2-1

「~~♪」


 私の知らない歌を口ずさみながら、彼は水を掬い上げては落とすことを繰り返していた。

 先程は余裕がなくて気付かなかったが、彼はジーンズにパーカーという至って普通の格好のままで、濡れることも気にしていないようだった。


 彼は時折、子供がカメラで写真を撮るマネをする時のように、指で四角を作って世界を覗いた。

 その時ばかりは、彼の無邪気そうに開いた瞳の奥が、どこか叡智えいちたたえたように閃くのを見た。


 見た目に不釣り合いなその表情が、私の背筋をゾクリとさせて、またもう一枚とフィルムの残数が削られていく。

 今この瞬間だけで、持ってきたフィルムが切れてしまうような気がしていた。一枚も撮り逃がしたくなかった。



 どうしてか、こんなにも彼に惹かれていた。



 比較的整った顔立ちだが、特別美しいワケではない。どちらかと言えばスラリとしたモデル体型だが、私は理想的なモデルを求めてはいない。

 何が私をき動かす?どうして彼を撮ることを止められずにいる?


 ああ、前にもこんなことがあった。人生のうちで、数えるくらいだが、確かに。

 ここがターニング・ポイントだ。私の人生を、写真家としての生を、進めてくれる何かが彼にはある。



「決まった」



 そう呟いて、彼は腕を下ろした。満足そうに目を細めて、今初めて太陽の存在に気付いたかのように、眩しそうな顔をした。


「あれ?もしかして、ずっと撮ってたの?」

「……ああ」


 彼はパチパチと目を瞬かせて、次の瞬間カラリと笑った。


「アンタも、物好きな人だね。こんな朝早くから、野郎やろうの写真なんか撮って」

「君も、十分物好きだとは思うがな」


「はは、そーだね!こんな朝っぱらから、服のまんま海でずぶ濡れになってるヤツもいないか」


 彼は靴を履いたまま海にかっていたようで、海水でぐしゃぐしゃになった靴を脱ぐと、器用にクルクルと紐で結び合わせてしまった。




「アンタは……お客さん?あんまり観光しに来たって感じじゃないけど。何もないでしょ、ここ」

「まあ、それほど歩き回ってはいないが……何も無さそうだな」


「あはっ、アンタもハッキリ言うね」

「君が言ったんだろう。それに、観光をしに来たワケじゃないから、何もなくても特に問題はないよ」


「ふうん、それじゃあ、ますます何しに来たの」

「写真を撮りに」


 彼は大きな瞳をパチクリさせて、呆気あっけに取られたような声で言った。


「写真?こんなところで?」

「別に、狙って来たんじゃない。海が綺麗だったから、降りてみただけだ」


「おっ、いいね。その『自由人』って感じ」

「君は、自由ではないのか?」


 彼はこの世の余計な全てのものから自由な存在に見えた。少なくとも、ついさっきまでは自由そのもののようだと感じていた。


「俺ほど不自由で自由なヤツは、少なくともこのあたりにいないだろうね」

「……よく、わからんな」


「分からなくて、良いよ。生きていくのに、何も困らない。そうでしょ?」

「ああ」


 私の頷きに、彼は『よくできました』とでも言うような顔で微笑ほほえんだ。


「さて、と。アンタは暫くここにいるの?それとも、こんな辺鄙へんぴな村に用はない?」

「暫く滞在するよ」


 考えるまでもなかった。私はこの青年との出会いを、このままに終わらせてしまう気はなかった。


「そっか。じゃあ、やっぱりお客さんだね。付いて来て。旅館?民宿?に連れて行ってあげる」


 軽やかにトントンと石の上を渡り始めた彼を、慌てて追いかける。





「俺は水島みずしま瀬那せな。セナでいいよ。アンタは?」

仁科にしな克幸かつゆきだ……君は旅館の息子か何かなのか?」


 彼は私を振り返って、少しだけ意外そうな顔をした。


「俺が?まさか。そう見える?」


 私は少しだけ考えて首を振った。


「いいや、全く」

「だよね。それに、旅館の息子か何かなら、もう少しお客さんに対して丁寧な対応をすると思うんだよね」


「まあ、そうだろうな。あんなにハッキリ『何もない』とも言わないだろうし」

「んーそれはどうだろう。だってここ、海以外は本当に何もないんだ。ウソを言ったって仕方ないでしょう?すぐにバレるようなつまらないウソは、ここにいる人たちはかないよ」


「そういうものか」

「そういうものだよ」


 元きた道を、危なげない先導に従って進む。私に合わせてくれているつもりなのか、ひどくゆったりした歩みだった。


「ここの住民は仲が良いのか?」

「まあ、それなり、かな。他のトコがどうだか知らないけど。例によって少子高齢化に過疎化で、子供なんて殆どいないし、じいちゃん・ばあちゃんばっかりなんだ。だから、必然的にみんなで助け合わなきゃいけないってトコかな」


 まあ、これも近所のじいちゃんの受け売りなんだけど、と少し照れ臭そうに彼は付け加えた。


「そうか」


 彼は何故、ここに留まっているのだろう。若者の居なくなってしまった村で、高校どころか中学の存在すら怪しい村で、何を想い独り残っているのだろうか。



 やりたいことは、なかったのか。家族がここにいるから、だろうか。



 まだ彼の名前しか知らない私には、想像も及ばないが。






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