第4話 小説的表現について



 今回は、いよいよ小説的表現についてのお話です。


 小説的表現を語るに当たっては、シナリオと対比してみるのが一番わかりやすいかと思います。

 まず、小説では、シナリオでは許されない事が表現できます。


 一、曖昧な表現。


 二、観念的な記述。


 三、詩的な表現。


 四、語り口を変え、表現を硬くしたり柔らかくする事。


 五、擬音やオノマトペによる演出。



 大まかに、この五つです。

 小説的表現とはつまり、この、たった五つの要素を指します。


 

 では、解説します。




 ⚫︎一、曖昧な表現。


 これについては前回もお話しましたね。

 例えば、小説ではこんな表現が可能です。⬇️



 僕は、目の前に群がる有象無象に突撃して勇を振るった。連中は様々な凶器を手に僕に襲い掛かったが、僕はがむしゃらに暴力の海を泳ぎきり、勝利した。全員をなぎ倒した時、僕が手にしていた凶器は、狂気だけだった。



 ━━━━━━━


 こんな感じの曖昧な表現です。シナリオ的視点からツッコむと……


「有象無象」ってなんだよ! 

「勇を振るった」ってなんだ! 

「様々な凶器」ってなんだ! 

「暴力の海〜、僕が手にしていた凶器」云々の表現は要らねえ! ごちゃごちゃ修飾すんな!


 みたいな感じになります。

 どれも、具体的な表現ではないからです。

 ですが、例文は小説として書かれた文ですから、小説的には全然アリなのです。

 曖昧な表現は、上手に使えば小説の醍醐味といえるかもしれませんね。


 その一方で、使い方を間違えれば、作家の独りよがりになります。。なのに、伝わらなかったら本末転倒ですよね。

 勿論、ここぞという場面で、描写やセリフを曖昧に描くことによって読者に歩み寄りを促す。と、いうやり方もあります。

 ですが、それを行う時には、読者が歩み寄って謎を解き、答えがわかった時に強い感動を覚える。みたいな仕掛けが必要になります。

 とっても高度なやり方なので、連発はできません。それに毎回、読者に歩み寄りを促すばかりでは、実力ある作家とはいえません。

 観念、心理描写、詩的表現、造語、等の曖昧な表現は、はっきりとした狙いを持って使いましょう。

 




 ⚫︎二、観念的な記述について。


 これも第二話で少し触れていますね。

 フリーターの男が部屋で一人、延々と観念的な事を考え、語る場面です。


 僕の場合はこれを無駄と切り捨てて、書き換えてしまいました。ですが、小説的表現という意味においては、やってはいけない事ではありません。


 観念的な表現は、みたいな事も含まれます。


 実例を挙げましょう。⬇️





「じゃあ、このページ。見て。これって何をしてるのかな? これ。恵方巻きじゃないのよ。なんだと思う? ジェリ子ちゃんは恵方巻は好き? ねえねえ」


 ジェリ子ちゃんが、あまりにもやんやん言って恥ずかしがるので、小濱もだいぶ楽しくなりました。


 良いぞみるく。もっとセメろ! どうしたジェリ子。お前のウケはそんな物か? あああん!?  ←これ。脳内独白。




 所謂、心の叫びとか思考とか、ツッコミみたいな物が脳内独白です。これらがつまり、観念的な表現に該当します。

 観念的表現とは、説明でもなく、台詞でもない。をいいます。

 だから、観念的な表現を延々つづけてしまうと、ストーリーの進行が阻害されます。場合によっては稚拙と見做されたり、くどくなってしまいます。


 観念的表現は、あくまでもキャラクターが頭の中で思ってる事、感じていることに過ぎません。

 いくら。ということです。場合によってはくどいだけの文章となります。

 そもそも、小説の読者は観念には興味がありません。興味があるのはストーリーです。誰かの観念が知りたければ、小説ではなく哲学書とか専門書を読みます。



 転んでしまった主人公がいかにして立ち上がり、再生してゆくのか?


 極端なまでに弱気なヒロインがどのように勇気を振り絞り、どんな方法で恋を勝ち取るのか?


 夢見る青年が、どんな風に困難を乗り越えて夢を掴むのか?



 ストーリーとは、こういったなことをいいます。人には、誰かの成功体験から学び、自分の経験や糧にしたい。という根本的欲求があります。そこに寄り添うのがストーリーです。なので、ストーリーは具体的であればある程、読者を惹きつけるでしょう。

 具体的な成功体験と、困難を乗り越える方法が記された物語は、読者の財産になります。


 観念的記述は作品のエッセンスにはなっても、作品の特色にはなりません。作者の個性にもなりません。使いどころが難しい表現なので、慣れないうちは程々に留めましょう。






 ⚫︎で、三の詩的表現ですが……。


 これに関しては、だれもが知る実例が存在します。


 小説における究極の詩的表現は「平家物語」の冒頭部分ではないかと思われます。


 祇園精舎の鐘の声……云々の部分ですね。僕は、これ程詩的であり有体であり、無駄のない作品を知りません。「平家物語」は日本文学史上最高の小説の一つではないかと思います。


 え?


 言われなくてもそんなこと知ってる?


 ですよね~。



 また、詩的な表現には「例え」も含まれます。


「彼女の瞳の輝きは、まるで十二月の星のようだ」


 みたいな事ですね。

 平家物語冒頭の「ただ風の前の塵に同じ」の表現も、例えに該当します。

 有体でいて、詩的ですね。


 詩的表現は、下手にやってしまうと小説を台無しにしてしまう事があります。

 くどいとか、分り辛いとか鼻につくとか思われてしまう恐れのある、諸刃の剣なのです。なので、物語的に大切な場面で、さりげなく使う程度に抑えるのが無難かと思われます。


 というか、厳しい程にひたすら有体な表現その物が、一周回って詩的だったりもします。

 小説は奥が深いですね。



 



 ⚫︎四、語り口を変えて文の印象を変える。


 例を上げましょう。⬇️




 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがいました。



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 この語り口だと柔らかい感じがしますね。では、少し乱暴な表現をしてみましょう。⬇️




 スゲえ昔の事だ。あるところにクソ爺とクソ婆がいやがった。



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 暴力的な感じがしますね。ですが、語り手の人格が強く伝わってきます。


 そう。語り口を意識することは、キャラクターや世界観の表現に直結しているのです。これについては、天さんがあまり意識していない点だと思われます。語り口は物語の味や印象を決める要素なので、いずれ色々なバリエーションを試してみるのも良いでしょう。





 

 ⚫︎五、擬音やオノマトペによる演出。


 いきなり例を挙げます⬇️



 手にしたパンはゴツゴツとしていた。まるで岩みたいだ。

 日本人としては、やはり白米が恋しくなる。ほくほくと上がる湯気に、きらきらとした輝き。それをはふはふ頬張って、ドロドロになるまで咀嚼そしゃくする。あのありふれた日常は、天国みたいだったな。



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 これについては、あまり説明しなくても分かりますね? 擬音やオノマトペは、文章表現を豊かにします。やり過ぎると安っぽくなるので、ここぞと言う時にさらっと使ってみましょう。

 また、たまに擬音やオノマトペが稚拙だと主張する人もいますが、かの宮沢賢治大先生は作品によってはガンガン使っています。それが、使っても良いのです。まあ、何事もバランスは重要なので、稚拙にならないように気をつけて使う分には問題ないでしょう。





 さて、これまで紹介した五つの小説的要素は全て、やり過ぎると物語を読みにくくします。下手すりゃ、でもあります。


 ですが、それを小説たらしめる為に不可欠な要素でもあります。


 何故か?


 シナリオと小説、どちらでもやってよい表現が一つあります。


 「説明」です。


 シナリオのト書きは、全てこの説明に該当します。


 ※高レベルな人からしたら、小説で行われるのは説明ではなく描写だ! と、いう意見もあるでしょうが、ここでは便宜上、説明と括ります。シナリオ的視点から見た価値観とご理解ください。


 小説でも説明は行われます。でも、小説とシナリオでは、同じ事を説明しても、読んだ感触が違っている筈です。


 それは、小説の説明が、小説的表現という衣をまとっているからです。

 また、ただ説明するだけの説明は、小説ではあまり良しとされません。小説での説明は、主に描写によって行われます。特に、ハイレベルな作家の説明は、によって行われます。有り体な、具体的描写の重要性は、ここで問われます。



 だからこその、小説的表現なのです。


 つまり、小説的表現は、ただの説明を、必要な要素へと昇華する物なのです。


 一文一意の文章による有り体な文は、確かに読みやすくて理解しやすいですね。

 けど、それだけだと、なんだか味気ない文章になる事もあります。


 要は、小説的表現を使っても、読みやすくてわかりやすければ良い。ということです。詩的描写とか魅せる描写というものは、有り体な描写と共存できます。ここら辺の表現については、ハイレベルな人から盗んで下さい。




 また、僕が物語を書く場合は一文一意を九割ぐらい。残りの文章は一文二意とか、少し崩した感じにしています。

 一文一意の表現はガチガチに想像を固定してしまうので、読者がある程度自由に想像する余地を残している。と、いうことです。


 そして、台詞ではあまり一文一意を使いません。一文一意で喋る人は稀ですから。なので、台詞に関しては、一文一意よりもキャラクターの個性や現実感を優先するようにしています。まあ、あまりに読み辛い時は手を加えますけど。





 では、ここで再び、小濱作品から例文を挙げます⬇️





 君が会いに来てくれた。

 絵本を届けに来てくれた。


 焦茶色の、手作りの絵本です。


 僕は泣きながら君に縋りついた。

 ひどく華奢な身体を抱きしめた。

 君を抱きしめる事が出来たのは、夢の中でさえ、初めてのことでした。


 僕はすぐに起き出してキーボードを叩いた。

 その時刻は午前五時五五分。


 何かが、変わり始めていると感じました。

 今まで、君について筆を執らなかったのは、書くのが悲し過ぎたから。

 でも僕は、心底思い知ったんだ。

 君がいかに大切なのか。



 ━━━━━━━


 一文一意で有体に書かれた文章です。

 まずは、上記の文章から小説的な要素を全て抜いてみましょう。⬇️





 君が会いに来た。

 絵本を届けに来た。


 焦茶色の、手作りの絵本だった。


 僕は泣きながら君に縋りついた。

 君の身体を抱きしめた。

 君を抱きしめたのは、夢の中でさえ、初めてのことだった。


 僕はすぐに起き出してキーボードを叩いた。

 その時刻は午前五時五五分。


 何かが、変わり始めていると思った。

 今まで、君について書かなかったのは、書くのが悲し過ぎたから。

 でも、僕は思い知った。

 君がとても大切だと。



 ━━━━━━━


 どこかで見た雰囲気の文章になりましたね。そう。この文体は、天さんの物にそっくりなのです。


 では逆に、今度は観念とか詩的表現とか、小説的要素を多めに付加してみましょう⬇️





 君が会いに来てくれた。

 君らしい、可愛らしい絵本を届けに来てくれた。


 それは焼きたてのパンみたいにカリッとした色調の、手作りの絵本だったね。


 僕は、子供みたいに泣きながら、君に縋りついた。

 ぐっと、華奢な身体を抱きしめた。君はあまりに柔らかく、壊れてしまいそうな気がしたよ。まるで綿菓子や氷菓のように、脆い手触りだった。

 なんて儚い感触だろう──。


 君を抱きしめることができたのは、夢の中でさえ初めてだった。本当に、僕は臆病だったよね。


 僕はすぐに起き出して、キーボードを叩いた。

 その時刻は午前五時五五分。


 何かが、変わり始めていると感じたんだ。運命っていうのかな?

 君が会いに来たことで、僕は自転車とレーシングカーのレースで、レーシングカーの勝利を確信するぐらい強く確信したんだ。


 今まで、君について筆を執らなかったのは、あまりにも書くのが悲し過ぎたから。心が壊れてしまうと思ったからだよ。

 でも、僕は心底思い知ったんだ。


 君がいかに大切なのかって。




 ━━━━━━━


 読んでみてどうでしょうか? 


 多くの事を語っている一方、本質的なことは何も変わっていません。

 ただ、メッセージの印象を強めたり弱めたり、また、読後感が少し変化した。

 そう感じ取れたら、小説的表現の効果が発揮された。と、いうことだと思います。

 ただし、今回はかなりやり過ぎなぐらい小説的表現を使ったので、読者によってはくどいとか、鼻に付くとか感じたかも? しれません。

 でしょうね。

 小説的表現も一長一短だな。そんな印象が妥当だと思います。


 前述した通り、小説的表現は物語を読みにくくしてしまう場合があります。なので、想いが強い時ほど冷静になって、程々の表現を心がけましょう。有り体な描写に勝る表現は、そうそうありません。どんな詩的な表現も、魅せる描写も、、という詩的さには勝てませんから。


 何事も、バランスが大事だということですね。


 で、次回も天さんへのアドバイスとなります。次は、天さんの作品からも例を挙げて解説します。


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