成人の犠

倭音

成人の犠


「それじゃ、フィーダの寮はこっちだから」

「うん、それじゃあ。また明日ね、ヴィアン」

「また明日、ルー」

 手を振ってヴィアンと別れて《イータ寮》の看板に向かう。ヴィアンとは学校を出て卒業したらこうして一緒に帰ることもなくなってしまうのだろうか。それはとても寂しいと思う。

 いつからだったろう。ヴィアンと過ごす時間が私にとって特別になったのは。もしかしたら、初めて会った時からそうだったのかもしれない。

 ヴィアンと出会ったのは前期中等教育の三年生、私たちが十四歳の時だった。たいていフィーダはフィーダ同士で仲良くするものだが、彼女は違っていた。イータのくせに病弱で腕力もなくて同族の輪から外れがちだった私の手を取って、屋上に連れ出してくれた時のことは今でも思い出せる。


「ね、何読んでるの」

「……」

 その日も私は、イータたちの狩りごっこに参加せず──入れてもらえず、教室の自分の席で独り読書にふけっていた。

 よもや私に話しかけているとは思わず、無視する形になってしまったのはちょっぴり恥ずかしい思い出だ。

「邪魔しちゃってごめんだけど、無視は悲しいな。ねえねえ」

 ふわり、と紅茶のようなな甘い香りが私の鼻をくすぐる。

肩をつつかれるまでに至ってようやく気付いた。マホガニー色と言うのだろうか、肩のあたりまで伸ばした、赤みがかった茶色の柔らかそうな髪。ウサギのようによく動く、黒に近い焦げ茶色の瞳。考えてみれば私が他人の顔を真正面から見たのはこれが初めてだったかもしれない。休み時間ずっと独りぼっちだった私は人の目を見ることがひどく苦手なのだが、彼女の目には私を惹きつける何かがあった。

「ああ、ごめん。私にだと思わなくて」

「あなたにだよ。いつも難しそうな本読んでるでしょ。でも凄くつまらなそう。わたしの見間違いならごめんね。でも、なんで」

「なんで……」

「どうしてつまらないのに読むのかな、って」

 正直なところ、今すぐに黙ってくれと言いたかった。見間違いなんかじゃない。彼女の指摘は当たっていて、私は決して好きで本を読んでいるのではなかった。ただ同じイータたちの輪に入れてもらえずに一人教室に取り残されているみじめさを「自分は狩りごっこなんて野蛮な遊びより読書の方が好きなのだ」「だから敢えて外に行かないのだ」と誰にともなく言い訳してごまかすために、発音さえよくわからない単語だらけの分厚い本を図書館で借りてきたのだった。難しそうな本の方が「らしさ」が出ると思ったから。

「別に……つまらなくなんか」

「嘘。わかるよ、そういうの。──ね、屋上行かない? せっかく晴れてるし」

 すっかり見透かされ、完全にペースに呑まれてまごついているうちに彼女の右手には私の本が収まっていて、一方の左手は宙にさまよった私の右手を掴んでいた。

 躊躇なく開け放たれた《立入禁止》の札がかかった扉の向こうは、嫌味なくらい綺麗な青空だった。

「ほら、サンドイッチ。売店のだけど」

「いいの……」

「もちろん。一人で食べてもしょうがないでしょ」

 何が「しょうがない」のだか私にはよくわからなかったけれど、開けた包み紙から放たれたサンドイッチの良い匂いは私がひどく空腹であったことを思い出させた。ありがたくいただいて一口、かぶりつく。ライ麦パンの黒っぽい感じの香ばしさに、旨味の強い鶏肉と水気をたっぷり含んだトマトの酸味がよく合っていた。少しぴりぴりするのは薄切りの玉ねぎか。

 私も売店のパンは何度か食べたことはあったが、いつも一人で食べている時はこんなに美味しいものだとは感じていなかった気がする。そう考えると今までずっと一人で摂ってきた私の昼食は、確かに「しょうがな」かったのかもしれない。一口目を飲み込むか飲み込まないかのうちに、「美味しい」という言葉が勝手に口をついていた。

「そう よかったあ。はい、牛乳も」

 そう言って白い液体の入ったガラス瓶も渡してくる。しっかり自分の分と二つ用意しているあたり、彼女の中で私と昼食を屋上で摂ることは確定事項だったらしい。こういうの確信犯って言うんだっけ。違ったかも。牛乳が甘い味がするのだという事もこの時初めて知った。以前に気まぐれで飲んでみた時以来、油粘土のような生臭みがするなんだか気持ちの悪い液体だと思っていてずっと苦手だったのだ。だいいち、生き物の血液が変質した分泌液なんて。

 私の味覚が成長とともに変化したのではなく、これもきっと今まで「しょうがな」かった部分の一つなのだろう。二人で飲んだらほら、こんなに美味しい。

「そういえば名前、まだ言ってなかったっけ。今更だけど名前も言わないで一方的に、ごめんね」

 それを謝罪するだけの良識はあったらしい。

「ヴィアン。わたしはヴィアン。よろしくね」

「ルー。よろしく」

「ふふ、知ってた。あなたの事、前から気になってたから」

 自分が認識していない相手から知らない間に視線を向けられているのは結構怖い。正直にそう伝えたら彼女──ヴィアンは笑いながらごめんごめんと謝った。

「わたし、あんまり同じフィーダの子たちと馴染めなくて。あなたもそうなんでしょ」

 今更隠し立てする意味もないだろう。

「うん。昔からそう。それもバレてたんだ」

「ま、ね。ところで前から聞いてみたかったんだけど、イータってさ、その……アレ、無いんだよね」

「アレ、って? ……ああ、そういう事。うん、無いよ」

 言いにくそうにヴィアンが言葉を濁したアレ──生殖器が、私達イータには存在しない。フィーダのように男女の性別の概念を持たないのだ。胸も膨らまなければ股間に弱点もなく、毎月不調を訴えたりもしないし、「コイのヤマイ」なる思春期に入ったフィーダ特有の妙な精神疾患にも罹らない。フラットで無駄のない、実にすっきりとしたカラダ。いい加減初等課程の子供じゃあるまいし、ではどうやってイータは「増える」のか気にはなるが、先生も親もそれに触れようとすると「いずれ教えるから」の一点張りでさっぱり教えてくれないのだ。

「だからなのかな。ラクなんだよね、話してて。フィーダの子たちって、どの男子とどの女子が付き合ってるだの誰がどこまでシただの、レンアイの話ばっかりでさ。どうにもそういうの苦手で避けてたら、いつの間にか仲間外れになっちゃってた。イータって男女の区別が無いからそういう話、しないでしょ」

「確かに、しないね」

 異性の話は確かにしたことがない。そういう意味での面倒は私たちイータにはない。

「ときどき、ちょっと羨ましくなっちゃうな」

 けれど。

「……イータだってそんなに楽でもないよ。みんな力が強いから、私みたいにひ弱だと仲間に入れてもらえなくて」

 私だって寂しいんだよ、という心の声は飲み込んで。

「そうなの イータの子たちって力が強いぶん、なんとなく他人に優しいイメージあったからちょっと意外かも。仲間外れとか、するのね」

「ううん、それも優しさなんだよ。ほら、イータがよくする狩りごっこって飛び掛かったり押し倒したりするから、うっかりケガさせないようにって。言葉ではあんまり言ってくれないけどね。でもなんとなくわかる」

「向こうは気遣ってくれてるつもりでも、その優しさが逆に……ってね。わかるよ、わたしも」

 本当にヴィアンは察しが良い。あまり他人と話すのが得意でない私にとってこうして自分の内面に踏み込まれたのは初めての経験で、やっぱりちょっと心臓がドキドキする。ただそれは決して不快ではなく、むしろ買ったばかりの靴を履いて玄関のドアを開ける時のような、慣れない感覚への不安と、それに倍する高揚感がないまぜになったような気持ちだった。


     ***


 ……もしもこの世に「ひとを好きになっちゃいけない人間」がいるとしたら、それはわたしの事だと思う。

 それを思い知らされたのは――「彼女」に出会ったのは、初等課程の頃だった。

 わたしの間の抜けたような明るい茶色と全然違う、しっとりと濡れたように艶のある長い黒髪。陶器のお人形のように色白でほっそりとした手足。いつもどこか遠く……遥か雲の向こうの星空でも眺めているような瞳。一目見た時から心惹かれるものを感じていたけれど、休み時間も放課後も彼女はいつもふいとどこかに行ってしまってなかなか話しかけられずにいた。いや、教室にいたとして、果たして彼女に話しかけることができただろうか。廊下ですれ違えばクラスメイトとして微笑んで挨拶はしてくれるし、授業中に落とした鉛筆だって拾ってくれる。けれどあのいつも遥か遠くを見つめる瞳のせいか、彼女はどこか人を寄せ付けない、バラの花を覆うガラスケースのような空気を身にまとっているようにわたしには思えた。

 そんなふうに感じていたのは多分わたしだけじゃなかった。クラスの男の子たちが彼女に心を寄せつつも互いに牽制し合うばかりで結局何もできないままでいたのは、「そういうの」に疎いわたしでもなんとなく察しがついた。

 逆に女の子たちの間では、彼女はやや浮いていた。ただしそれは決して悪い意味でではない。はじめのうちこそ彼女を自分たちの仲良しグループに引き入れようとしていた子達もいたけれど、彼女はどの誘いもやんわりと断っていた。やがて彼女に声を掛ける子は居なくなっていたが本人は気にするそぶりもなく、かといってそうしたグループに入り損ねた子にありがちないじめを受ける様子も一向になかった。……わたしと違って。

 勉強が苦手だから? 運動神経が無いから? 彼女みたいに可愛くないから? 理由を考えたってよくわからないし、そもそもはみ出し者をいじめるのに理由なんか無くて、ただ生物の本能的なモノだったのかもしれない。ともかく、当時のわたしは子供の間にも厳然と社会システムが存在し、そこからあぶれた者は子供の社会で生きてはいけないという事をちゃんと理解していなかった。特定のグループに属して上手くやっていく自信がなくて、そういう人間関係のごたごたに巻き込まれるくらいならどこにも属さずにどの子とも程よく仲良くしたいと都合のいいことを考えていたのだ。

 別に暴力を振るわれたとか持ち物を隠されたとか、わかりやすく何かをされたわけじゃない。ただ「いないもの」として扱われた。いつからだったか、わたしが話しかけても誰も応えてくれず、うっかり目が合うと気まずそうに視線を逸らされるようになっていた。

 最初はそれが悲しくて寂しくて、躍起になって話しかけてみたこともあった。けれど無駄だった。皆もわかっていたのだ。一言でもわたしに応じてしまえば、その瞬間を誰かに見られでもしたら、次は「自分の番」だと。

 いつしかわたしは諦めて、すっかりピラミッドの一番下に落ち着いてしまった。改めて下から見上げると、この人間でできたピラミッドの構造が以前より良くわかる。クラスを束ねる一人二人の「頂点」。いつも頂点と仲良くして、誕生日会に呼ばれたの呼ばれないので一喜一憂する数人の「中間層」。さらにその下で、曖昧な笑顔を浮かべつつときおり相槌を打って話に加わっている振りをしている「下層」。そんなピラミッドに埋められて墓穴でゆっくりと朽ちていく死体が、わたしだ。

 では「彼女」はというと、例えるなら彼女は砂漠のピラミッドを雲の上から蒼く照らす月だった。どれだけ石を積み上げたとしても誰ひとり手は届かず、そもそも手に入れようと思うことが滑稽に思えるような、そんな存在。人間は愚かにも月に手を伸ばそうとするけれど、きっと月の方ではそんな人間の営みなど意にも介さず、見下ろしているという意識すらないままただ「そこに在る」だけなのだろう。

 人間関係を断たれ、良い加減居心地の良さすら感じ始めた冷たい墓穴から眺める月は他の何よりも輝いて見えた。同じ孤独な存在なのに、わたしと彼女でどうしてこんなにも違うのだろう。

 我ながら馬鹿みたいとは思いつつ、どうしても月に手を伸ばしてみたい衝動に駆られたわたしはある日の放課後、いつも早々にいなくなってしまう彼女の後をついていってみた。そういえば皆に無視されるようになってから、彼女に話しかけてみたことは一度も無かったと思い立ったのだ。

 終業のベルが鳴ってすぐ荷物をまとめて教室を出ていく彼女の背を追いかける。別に悪いことをしているわけでもないのに、なんだか見つかってはいけない気がしてわざと少し離れたところからついていく。階段を降りてそのまま帰るのかと思いきや、彼女は先生たちのいる職員室に入っていった。先生に用事でも頼まれたのかと訝しんでいたら、一分もしないうちに手に鍵を持った彼女が出てきた。そのまま元来た方向……つまりわたしの居る方へ戻ってくるものだから、慌ててわたしは階段の影に隠れる羽目になった。自分でもなんで隠れているのかわからないまま、早鐘を打つ心臓が口から飛び出そうなのを必死に抑え込んでいた。そのまま彼女の足音は階段を上っていく。見つからないようにまる一階分空けて、足音を頼りにわたしも上る。足音が三階で止まった。鍵を開け、扉が開く音。三階の階段近くで鍵のかかっている場所と言えば……音楽室だ。

 少しの静寂があってから、滑らかなピアノの旋律がかすかに聞こえてきた。彼女が弾いているのだ。

 もっとよく聞いてみたいとガラスの嵌まった音楽室の扉に近寄って、そっと中の様子を覗き見た。


 ──見渡す限りの花畑が広がっている。


 そう、幻視した。

 こちらに背を向けて座る彼女の細い指先が鍵盤に触れるたびに、鍵盤と連動してハンマーが弦を叩き、弦の振動が大気に伝わり、開け放ったグランドピアノの天板にぶつかる。そうして生まれた音の粒が花の一輪になり、小川の流れになり、蝶になって飛び交っていた。

 花園の中心で、彼女は実に楽しげに音を紡ぎ続けている。

 幻想の花園の中で、彼女はたった一人の「人間」だった。

 私はこの時初めて彼女をヒトとして認識した気がする。

 今までフィーダとイータ以上に別の生き物のように思っていた彼女が、この瞬間だけ私と同じ普通のフィーダの女の子に見えた。

 ──かた。

 見とれるあまり扉に近づきすぎて、うっかり靴の先が触れてしまって小さく音を立ててしまった。しまった、と思ったが後の祭りだ。ピアノの音が止み、彼女がこちらに振り向いた。


 ――ガラス越しに彼女と目が合う。


 星の海まで見通しそうな視線が、わたしを見据えている。見つかったら死んでしまうくらいに思っていたが、彼女の目からは咎めるような感情は伝わってこない。猫が初めて見る人間の匂いを嗅ぐときに少し首をかしげてこちらに興味を示すような、好奇心を孕んだ目だった。その目に導かれるようにして、わたしはそっと扉を開けて夢遊病患者のようにふらふらと音楽室に入った。

「あの、ごめん、なさい。違うの、わたし、すぐ出てくから……」

「わざわざ入ったのだし、もう少しくらいここに居たら? 気にしないよ、私」

「え、あ……返事。して、くれるんだ」

「当たり前じゃない」

 わたしにとっては全然当たり前なんかじゃなかった。人と目を合わせて、しかも言葉を交わしてもらうのなんか何年ぶりだっけ。ずっと何も感じない死体のようだった心がじわりと溶けていくのがわかる。人の声とは、誰かに意識を向けてもらえるのは、なんて温かい事なのだろう。

 ずっと忘れたままだった涙が溢れてくる。

 その場にへたり込んでしまったわたしに、椅子から立ち上がって彼女が近づいてくる。

 ふわり、と。

 抱きしめられた。

「え」

びっくりして心臓が跳ね上がる。

 少し甘い、紅茶みたいな香りに包まれた。これが彼女。わたしと違う温度。違う脈拍。違う匂い。

「人の体温って安心するって言うから。嫌だった?」

 ……嫌なわけがない。こんなに温かいのに。とん、とん、と背中を優しく叩かれて、跳ね上がった心臓がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。

「良いのよ、泣いて。ずっと辛かったのね。私にはあなたの辛さはわかってあげられないけれど、ここに居たら良いわ。この部屋には辛い事なんか無いから」

 おずおずと、わたしも彼女の背中に手を回してみる。──わたしが触っても嫌がられないことに驚いてしまう自分自身が本当に嫌になる。他のみんなはうっかりわたしに触れようものなら、台所でネズミを見たような顔をして走って手を洗いに行くのに。

「あなたの髪、明るくて素敵な色」

「……初めて言われた。こんな……馬鹿みたいな色なのに」

「私は好きよ。ね、もっと伸ばしてみたらどうかしら。きっと似合うわ」

 わたしを抱きしめて優しい言葉を紡ぎながら、彼女の目は私ではなく遥か遠くを見据え、依然として人を寄せ付けない雰囲気を帯びていた。彼女としては、自分だけの花園に迷い込んだ闖入者をおとなしくさせておくためだったのかもしれない。そう思ってしまうほど、温かな体温とは裏腹に彼女の言葉からはどこか他人事のような感じを受けた。それでも、敢えてわざわざわたしを見たうえで悪意を持って目を逸らす子たちなんかより、初めからわたしに目を向けない彼女の優しい冷たさが心地よかった。


 この日からわたしの居場所は音楽室になった。放課後になるとしばらく教室で時間をつぶし、彼女が教室を出て少し経ってからわたしも音楽室に向かう。わたしと一緒にいることで彼女に何か迷惑がかかってはいけないから。

 そうして季節がいくつか巡るうちに、わたしは彼女の事が好きになってしまっていた。

 同性なのに。 

 友達としてではなく、恋愛感情という意味で。


 ──あの子が、欲しい


 普通は異性に対して抱くらしいその濁った感情を、抱いてしまった。

 きっと彼女がわたしを好きになってくれることはない。けれどそれでいいのだ。誰かを好きになるということは、誰かを嫌いにもなるということだから。あの誰も見ずどこか遠くを見つめる瞳の彼女ならきっと、そんな好きとか嫌いとかごちゃごちゃとした気持ちの悪い人間じみた感情なんかとは無縁だろうから。

 初等課程も高学年になれば、ことに女子の間では誰が誰を好きだの付き合ってるだのという話もそう珍しくなくなってくる。面白いことにみんな話すのは他人の事ばかりで、自分の事を聞かれると途端に顔を赤らめて一向に話そうとしない。わたしもその点では他の子たちと同じように、心に秘めた恋心を言い出せずにいた。でもある日音楽室で彼女とそんな話をしているとき、彼女がさらりと言い放った「誰かを好きになるって恥ずかしいことじゃないと思うよ。とっても素敵な事じゃない。あなたも誰か好きな人が居るのなら、思い切って言ってみたら良いわ」という言葉に、救われた気がした。


 ある日の放課後。いつも通り至福のひと時を過ごしてから音楽室を出たところで「恥ずかしくない、恥ずかしくない」と自分に言い聞かせつつ、なけなしの勇気を振り絞って彼女に告白した。

 ……そして、あっさり失恋した。

 彼女は少し驚いた様子で。戸惑い顔になって。そしてとても、とても困った表情で「ありがとう」と言って。

 その一言だけで察しはついた。目頭がじわりと熱くなる。……泣くもんか。

 彼女の言葉は続いた。

「気持ちは嬉しいのだけれど……。あのね、私、……好きな人ができたの」

 はじめわたしはその言葉の意味がよく理解できなかった。すきなひと 彼女が そんなのダメだ。だって彼女は。そんな、普通の人間みたいなこと。

「ごめんなさい。だからあなたの気持ちには応えてあげられないわ」

 その謝罪はもしかしたら、彼女の優しさだったのかもしれない。本当に好きな相手がいたのか、それとも出来るだけわたしを傷つけずに断ろうとしての言葉だったのかはわからない。今となってはもう知るよしも無いけれど。

 でもその言葉は、わたしをさらに追い詰めた。


 ──ちがう。そんなのあなたじゃない


 ギリギリのところでこらえていた胸の痛みと涙が堰を切ってあふれ出し、行き場を失っていたわたしの敵意かなしみは明確に形を持って、よりにもよって彼女に向いた。


 ──ひとをすきになるなんて


 頭がぼんやりする。何を考えているのか、自分でもよくわからない。


 ──そんなの、だめだ


 わたしの目の前に彼女の髪とスカートがぶわ、と花のように広がっていく。何かを不思議がるような彼女の目は、まっすぐこちらを見据えていた。


 ──ああ、はじめてわたしをみてくれた


 初めて彼女と目が合った、と思った直後。ぐしゃりと鈍い音がして、彼女は壊れたマリオネットのように手足をばらばらな方向に投げ出して階段の踊り場に倒れていた。……わたしの両手はまっすぐ前に突き出されている。


 ──だれがこんなひどいことをしたのだろう? わたし? うそ。あか。血。


 わたしが彼女を階段から突き落としたのだ、とゆっくりと頭が理解していく。

 彼女の顔のあたりからゆっくりと床に広がり始めた赤の色を、いまさらのように認識する。それは最近になって毎月見るようになった自分のどす黒くて粘っこい血の色よりずっと、ずっと鮮やかに見えて、


 ──きれい




 それからルーと出会うまでの二年くらいの記憶が、どうにもぼんやりとしていてはっきりとしない。

 確か何日か学校には行かなかったと思う。

 そして何日かが過ぎた頃、家に突然やってきた知らない大人──後で知ったが、彼はサヴァラン先生と言ってその後六年間わたしのクラスの担任をしている──に母のもとから引き離され、「今日からはここで『皆』と暮らすのですよ」と言われて「寮」での生活が始まり、翌日からはそれまでと違う学校に通うことになった。彼女があの後どうなったのかは誰も教えてくれなかった。母と離れての生活ははじめのうち辛かったが、これは彼女を突き飛ばした──殺してしまったわたしへの罰なのだと気が付いてからは辛さを感じることは無くなった。

 「寮」にはわたしの他にも同年代の子たちがイータ・フィーダの区別なく暮らしていたが、皆一様にどこか陰のある目をしていた。怖くて聞くことはできなかったが、きっと皆わたしと似たような境遇だったのだろう。中等教育課程に上がるとき、イータとフィーダ、そしてわたし達フィーダはさらに男女で、それぞれ別々の寮に分けられた。

 普通は恋愛感情というモノは異性に対して抱くもので、わたしのそれはおかしいのだ、間違っているのだということも寮で暮らすうちに自然と学んだ。恋愛というものは交尾をして子を残したいという本能……性欲から生まれることも、わたしの愛は普通の人にはとうてい受け入れられず、ひどく気持ちが悪く感じるものらしいということも。

 わたしは、ひとを好きになってはいけないのだ。


 そう、思おうとしていたのに。


 初めて「かれ」を──ルーを見た時、ただ「綺麗だ」と思った。外見の話ではない。かつてわたしが抱いたような醜い性愛を持たない、イータという種族。その中でもなお一人浮いて見えるルーは、姿かたちは違えどどこかわたしに「あの子」を思い出させた。……けれど彼女とは決定的に何かが違う。

 ──そっか、寂しそうなんだ。

 気付いてしまった。手に持った本を読みふけっている振りをしていてもうっすらと漂うその寂しさは、きっと昔のわたしと同じだ。

 ──なら、わたしがルーにとっての「あの子」になってあげる。わたしが彼女に救われたように、かれの寂しさをわたしが救ってあげよう。そうしたら彼女もきっと、わたしを許してくれるかもしれないし。ならまずは、こっちから話しかけなくちゃ。昔のわたしのままじゃダメだ。そうだ、明るく振舞ってみよう。彼女が褒めてくれたこの髪の色にふさわしいように。


「ね、何読んでるの」


     ***


「……図のようにイータの幼生はお腹に栄養の入った袋、臍嚢を抱えて生まれてきます。これは外性器を持たず母乳の出ないイータならではの特性で……」

 サヴァラン先生の話をぼんやりと耳に入れながら、ちらりとヴィアンの方を見やる。

 十四歳の時に知り合った私たちももう十八歳。まだ中等課程の途中ではあるけれど、世間的にはもう成人と見なされる歳だ。相変わらず人付き合いが苦手な私にとってとてもありがたいことに、ヴィアンはいまだに私の良い友人でいてくれている。私と友人でいることで彼女に何かメリットがあるとは思えないのに。

 イータの私にはフィーダの女子の美醜はあまりよくわからないけれど、それでもヴィアンは綺麗だと思う。男の子にお付き合いを申し込まれたことだって、一度や二度じゃないらしい。けれどみんな断ってしまったのだそうだ。

「……フィーダと比べて体力に優れるイータは、後期中等教育課程の修了後は軍の士官学校への進学が推奨されており……」

 そもそも彼らフィーダにとって、「付き合う」とはどういうことなのだろう。フィーダはつがいを作って交尾をするための前段階としてその過程を踏むとは聞いている。フィーダの交尾は強い快感を伴うらしいと話に聞いたことはあるけれど、いろいろな意味でのリスクを抱え込んででもしたいほどなのだろうか。なんとなく、浅ましいとすら感じる。

 交尾の本能に支配された眼でヴィアンを見る男子たちの眼差しが、最近どうも気になってしまう。ヴィアン自身はそういう視線を気にしていない様子だけど、私はなんとなく不愉快に感じる。特に自分と関わることのない他人に対してそんな不快感を得たのは初めてだ。他人が他人に向ける感情に気が付いたのも。本人が気にしていないものを、それこそ他人の私が気にするのはお門違いな気はするけれど。なんなのだろう 近頃ヴィアンと居るとよく感じる、この苛立つような、お腹の底が痛くなるような、でも決して嫌ではないこの感覚は。一番近い感覚を挙げるなら……空腹による飢え。

 思い返してみれば、この感覚を覚えるようになったのはこの間、ヴィアンと唇を重ねた時からかもしれない。あの時は悪いことをしてしまった。


 いつものように《立入禁止》の札を無視してヴィアンと二人で昼食を摂る屋上。

 いつもなら他愛もない雑談をするところだけれど、その日は違った。以前私にイータの性器のことを訊いた時のように、ヴィアンは少し思いつめたような顔をしていた。

「どうしたの、ヴィアン? 何か悩んでる?」

「……ばれちゃうか」

「四年も一緒にいたら、ね。私には言い難いこと?」

「ううん。むしろあなたに──ルーにしか言えないこと。……あのね、ルー。……わたしと、付き合って、くれませんか?」

 驚いた。付き合う、とはフィーダの異性同士でするものだと思っていたけれど。

「ごめん、変だよねこんなの。わたしはフィーダで、あなたはイータなのに」

「……いいよ。ヴィアンが私でいいのなら。あの日屋上に連れ出してくれたこと、ずっと感謝してたし」

 肩の荷が下りたような表情のヴィアンが、こちらに顔を向けて。

「……ん」

 ヴィアンの方から、そっと唇を合わせてきた。そのまま舌を私の口の中にぬるりと滑り込ませてくる。いきなりのことで少しびっくりはしたものの、意外と嫌いな感触ではない気がする……どころか、私の脳は舌と舌が絡むくすぐったさを、「快感」として判別していた。私の口内にヴィアンの唾液が流れ込んでくる……甘い。もっと欲しい。


 ──我慢、できない


 「何を」我慢するのかという目的語が抜け落ちたまま、お腹の底から未知の衝動がのどにせりあがって来る。衝動に突き動かされるまま、自分の口の中に入ったままのヴィアンの舌に犬歯を立てて──

「痛ッ……」

 声を上げたヴィアンが私から離れて口元を抑える。つつ、と抑えた口から血が滴る。

「ごめん…… 初めてだったから……」

「……良いの、大丈夫。そんなに傷深くなさそうだし。仕方ないよ」

 大丈夫、とは言われたものの、すっかり「そういう」雰囲気ではなくなってしまい、その場はひとまずお開きになった。結局私は彼女に怪我をさせてしまったことをちゃんと謝らないままだ。

 あの時感じた衝動は、ヴィアンと会うたびに日に日に大きくなっている気がする。

 私はどうしてしまったのだろう……? こんど担任のサヴァラン先生に、訊いてみた方が良いだろうか。


「……それはね、ルー君。君が大人になりつつあるという証なんです」

 放課後。皆が下校して、誰もいなくなった教室。今日はヴィアンにも先に帰ってもらった。サヴァラン先生の声だけが空っぽの教室にやけに響いて聞こえる。

「……そうですね。そろそろ折を見て君達にも一人ずつお話しなくてはいけない頃でした。僕の想定より少々早かったようです。きっと驚いたことでしょう、申し訳ない」

「あの、私、ヴィアンが……その」

「ヴィアン君が、何でしょうか? しっかり自分の言葉で言ってみてください。大丈夫ですから」

「ヴィアンが……美味しそうに思えたんです……」

「そう、そうでしょうね。授業の中でイータとフィーダの違いはお教えしましたね。ただ、僕は一つ教えていないことがありました。君も薄々疑問に感じていたかもしれません。『イータはどうやって増えるのか』というお話です」

「そ、れは」

「きっともう本能では気付いているのでしょう。そう。君がヴィアン君に対して抱いたその衝動は紛れもなく『性欲』です。ただ、イータには性器が存在しない。当然、繁殖のための性欲の在り方も、フィーダとは異なってくるのです。ではどうするか」

「……食べ……る……?」

「その通りです、ルー君。イータにとっての繁殖欲求とはすなわち、食欲なのです」

 授業と全く同じ口調で、落ち着いた優しい声でこんこんと説明するサヴァラン先生。

「でも、だったら、私は」

「ええ、君はいつかヴィアン君を捕食します。本能に従い、恋をした相手のフィーダを捕食することでイータの体内にはフィーダの女性と同じように子宮が形成され、だいたい二十八週間の妊娠期間を経て子を産むのです。イータは子を産んで初めて『成人』とみなされ、士官学校に入り、軍人として国のためにその力を尽くす。それがルールなのです」

「じゃあ、私以外の皆も……」

「その通りです。そもそもこの学校には、普通の社会では適合できないとみなされたフィーダが、イータのつがいとなるための『餌』として集められています。じきにイータの皆さんは繁殖相手を選び、捕食し、子を成すでしょう。そうして卒業していき、成人を迎える。ここは、そのための学校ですから」

「ヴィアンを食べる──私が、殺す……」

「イータにとって、大人になるとはそういうことなんです。これは一種の儀式なのです。喰らい、産み、育て、社会に尽くす。そうして命を次に繋いでいく。イータは軍人として国を守り、フィーダは生産者として国を支える。この国においてフィーダとイータはそうして役割分担をして社会を築いているのです」


 すっかり暗くなった帰り道。先に帰ったとばかり思っていたヴィアンは、校門のところでまだ私を待ってくれていた。

 伝えなくちゃ。

 私はあなたが大好きで。

 でも私の愛はすごく罪深いものらしくて。

 もう、お腹の疼きが我慢できなくなっていて。

 ──だから


「待っててくれてありがとう」

「良いよ。ルーと一緒にいたいから」

「あのね、ヴィアンに言わなくちゃいけないことがあるんだ」

「うん 何でも言って」

「ありがとう。あのね」




「いただきます」

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