第10話 C代償2

C代償2




「大丈夫です。今日は先生に用があったので」




 私に、どういうことだろう。まさか「治して下さいと」とまた泣きつくつもりだろうか。




「花を、月風花を治して下さい」




 やはりそうだ。今まで散々そういう言葉を聞いてきた。子を思う親、愛情深い夫婦、時には未熟な医者もそうだった。「治して、お願い、頼みます」私の人生で幾度となく繰り返された言葉達だ。しかし、医者にも出来ることと出来ないことがある。特に精神の世界はそれが顕著だ。難度が高ければ高いほど手が付けられない。見守るしかない。そういう世界だ。彼と月風花の関係は散々知っている。彼がそういう言葉を発する気持ちはすごくわかる。




「そうしてやりたいのは山々だが、前も説明した通り、私には、いや私たちには無理なんだ。申し訳ない」




 正直、こういうのは苦手だ。今まで数えきれないほどこういう人に会ってきた。彼らの気持ちを思うとこちらも胸が張り裂けそうになる。




 しかし、何も出来ない。




 医者はいつも無力感に苛まされるのだ。




「花を、月風花を治して下さい」


「申し訳ないが、最善の処置はしている。雪も強い。風邪を引かぬうちに帰らないか」


「花を、月風花を治して下さい」




 真剣な眼差し、同じ言葉。さすがに私も身に堪えてくる。別に嘘など吐いていない。最善は尽くしている。それなのに彼は真っ直ぐ見つめてくる。




「話がそれだけなら。帰らせてもらうよ」




 冷たいようだが、私もこれ以上は耐えられない。そのまま去ろうとした。




「僕知ってます。先生が運営しているサイトのこと」




 私は歩を止めた。だが振り返ることはしない。




「サイト。何のことかな」


「先生が運営している闇サイトのことです」




 闇サイト。




 そうか、この一週間はその世界に入り込んでいた期間ということか。しかし、サイトの主を探り当てるなどそう簡単に出来ることではない。




「闇サイト。何だか怖いサイトだね。私はそんなもの知らないな」




 人には踏み入れていい世界と、踏み入れてはいけない世界がある。




「毒をもって毒を制す、とでも言いましょうか。闇の探偵に依頼しました」




 しかし、どうしても迷い込んでしまう人はいる。




「闇の探偵って、そんな危険そうなものに手を出したのかい。お金も必要だったろうに」


もう、隠し通せないのはわかっていた。闇の探偵の仕事は高いが確実だ。ただ、どうしても逡巡してしまう。自分の目が泳いでいるのがわかる。




「ええ、120万かかりました。依頼内容は月風花の病気を治せる人を探すこと。その結果、闇の医術を扱うサイトがあり、その主が貴方であることを知りました。全て調べてもらいました」




 闇の住民は闇の住民に敬意を表す。彼もここまで辿り着いたのだから立派な闇の住民だ。ここからは、闇医者として話させてもらおう。私は振り返った。




「どうやら本当のようだね。確かに闇サイトは経営してるよ。しかし、最善を尽くしているのは本当だ。君の期待する治療は出来ないと思うがね」


「いや、貴方は出来ますよ。闇の探偵のお墨付きですから」


「なるほど、しかし、私も嘘は吐いていない。治すことは出来ない。出来るのはせいぜい症状を消すことだけだ」




 先ほど現代医術の限界と言った。あれは本当だ。心の病を完全に治すことは医術では出来ない。しかし、闇医術なら治すことは出来なくても、症状を消すことは出来るのだ。大きな代償がつきものだが。




「症状が消せるんですね。人はそれを治せると言うんです」




 彼にとっては雄一の希望なのだろう。しかしこの治療の代償は、おそらく彼が思っているよりもとてつもなく大きなものだ。




「ああ、しかし私がその治療を推奨することはない。今の治療が最善だ」


「それは医者としてですか、それとも闇医者としてですか」


「……もちろん、闇の医者としてだ」


「整理しましょう。まず、医者は何に基づいて治療を行いますか」


「……患者を中心とし、社会生活の復帰を目指す過程で、家族の意向と周りとの環境を加味して治療に当たる」


「では闇の住民は。闇の医者としてはどうです」


「依頼者の意向に沿い治療する」


「なるほど。僕の意向は月風花を社会復帰させることです。家族の意向や周りとの環境など不要です。これでも推奨出来ませんか。いや、そもそも貴方の推奨なんて必要ない。これは依頼です」




 純君が理路整然と言い切った。




「君は……、君は闇医術の恐ろしさを理解していないのだよ」


「好きな人が目の前で壊れて人でなくなった。まだ先の長い人生を歩めるはずの若人が。人生の酸いも甘いも碌に知らない若人が。そのまま植物人間として老いて朽ち果てる。この悲劇に勝るものがありますか」


「君は……、君は理解していないのだ。いいだろう、この治療について説明してあげよう」




 私は一呼吸置いて少しだけため息を吐いた。そして、上を見上げた。




「その前に、闇医術に関するおさらいをしようか」




 そして、純君を改めて見る。




「必要ありません。サイトの方は一通り読んでいますから。保険は下りない。だから治療費が全額負担になる。ですよね、いくらです」


「一五二〇万かかる。君に払えるかね」




 探偵料など比ではない額だ。この若者にこの額が払えるとは思わない。




「意外と良心的なんですね、安心しました」




 強がっているのか本気なのか。ただ一つ言えるのは、これは闇の取引。私が承諾すれば、それは必ず施行される。




「……。治療には一か月かかる」


「それも嬉しい事実です」


「……。ここからが重要なんだ。この治療は患者の記憶を消すことにその本位を置いている」


「あの事件の記憶を消すということですね。絶対にするべきです」


「そんな簡単な話ではない。いいかい、よく聞くんだ。事件の記憶を消すには、それに伴った記憶も消す必要がある。つまり、君との記憶もだ。君たちは治療後、他人になる」




 そこまで言って、一息吐く。なるべく冷静に話そうとは思うが、どうにもそれを突き破る気持ちが出てしまう。




「……。それならまた口説き落としますよ」




 彼は静かにそう言った。




「残念だが、そんな甘いものではない。先ほど私はこの治療は症状を消すだけだと言った。つまり、記憶自体は彼女の奥深くにあり続ける。根本的には治らないのだ。私が言っていたのはそういうことだ。言うなれば、封印を施すだけなんだ。そう、封印だ。この封印は意外と簡単に解けてしまうことがある。それは、記憶を連想させるものとの接触だ」




 そこまで言って、一呼吸置いた。純君もさすがに黙っている。




「わかったろう。君がこの依頼をして、お金を払った瞬間から君と月風花は完全な他人になる。二度と接触は出来ない。どういうことかわかるかね。もう、完全に関係がなくなる相手に一五二〇万を払うということだ」




 探偵料を含めれば一六四〇万だ。




「……。それで、花の人生が買えるなら」




 純君は俯いたまま、そう、力強い言葉を漏らす。




「君はわかっているのか。いいか、一生会えなくなるんだぞ。いや、それだけではない。先ほど私は記憶を連想させるもの全てがトリガーになる旨を伝えた。つまり、君がどんなに我慢してても、それはほんのふいとした瞬間に崩れることがある。これはその程度の治療なんだ。こういったことを加味して、私は君に勧めないと言っているんだ」




 ダメだ、冷静でなんていられない。言葉が荒ぶってしまう。半ば怒鳴っていたと思う。辛いのだ。私だって。




「……それでも、少しでも、花がまた笑って暮らせるなら」




 純君が強い意志の下、言葉を紡ぐ。




 何故わからないんだ。




「いいか。私はやらない。私は君を知っている。君の想いを知っている。君の想いが強ければ強いほど、この治療は最悪の治療になるんだ。そんな治療を誰が望むというんだね」




 勢いに感けて涙が出てくる。彼が事情を知れば知るほど。その事情を知った上で、頼めば頼むほど。私は、やりたくないのだ。




「僕が……、僕が望んでるんです」




 彼の言葉は弱く儚いのに、この空間の、この世界の果てまでも染み渡っていった。彼は満面の笑みだった。




 ああーーーーーーーーーーーーーーーーー。




「それに貴方は断れない。闇サイトにこう書いてあります。以上の警告を受け入れてまでも望む、貴方の意志に敬意を表し、私は最善を尽くします」




 そう、それが私の決めたルール。結局、一番辛いのは当事者たちだ。私ではないから。




 私は目を閉じた。




「貴方の意志に、敬意を表します」




 ぽつりと言ったその言葉が、闇に消えて行くのと同時に、彼も闇に消えて行った。




 吹雪く雪の中佇んだ私は、最後に医者として一言虚空に放つ。




「最善を、尽くすよ」




 とても、凍えてしまう寒さだった。

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