第22話 B貴女の願い1
B貴女の願い1
あの人一人じゃ重過ぎる
彼女と二人も重過ぎる
彼にあいつにいっぱい来た
いつの間にやら大きな輪だ
私は闇サイトを巡遊していた。死ぬ方法を探して。死に場所を求めて。理由。そんなの簡単だ。私は愛する妻を殺したのだ。この手で。その理由。妻が不治の病にかかったから。妻が苦しそうだったから。妻が懇願したから。……いや、私が未熟だから、私が見てられなかったから、私が殺したかったから。
「ありがとう」
今でもずっと耳に残っている。あの「ありがとう」はどんな「ありがとう」なんだろう。好きになってくれてありがとう。愛してくれてありがとう。連れ出してくれてありがとう。忘れようとしても忘れられない。あの日ことを忘れられない。
「おはよう」
目が覚めると妻が優子が朝日の中で微笑んでいた。どっと疲れが身体にのしかかる。それでも私はそんな素振りを微塵も見せずにこう言った。
「おはよう」
彼女と同じ微笑みを浮かべられたはずだ。
昨夜は大変だった。仕事終わりに病室を覗くとちょうど発作が起きていた。そのまま三時間。苦しむ妻を見守っていた。私は医者だがこういう時は無力だ。家族は担当することが出来ない決まりになっているため、こういう時は一人の男でしかない。仲間の医者や看護師に任せるしかないのだ。
病魔が去り、優子が眠る。仲間に礼を言い、私は病室に残った。優子が目覚めた時に寂しくないように。そしていつの間にか私は寝てしまっていた。
優子が私のその言葉を聞いて少しだけ困った表情になる。何か変な感じだったろうか。
「今日もお仕事」
優子が心配そうに聞いてくる。困った顔はこれの事か。
「大丈夫。今日は非番だよ」
偶然にもその日は休みだった。これで優子も安心だろう。
「よかった」
ほら、安心した。
「出掛けたかったの」
ドクンっと鼓動が鳴る。無理だ。そんな体力はない。担当医にも言われている。
「ね、お願い」
あどけない言葉だった。優子だって自分の状態はわかっている。その上でのお願いだ。その意図は……。
「わかった」
私は願いを聞くことにした。王子様のように手にキスをして、手を取り、リードした。
「ありがとう。信ちゃん」
私はにっこり笑ってこう応える。
「仰せのままに、王女様」
良いだろう。今日一日は彼女の日だ。私は重い扉を開け放った。
仲間の看護師と医者も私が優子を連れ出していることを何も言わなかった。それは私が白衣を着ているからか、医者だからか。きっと何食わぬ顔で歩いているから、そういう許可が出ていると思っているのだろう。
ただやっぱり全員は騙せなかった。担当看護師の目は誤魔化せない。
「走ろうか」
小声で合図する。
「うん」
彼女は楽しそうだ。
「お姫様抱っこするね」
彼女に走らせるのが危険なのはわかっている。
「うん」
彼女はとても楽しそうだった。隙を突き、抱え上げ、走る。外に出るとすぐにタクシーを拾った。彼女は体力が落ちていて軽かったが、それでも抱えて走るのは大変だった。タクシーの中でぜいぜいとする。
「ショッピングモールにお願いします」
なかなか言葉を出せない私を見て、彼女は自分で行き先を決めた。何がしたいんだろう。息を切らしながら、私は頭を捻っていた。
「ね、似合う―」
優子のはしゃぐ姿を見てなるほどなって思う。確かに病院服では出歩けない。納得の場所である。
「似合うけど。全身赤にするの」
どこかのセレブのようなミニスカの服装だが、何故か全身赤のものを着ている。
「うん。汚れても大丈夫だから」
明るく優子はそう応えたが、私は眉間に皴を寄せた。
「さ、次は貴方の番」
「えっ、私もか」
「当たり前でしょ。白衣でデートするつもり」
プンプンと怒った顔で下から覗かれる。こういう顔も可愛いなと思ってしまう。
「わかったよ」
「信ちゃんは白ね」
白ならそのまま白衣でも……と思ったが、さすがに飲み込んだ。しかしどういう事だろう。紅白ということだろうか。縁起を担ぎたいのかもしれない。
「バッチグー」
一時間以上もかかって、白のタキシードに決まった。
「次はハンバーガーショップ」
朝食も食べていないので、お腹の虫がうるさくなった頃、彼女がようやく飲食店を目指してくれた。してくれたのはいいがハンバーガーショップと聞いて面食らってしまう。今しがた装着した衣装があまりにも不釣り合いな場所だ。
一体何を考えているんだろう。
まあ、今日は彼女の日だ。好きにさせよう。
出来るだけ高い、しっかりした店を探そうとしたが、一番安価な店を選ばれた。お金のない若者が集まる若者の巣だ。制服もちらほら見える中で、私たちは当然のように注目を浴びていた。
「どうしたの。食べないの」
優子はコーラを片手にがぶがぶと食べている。とても美味しそうで何よりだ。一方私はお腹が空いているのに、恥ずかしさが勝ってハンバーガーが喉を通らない。そもそも私はこんな人口調味料と油ギドギドな塊を食べたことがあっただろうか。少なくとも医者や療養中の患者が食べるものではない。
グーーーーー。
それでもだんだん空腹が勝って、私は一気に流し込んだ。
「次はお笑いライブが見たい」
食事が終わり、次の行き先を訪ねると、これまた服装を無視した行き先が告げられた。もしかしたら今日はそういう日かもしれない。しかし今度は大きな所でも受け入れてくれた。
ちょっとだけ助かった。
「アッハッハッハ」
優子が思いっきり笑っている。私はお笑いライブなんかより優子の顔を見て楽しんでいた。何年かぶりに見る優子のケラケラと笑っている顔。絶対に忘れるかって刻み付けていた。
「あー面白かったぁ」
ライブが終わると優子が満足気にそう言った。
「うん、とても面白かったね」
私はそう言った。
「ふふっ、良かった」
そう笑う彼女はこの日一番の笑顔だった。
「次はどこに行きますか、お嬢様」
道中で膝を折り、垂れ下がり、頭を上げる。私なりの渾身の冗談だ。……。どうやら彼女には効かなかった。虚ろな目で空を見ている。じっと見つめ、ポツリとこう言う。
「空に一番近いレストランに行きたい」
「わかった」
私はいつの間にか普通の姿勢でそう言った。
タクシーに乗っている間は無言だった。とても話しかける空気ではなく、彼女は窓から外を見つめ、頭を預けて時折歌っていた。何を歌っていたかはわからない。あの後調べてもわからなかった。たぶんオリジナル曲だ。トゥトゥトゥーとずっと歌っていた。
「ここがたぶんこの辺りで一番空に近いレストランだよ」
私が高い塔を見上げながら説明する。
「ありがと」
彼女はちゃんとにっこり応えてくれた。
「うわー、すごい綺麗なレストランだね」
レストランに入ると、昼間までの優子に戻っていた。少し安心する。
「一応窓側の席頼んどいた。空が見たいんだろ」
外はすっかり暗くなっていた。店内が暗めに設定してあるので、星もしっかり見える。
「赤ワインお願いします」
「じゃあ私は白で」
一応紅白を意識したつもりだ。このまま無事に病院に帰りたい。そんな願いを込めてみる。料理が運ばれて来るまでの間、彼女は席を立ち、窓の外の星を掴もうとするように手を伸ばしていた。その様が何かの水彩画を見ているようで、彼女がぼやけて見えた。
ワインと料理が運ばれてくる。二人で紅白を打ち鳴らした。乾杯の音頭は取らなかった。ニッコリ笑顔を交わす方がしっくり来たから。優子がワインを口に含む。と、急に発作が起きる。
ゲホゲホゲホッ、ウェッ。
血が吐き出されると、それは私のタキシードにかかった。もしもの時のために持ってきた強めの頓服を急いで飲ませる。ウエイターにはちょっと咽ただけだと伝える。納得はしていなかったが「私は医者なのでともかく大丈夫」と言うと、黙ってくれた。
しばらくして、優子の発作が収まる。
「そのタキシード、捨てないでね」
苦しそうな笑顔を向けて彼女はそう言った。白のタキシードの意味が分かった時、悪寒が走って身震いをした。
「ううん。食べよう。もったいないから」
彼女が小さな手で私の手の甲を強く握るので、私は大人しく従うことにした。
「ワインはダメだぞ」
薬の効果を気にしてワインだけは取り上げた。
「もう帰るよ」
食事を終え、私は切り出した。さすがに限界だ。
「ううん。海に行く」
それは遠い国の言葉だった。
「お願い」
声に、瞳に、強い意志が宿っている。その奥低にあるものがあまりにも深くて深くて、寒くて、身体の奥が震えてしまう。
「私には夢があるの」
手が震え始めた時に、彼女がそれを包んでそう言った。
「信ちゃんが病気を何でも治すの。どんな病気でも、どんな方法でもいいから。信ちゃんが名医になる夢」
彼女の言葉を聞くと、安心する。
「私はそんな名医になれるのかな」
か細い声しか出なかった。
「なれるよ。信ちゃんなら。だから私の病気を一番初めに治して欲しいの。だからね、お願い。海に連れて行って」
彼女が温かく包んでくれる。私は甘えるようにこう言った。
「わかったよ」
どんな手を使っても治してみせるよ。
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