苦しいの。もっと」




 もう何が何だかわからない。




「もっ」


「うおーーーーー」




 全身全霊で私は締めた。




 優子の息が止まった。




 手が震える。力が抜けていく。私は彼女を解き放った。




 ゲホゲホゲホゲホ、ウェッ、ウェッ、ゲホゲホ、ウェッ、ゲホ、ウェッ、ウェッ、ウェッ、ウェッ、ゲホゲホゲホゲホ、ウェッ、ゲホゲホゲホ、ウェッ、ゲホゲホゲホゲホ、ウェッ、ウェッ、ゲホゲホゲホ、ウェッ、ゲホ、ウェッ、ウェッ、ウェッ、ゲホゲホゲホゲホゲホゲホゲホ、ウェッ、ゲホゲホゲホ、ウェッ、ゲホゲホゲホゲホ、ウェッ、ゲホゲホ。




 見てられないが、もう身体も動かない。




「やっぱりダメか」




 苦しそうに彼女はそう言った。少し笑っているようでもある。




「でも、ありがとう」




 苦しいはずなのに、苦しかったはずなのに、彼女は笑っていた。




 そのまま波の来る方へと彼女は足を向ける。




「待って」




 私は遠のく彼女に声をかけた。彼女はとめどなく出る咳のせいか返事はしない。ただにっこりと笑っているように見えた。




「行くな」




 引き止めれば早いのだろうが、手が出ない。




「Ptth://闇の住民。どうしても死にたくなったら見て」




 一瞬意味が分からなかった。




 彼女はこちらを見ながら後ろ向きに遠ざかっていく。




「ダメだよ。私が治すから」




 暗いせいかもう見えない。空はあんなに光を発して輝いているのに、月は太陽の光を反射しているというのに、何故もう彼女を照らしてくれないんだ。




「約束した。君を治すって。戻って来てくれーーーーー」


「今まで本当にありがとう」




 やめてくれ、そんな言葉聞きたくない。




「行かないでくれーーー」




 夜の海は彼女を飲み込んでいってしまった。空とも海とも見分けのつかない世界に、私だけを残して。






 しばらくしてサイレン音が鳴り響いた。タクシーを降りる時に、優子が空電話を鳴らして、砂浜に捨てていたようだ。




 私への処分は無しとなった。患者が一人で飛び出して、私が追いかけたことになったらしい。無茶苦茶な処理だ。ただ、私に何か言う資格はないと感じた。




 優子は二日後に見つかった。かなり沖の方へ流されていたようだ。葬儀屋に運ばれてからはずっと、彼女のことを拝んでいた。何故私は連れ出したのだろう。何故私は海へ連れて行ったのだろう。何故私は締め殺そうとしたのだろう。何故私は引き止められなかったのだろう。何故、何故、何故……。




 優子が燃えて灰になって、それを眺めて、ドクンと脈打つ感覚が襲ってきた。




 死にたい。死にたい死にたい死にたい。




 そして、優子の言葉を思い出す。




「Ptth://闇の住民。どうしても死にたくなったら見て」




 その言葉に導かれるように、私は優子のパソコンを掘り出して立ち上げる。そして、優子の遺言に従ってアドレスを入力した。




 ピーーーーーーーーーーーーーーーーー。




 けたたましいサイレン音が鳴り響いた。しかし、今の私にとってそれは蚊の鳴く声と同じだった。「戻る」のボタンが表示されるが、そのまま次の画面を待った。




「貴方は現世が好きですか」




 文字が浮かんでくる。




「いいえ」




 選択すると、次の文字が出てくる。




「貴方は神を信じますか」


「いいえ」


「貴方は死が怖いですか」


「いいえ」


「貴方のいる世界は地獄ですか」


「はい」


「これから貴方を闇に招待します」




 優子もこの画面まで来たのか。




「住民登録を行うので、名前を教えて下さい」




 ……。




「ただし、現世での名前は使わないで下さい」




 闇の住民、か。




「崖から果てを眺む者」




 信彦の彦という漢字には、切岸という険しい崖の意味があるようだ。全体として頭の良いことを意味するらしい。優子が教えてくれた。今はまだ名医じゃないから名医になるのを信じて「信ちゃん」と呼んでいると。それを思い出した。




「おめでとうございます」


「これから貴方は闇の住民です」


「闇を堪能して下さい」


「堕天使より」




 こうして今の私がいる。ここには何でもあった。世の中に迷惑をかける死に方、かけない死に方。現世への恨み、辛み、愚痴、恐怖、怒り、失望、絶望。




 この「堕天使の館」という闇への入り口とされるサイトの過去ログを遡ると、それが膨大に記録されていた。スレッド形式になっており、一つの文句に対して住民たちがコメントをつけている。私はそれを一つ一つ丁寧に開いて、読み流していた。




 あった。




 いくつかのスレッドを見れば、死に方も死に場所もそれとなく目標が立った。ただ、それはそれとして、気になることがあった。優子がこのサイトを紹介したってことだ。優子の軌跡があるかもしれない。そう気になったらいつの間にか探していた。名前の変わるこの世界で、見つかる保証も気付ける可能性もほとんどないのだが。




 探したい。




 ただただそう思った。そして見つけた。






名医の妻:私には夢があります。いつか夫が私の病を、不治の病と呼ばれる病を、違うな、どんな病気も治す名医になることです。どんな方法を使っても良いのです。その患者が痛みや苦しみから解放されれば、殺したって構わないと思ってます。だって患者に巣食う病を患者の望むように何でも治せるのが名医でしょ?私は夫にそんな名医になって欲しいんです。変な夢でしょうか?最初は私が患者となって、夫に殺されたい。そうして夫は名医の道を歩むのです。その方法を教えて下さい。夫が私を殺してくれる方法を。




     追伸、夫はそれでも優しい人だからたぶん私を殺せないと思います。夫が失敗した時の自殺の仕方も教えて下さい




沈黙の子羊:追伸の死に方は海が良いんじゃないかな。入水自殺。夜の海は空との境界がわからないくらい壮大で優雅だよ。そのまま空に行けそうな感じがする。一日デートして死ぬなら未練はないでしょ。最後は海が良いと思う






闇の住民はお互いを愚弄しない。お互いを尊び、敬い、真剣に相談に乗る。それがここでの暗黙のルールだ。たまにルールに外れた人も出てくるようだが、そういう人は「堕天使」に追放されるようだ。






闇の狩人:一日デート。良いと思う。未練を断つって大事だからね。デートコースはハンバーガーショップ、お笑いライブ、空に近いレストラン、海の順かな。海で発作が起きた時に夫に頼めば良いよ。しっかり頼めば、聞いてくれるかも




名医の妻:デートコースの意図はなんでしょうか?因みに普段は入院しています。海の発作は了解しました。子羊さんと合わせてありがとうございます




闇の狩人:入院中かぁ。じゃあショッピングモールも追加しとこうか。ハンバーガーは身体に悪いものを取り入れること。つまり「死にたい」ってサイン。お笑いライブは夫へのプレゼント。きっと最近思いっきり笑ったことないでしょ。空に近いレストランはあの世に行く準備。「もう行くよ」のサイン。海は子羊ちゃんの意味かな




通り縋る:狩人さんの面白いけど、伝わるかな?あっ、入水の時は睡眠薬忘れずにね




名医の妻:睡眠薬?




通り縋る:それが普通だから。比較的苦しまない方法。あっ、でも発作起きてるから無駄か




闇の狩人:ギリギリ伝わるか伝わらないかが良いんじゃん。ま、一つの案だから参考までに




名医の妻:皆さんありがとうございます。とても参考になります。あの、質問ばかりで申し訳ないのですが、一日デートの状況はどうやって作ればよいですか?




向かいの隣人:願うことです。この世は元々物質的法則だけでは成り立っていません。非視覚的非科学的なものも世界を支えているのです。思念には必ずエネルギーが存在します。運命はそういう非科学的なもので手繰り寄せるものなのです。願いなさい。死の事象を。強く願えば必ずそれは形となります。




名医の妻:願い、ですね。わかりました。皆さん本当にありがとうございます。必ず夫を名医にしてみせます。






 ……それでスレッドは終わっていた。私は天井を見上げた。優子が最後まで形にしようとしたもの。私はそれを無視してまで自分の死を望むべきなのだろうか。




 ふと、そんなことを考える。




 迷惑になる死に方の中に、犯罪を犯して死刑になるというのがあった。安楽死は犯罪だ。世の中のルールではそうなっている。しかし私は闇の住民。ここは優子中。世の中のルールは屁でもない。それがバレて裁かれるなら、それも良いかもしれない。何か、やるべきことをやり残すことを見つけた気がした。




 闇医者はそうして誕生した。

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