第20話 A一人じゃない1
A一人じゃない1
あの人一人じゃ重過ぎる
彼女と二人も重過ぎる
彼にあいつにいっぱい来た
いつの間にやら大きな輪だ
地平の彼方から昇ってくるのは我らが太陽。静かな病院を照らし、病気になった人々に朝を知らせてくれる。暗い世界からの解放。辛い夜からの解放。悪夢が覚める時であり、夢を思い出す時。活動する時間が来た。ただ、それも、徹夜で起きていた人たちには関係ない。結局私は徹夜してしまっていた。
記憶の消去に必要なのは完全な抹消だ。それはわかっていた。わかっていたはずだ。それでも私は人間だ。機械じゃない。事件と繋がらないのなら、事件と関係ないのなら、少しくらい彼の記憶を残してあげたい。そう思うのは人情ではないのか。
いや、言い訳はよそう。現に今患者は記憶を取り戻し始めてしまった。私のミスだ。こうなったら、今度は完全に消す必要がある。昨夜はその覚悟を決めるために徹夜した。最善は尽くした。これはその結果だ。
決意を固めた私は、患者の下へと向かった。
病室に入ると、一目でその光景に気圧されてしまった。月風花が起きていた。陽光が彼女の半身を照らしている。光の当たる部分。陰が浮き出る部分。その絵はとてもリアルだった。私の位置からは影が浮き出る部分が良く見える。手を目に当てていた。こちらには気付いていない。時折しゃっくりが出ているようだ。嗚咽も聞こえ、雫が布団に落ちている。彼女は泣いていた。
「どうしたんだい」
胸が締まる。息苦しい。悪い予感がする。彼女は確かに昨日は寝ていた。自分で巡回していたからわかる。つまり夢を見ていた可能性がある。そんなに連続で夢を見ることも、その夢が記憶の断片である可能性も低い。しかし、目の前の情報は、それを、記憶が戻っていることを彷彿させるものだった。そうなのだ。私の施術は欠陥品なのだ。
「何を見た」
優しく言う余裕は私には無かった。一歩一歩近づくにつれ、恐れは肥大化し、私の手は、唇は震えていた。
「何を見たんだ」
彼女が怖い夢を見て泣いているわけではないのは明らかだ。あの涙はそういう涙ではない。人を想い、想われ、叶わぬ時の涙だ。近づけば近づくほどそれがわかる。
「彼に、彼に会わせて」
今度は私は一歩下がった。彼女の言っている彼が私の紹介した医大生じゃないのはわかる。更にもう一歩下がった。
「純に、輪島純に会わせて」
彼女のしわがれているがとてつもなく意志の強い声が私を骨の髄から震わせる。私は膝が折れてしまった。
「無理だ」
震えた声でぽつりと呟いた。
「会いたいの」
なんて質量の言葉なんだろう。押し潰されそうだ。
「無理なんだ」
私は出来る限り精一杯の声を出す。
「会いたい」
遂に重さに耐えられなくなった私は手をついて四つん這いになる。
「忘れてくれー」
あらん限りの力を振り絞って私は叫んだ。
「忘れるんだ。忘れてくれ。忘れなきゃダメなんだ」
力で抑え込むことしか私には出来ない。
「会わせて」
ただそれもたった一言で覆る。
「うおーーーーー。うおーーーーー。うおーーーーー」
私はいつの間にか懺悔していた。
「君は植物人間だったんだ。目が覚めては発狂し、力尽きる。そんな日々がずっと続いていた。だから眠らせた状態を維持することにしたんだ。それほど強いショックと絶望を君は体験した。そこには純君も深く関係している。もちろん純君が悪いわけではない。しかし、君の事件に関する記憶を全部消さなければ、君は日常生活に復帰出来る状態ではなかった。純君に頼まれたんだ。純君に。赤の他人になる覚悟を持って、高額の医療費を払う覚悟を持って、君に幸せの人生を歩んで欲しい。それが彼の願いだ。それが、彼の尊い願いなんだ。私は彼の願いを聞き入れた。協力すると誓った。君の愛する純君の願いだ。君も協力してくれ。その記憶も、思い出した記憶も全て消す。今度は変に思い出さないくらい完璧にやる。だから、だから協力してくれ」
「嫌だよ」
一蹴りされた。
「私はそんなの嫌だよ。苦しいもん。純を忘れて生きるなんて苦しいもん。そんなの嫌だよ。純を忘れたくないもん」
とても純粋な気持ちだった。大人の理屈なんか通用するわけがない。
「それが、君の願いなのか」
思えば私は彼女の意見を聞きたかったのかもしれない。
「うん。私全部思い出す。純の事も、その辛い記憶も。それで胸張って生きたい」
所詮私は他人なのだなっと、思ってしまう。一番辛いのは当事者たちだってことはわかっている。今回の一番の当事者は間違えなく月風花だ。ならば、彼女が決めても良いのではないか。そう思った。
「簡単な道のりにはならないよ」
協力すると約束して、高額の医療費まで分捕って、意見を変える。自分はつくづく闇医者でやぶ医者だなと思った。
「大丈夫だよ。先生もいるから」
そうか。戦うのは私一人ではないのか。そう思えば、少し楽だな。
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