1-3


 デフォルメされた案内板から想像するよりも、ずっと勾配こうばいのキツい坂を延々と降り続け、杉林の壁にも飽きてきた頃。

 電車から見えたあの蒼が、パッと視界に飛び込んできた。



 初夏の太陽がキラキラと海面を照らして、穏やかなさざなみの押し寄せる音が、重なり合って耳に心地良かった。

 夏に入ったとは言え、まだ水に入って遊ぶには早い時期だからか、それとも単に人がいないだけなのか、ひどく静かな朝だった。




 大きくて舗装された綺麗な道路が走っていた。海岸線に沿って走るそれは、優美で複雑なカーブを描いていた。その先に海へと降りる場所がある。

 備え付けられた石造りの階段をトントンと降り、続く岩場の上を慎重に歩く。途中で靴を脱いで、濡れないところに置いてしまった。


 ところどころ岩肌が迫り出していて、自然の力で長い時間をかけて削られた独特のリズムを持つ岩壁に、何度かシャッターを切らされた。


 暫く歩いていると潮が先程よりも満ちてきていることに気付き、そう言えば満潮の時刻はいつだったかと思う。


 そろそろ一度引き返そうかと考えながら、次の角を曲がったその刹那せつなだった。




 気付いた時には、シャッターを切っていた。






 すっと伸びた背筋に、天を仰ぐ横顔。陽の光に溶けそうな飴色の髪から、飛沫しぶきが散った。

 中空に差し伸べた手から、零れるように水が滴り落ち、その腕を頬を濡らした。まばたきもせずに、ただそれを見詰めていた。


 まるで魚だと、そう思った。そう錯覚する程に『彼』は何処どこまでも透き通っていて、現実味を帯びていなかった。

 そのまま宙空へ溶けてしまいそうな、淡い肌を水滴が滑り落ちて行く。昇り始めた朝陽に照らされて、その一粒一粒がキラキラと光って見える。


 長く伏せられた睫毛まつげから、なみだのような雫が頬を流れ、私はもう一度ファインダーを覗き込むのも忘れて魅入っていた。

 それは写真家として生きて来て、初めて抱いた衝動だった。



 『映してはいけない』と。



 例えどれだけなじられようと、様々なものをこのレンズ越しに残して来たのに。


 決して派手な顔立ちではないのに、何故か惹きつけられる横顔。

 子供と大人の、未分化な場所で揺蕩たゆたっているかのような、そんな不安定で危うい美しさ。



 ふと『彼』が振り返る。ほとんど反射的にもう一度シャッターを切る。



 撮った写真の空白にこそ、彼の息遣いがあるような気がして苦い気持ちになる。


 突然見知らぬおっさんに許可なく写真を撮られたら、普通は怒るはずなのでいつものように覚悟して彼に視線を向けると、彼は小さく首を傾げた。







「なんで、俺のこと撮ったの?」


 そう、何かが抜け落ちているかのような、透明な声で私に問いかけた。


「きれい、だったから」


 私はその声に呑まれながら、何とかそんなお粗末な答えを返した。


「俺が?」


 私が子供みたいに頷くと、彼は苦笑して頭を掻いた。妙に大人びたその表情に、心臓がどくりと跳ねた。



「良いよ。好きなだけ、撮りな。俺はいつも通り、好き勝手やってるから」


 そう言って、彼は本当に何事も無かったかのように海の方へ向き直って、またサラサラと水と戯れ始めた。

 カメラを向けられて、これだけ自然体で居られる人間も珍しいものだ、と。


 そんな事を思いながら、彼の言葉通り好きなだけ撮る事にして、今一度カメラを覗き込んだ。

 ファインダー越しに見た四角い世界の中で、彼がまた水をすくい上げ、陽に掲げて眩しそうに目を細めた。



 それが、どうしようもなく崇高なもののように感じられて。


 そして、私はまたシャッターチャンスを逃した。




 彼と私の、生涯忘れることの許されない、短い夏の始まりだった。









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