第13話 庭へ
引き続きリビングスペースで、環とマディリエは手帳に言葉を書きこんでいた。
「止まれ、がこれ」
「はい。止まれですね」
マディリエの文字の下に、環が日本語で書き込む。言葉が通じない時間があるため、緊急時のために必要な言葉を優先して覚えたらどうか、とギムレストから提案があったのだ。
言葉が通じるうちに互いの言語で書き込んで、時間切れになったら、今度は手帳を見ながら発音の練習をすることになっている。
そのギムレストは環の質問が終わると出て行った。なんでも、解析とやらで忙しいのだという。
翻訳時間が限られていることに関しては、遠からず解消するということだった。翻訳機能が永続したアイテムを取り寄せているらしい。いつ帰れるか見当もつかないので、すごく助かる。
「逃げろ、がこれね」
「はい。逃げろ、と」
こういう非日常的な言葉を書いていると、改めて自分が予断を許さない状況に置かれているのだと感じる。
カイラムは参加する気はないようで、窓にもたれて外を見下ろしていた。マディリエが声をかける。
「カイ、外はどう?」
「んー、まだやめておいた方がいいな。何人か庭に出てる」
「そう。なら昼過ぎまで待った方が良さそうね」
「だな」
「タマキ、庭に出るのはもう少し後になるわ」
「わかりました。いつでも構いません」
「それじゃ次は、……部屋に戻れ、にしましょうか。これが部屋で、こっちが戻れ、ね」
「はい……」
結構な詰め込み作業だが、時間に限りがあるので仕方がない。マディリエが思いつく限りの言葉を、環はせっせと書き込んでいった。しばらくたったころ、やっとのことでマディリエからストップがかかる。
「ひとまずはこんなものかしら。休憩にしましょ」
「そうですね」
環は安堵の息を吐き、シャーペンを置いた。いつの間にかカウチソファでだらしなく寝そべっていたカイラムが、うーんと長い手足を伸ばす。
「うおー、終わったー。あー腹が減ったな」
環が言いたかったことを、なぜか不参加のカイラムが代弁してくれた。
「あんたはなにもしてないじゃない」
「待ってるだけでも仕事なんだよなー」
「よく言うわ。馬の訓練はあんたが働きなさいよ」
「はいよー」
カイラムは気楽に請け負って、勢いをつけて「よいせ」と体を起こす。環も疲れた。特に今日は頭を使っているので脳に糖分が欲しい。そこまで考えて思い出したことがあった。
「あ、そういえば」
環はショルダーバッグを開いて中を探る。
「どうしたの?」
マディリエの問いかけに、コンビニの袋からチョコレートの箱を取り出した。小さい真四角の板状のチョコレートが三十枚近く個包装されているものである。
この世界に来る直前で寄ったコンビニで、会社用のおやつを買っていたのだ。朝はいつも時間がないので、おやつ関係は時間の取れる夜にじっくり選んで買っている。チョコレートの他に残業の友の栄養ドリンクも購入している。どちらもデスクに常備してある必須アイテムである。会社の敷地内にあるコンビニではしばしば売り切れになるので、環と似たような働き方の社員が多いのだろう。
「私の国のお菓子です。疲れたときに甘いものを取るんですけど、ご一緒にいかがです?」
「まじで? 食う食う!」
包装のセロファンをはがしながら聞くと、カイラムが素晴らしい速さで隣に座った。カイラムとマディリエの目の前に一つずつ置いて、自分も一つ手に取り半分ほど口に入れて噛み砕く。パキと小気味よい音を立ててチョコレートは割れた。ホッとするようなミルクチョコレートの甘さが口内に広がる。
環は味わいながらマディリエたちを窺う。
この世界の食事は地球と似て非なる味付けなので、受け入れてもらえるか心配になる。環を見ていたカイラムが、包装紙を
そして数瞬ののち目を見開き、
「なんじゃこりゃ! うめぇ!」
と叫んだ。
慎重に匂いを確認していたマディリエも、カイラムの様子を見て小さく噛み砕く。ゆっくり味わってから、また少し口に入れる。
「……確かに美味しいわね」
「だよな!」
「よかった」
はらはらしながら見ていた環は二人の反応に胸をなで下ろした。いつもお世話になっている日本のお菓子メーカーは、国どころか世界を越えて異世界人の舌を満足させてくれたようだ。
(美味しいは世界を越えるのね)
「これ、すんごい
感慨深く残りの半分を味わっていると、カイラムがニコニコ顔で環に言ってくる。
何も言わないが、輝きを増した若葉色の目が雄弁に語っていた。どうやらおかわりの催促だ。あげたいのはやまやまだが、悪い気はしても環は断ることにした。
「……食べ慣れないものは、一度にたくさん食べない方がいいと思います」
環もここでの食事は、過去に経験がないほどの咀嚼回数でゆっくり食べている。今のところは大丈夫だが、しばらくは慎重にいこうと思っていた。断られたカイラムはわかりやすく肩を落とした。
「そっか……残念……」
「お腹を壊したりしなければ大丈夫だと思いますので、様子を見て、また今度の機会にでも」
なんとなく罪悪感を覚えつつ慰めた途端にカイラムが復活した。
「そうだなっ! そん時は絶対に声かけてくれよ?」
「わかりました」
正直な反応に、微笑ましい気持ちで約束をする。
「ごちそうさま、美味しかったわ」
カイラムのようにわかりやすい態度というわけではないが、マディリエも満更ではなさそうだった。
「さてと、タマキ。疲れているでしょ? 部屋で休んでてもいいけど、どうする?」
マディリエから魅力的な提案がされたが、言葉の通じる時間を考えると勿体ない気がする。
「休むほど疲れてるわけでもないですが……」
「そうなの? 顔色がよくない気がするけど、あなたの世界ってそれが普通なの?」
マディリエが環の顔をじっと見る。環も気にしていた顔色は、どうやらフェイスパウダーごときでは隠しきれていなかったらしい。だからといって、コンシーラーやチークを使って肌色を調整するほどの気力は無かったのだから仕方ない。
「たぶん、昨日の馬車の移動のせいだと思います。酔いが酷かったので」
「そう? ならいいんだけど……」
マディリエはそう言ったが、どこか納得いかないような表情をしていた。しかし考えてみれば、提案を受け入れて環が部屋に引っ込んだ方が、この二人も一息つけるのかもしれない。そう考え直して、環は逆に二人に聞いてみることにした。
「今度はお二人から私に聞きたいこととか、確認したいこととかありますか?」
(これで無いと言われたら、大人しく部屋で待っていよう)
そう思った環の問いかけにマディリエは、
「あたしは別に」
と答えたが、カイラムは違った。
「あるある。あのナイフ見てみたい」
と食いついてきたのである。
「ナイフ?」
「
「ああ、いいですよ。ちょっと待ってください」
環は和式ナイフとサバイバルキットの缶を取り出した。
「どうぞ」
蓋を開けながらテーブルの中央に差し出すと、二人とも覗き込む。
「へぇ」
「おほー」
マディリエは和式ナイフを手に取り、カイラムはマルチツールナイフに手を出した。刃の部分に指の腹をあてたり、目の高さに上げたりと興味津々のようだ。刃物が気になるのは、剣士という職業病みたいなものだろうか。
ナイフ以外の中身については、やはりというか使い方を説明することになった。説明の途中でマディリエが
マディリエは
カイラムに至っては全ての道具に興味津々だった。釣り針も楽しそうに触っていたし、ワイヤーソウを使って木を切ってみたいとまで言い出した。こうして環は翻訳ネックレスの時間が切れるまで部屋に戻れなかったのだった。
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『タマキ、外に出れるわよ』
軽い食事を済ませ、部屋に引っ込んだ環をマディリエが呼びに来たのは、夕方が近くなってからだった。扉から顔を覗かせ、上向けた指だけで招いている。
「……外に行くんですか?」
『早く来なさい』
翻訳時間は過ぎているので言葉は理解できないが、あらかじめ約束してある。環はクロムトルマリンのような深緑色をしたマントのフードを被った。手帳だけを持ち、マディリエに続いて部屋を後にする。リビングから廊下に出るとカイラムが待っていた。
『おし、行くか』
カイラムはそう言って気安い笑顔を浮かべる。
『おね、がい……?』
『おう、よろしくな』
たどたどしい環の言葉に軽く返事をして、カイラムを先頭に環とマディリエが後に続いた。飾り気のない廊下の途中にある階段を、折り返しながら一階まで下りる。
一階の間取りは、一つ前の町の冒険者ギルドと同じになっていた。両開きのドアがある玄関ホールを横切り、無人の受付カウンターの横から、裏庭に続く廊下を通る。その廊下にもいくつかドアが並んでいるが、人の気配はない。
環たちが薄暗い廊下を抜けて裏庭に出ると、日は少し陰りはじめていたが、まだ充分に明るかった。
環は午後の空気を吸い込んだ。新鮮な土の匂いと草の香りがする。
(ようやく出られた……)
出られたといっても、実際にはまだ二メートル以上ありそうな塀の内側なのだが、新鮮な空気を吸えただけでも嬉しかった。まわりを見ても裏庭には誰の姿もない。貸し切り状態だ。後ろから回ってきたマディリエが環の肩を叩く。
『好きにしてていいわよ』
環は首をかしげた。言葉が通じるうちに、環の顔色の悪さを気にしたマディリエの判断によって、乗馬の練習は日を改めると言われているので、乗馬ではないはずだ。
今の状態で揺れるのは環にとっても遠慮したいことだったので、その提案には一も二もなく賛成した。だから特に用事はないはずなのだが……。
『す、き……て……?』
おうむ返しにくり返すと、マディリエが手を差し出す。意図に気づいた環が手帳を渡すと、ペラペラ
『や、す、み、じ、か、ん?』
マディリエが肯定する。
『そうよ、休み時間』
つまり好きしてていいということだろう。環は返された手帳を
『わたし、りかい。ありがとう』
お礼を言うと、マディリエはなんてこともなさそうにうなずいて、今出てきたドアの近くに移動した。
カイラムは、と見ると、裏門のある方向に緊張感無く立って腕を伸ばしている。多分警備体制なのだろう。すまない気はするが、せっかくの機会なので少し気分転換させてもらうことにする。
環はなんとなく端の方へと歩き出す。そのうち、生えている草が気になり始めた。膝に手を置いて観察した細長い草は、地球で見るものと同じような気がする。植物には詳しくないから名前などは知らないが、よくある雑草に見えた。
(……植生も同じなんてことある? やっぱり、遠い宇宙のよその惑星とかじゃなくて、パラレルワールドみたいな感じなのかしら? なんて、パラレルワールドがなにかなんて、SF映画の知識くらいしかないんだけどね……)
環は顔を上げて裏庭を見回した。塀の近くに何本か生えている木を、下から上まで視線でたどっていく。
とっかかりのあまりない真っ直ぐな幹の先には、広く枝を伸ばした鮮やかな緑の葉が、黄昏の空に映えている。環の目には普通の広葉樹にしか見えない。
「うーん……」
(……やめよう。ナントカの考え休むに似たりっていうし、私みたいな素人が考えても答えは出ないわ)
環はさっさと諦めて、もう少し歩こうかと足を踏み出したが、二、三歩進んだところで立ち止まった。
(……あれ?)
なにか違和感を覚えて、もう一度木に目を向けた。
ただの名前の分からない広葉樹に見える。その広い枝葉で覆われた地面には影が落ちている。黒々とした深い影が。
環はハッとして空を仰ぐ。一面に濃い黄昏の空が広がっていた。
「おかしい……」
ほんの数分前まで空はまだ青かったはずだ。後ずさる環の肩に手が置かれる。
「ひゃっ」
『タマキ、
「マディリエさん……」
マディリエだった。険しい目で広葉樹の方を見据えている。その視線が何を見ているのかに気づいて、環は息をのんだ。
広葉樹と塀の間のわだかまる影に溶け込むように、人が立っていた。
マディリエが環の前に出て、静かに細剣を抜いた。まるで影が動いているかのような人影が近づいてくる。
漆黒のマントに身を包んだ、背の高い人物だった。フードの奥は口元しか出ていないが、黒い仮面に覆われているのが見えた。歩くたびにマントの下の艶のない黒い鎧が見え隠れする。
『動くなっ!』
マディリエが鋭く叫ぶ。黒衣の鎧は警告を無視し、無言でずらりと剣を抜き払って眼前で捧げ持つように構えた。
『カイ!』
『こっちにも一人いるぜ』
カイラムにしては緊張感のある声が響いた。
環が見ると、カイラムにも裏門の方から抜き身の剣を構えた黒衣の鎧が近づいて来ている。
黒衣の鎧たちは、真っ直ぐに環の方へ向かってきている。慣れていない環でも自分が狙われているのだと理解できた。
『それ以上近づくと遠慮なく殺すわよ』
『遠慮したとこ見たことねーわ』
『警告はしたからね』
『警告っつーより、殺害予告だよな』
『おだまり』
軽口を叩きながらも、護衛二人は油断なく目を配っている。いつの間にか左右から挟まれる形になっていた。
通用口はカイラムと黒衣の鎧の間に位置していて、環からは少し距離がある。環が逃げ込むには、退路を確保する必要があった。
『カイ』
『おうよ』
マディリエのその一言で、カイラムは引き抜いた長剣を構えた。
『タマキ』
マディリエの低い声に環が肩を震わせ振り向くと、マディリエが視線だけで環を見ていた。
『逃げろ!』
短い単語は、ほんの少し前に散々練習した言葉だ。
(部屋に避難っ!)
「――はいっ!!」
理解した環が身を
勢いの乗ったカイラムの重い一撃を、黒衣の鎧は両手で構えた剣に火花を散らして受け止めた。黒い鉄靴は若干地面に沈んだが、一歩も退かない。
カイラムがにやりと笑う。
『俺が相手だ。よろしくな』
一方のマディリエは、もう一人の黒衣の鎧に向かって続けざまにダガーを投げ打ち足止めすると、背後に低く跳躍する。
そのまま建物に駆ける環の背を追い始めてすぐに、真横に飛んで草の上を転がった。一瞬前までマディリエがいた場所に、刺客の剣が振り下ろされていた。土が抉れ切っ先がめり込んでいる。
予想以上に早くマディリエに追いついた黒衣の鎧は、剣を無造作に引き抜き、転がるマディリエに繰り返し斬撃を叩きつけた。
素早く回転して避けながら、マディリエがフード目掛けてダガーを放つ。やすやすと弾かれたが、その隙にマディリエは体を跳ね起こして体勢を立て直した。
『チッ!』
マディリエは黒衣の鎧と
マディリエは迷わず鋭く指笛を吹いた。ギルドには腕の立つ奴らが鬱陶しいほどいる。この状況に気づき、環を保護してくれることを願ったが、次の瞬間、驚愕に目を開いた。
『タマキ! 止まれっ!』
焦燥をあらわにしたマディリエの叫びに、環は駆け足を緩めて背後を振り返る。
(今のは確か……止まれ? ……なんで?)
マディリエが驚いた顔で環を、いや、環の向こうを見ている。環は前方に目を転じた。
ほんの数メートル先の通用口、そのドアの上の短いひさしから落ちた影が、不自然に膨れ上がった。
「――うそっ!」
環は慌てて方向を変えようとした。履き慣れないショートブーツが滑り、バランスを崩して横倒しに転倒する。
「……痛った」
環は
その目の前で、のそりと頭をもたげた影が黒衣の鎧の姿になった。マントを
迫りくる死神の姿に、環は心臓が凍りついたような気がした。もつれる手足を必死に動かして後ずさる。
『タマキ! くそっ!』
カイラムの声と共に、びゅんと風を切る音がして、黒衣の鎧に正面から長剣が突き刺さった。カイラムが自分の剣を投げつけたのだ。
剣が腹部に突き刺さった衝撃で足を止めた黒衣の鎧はしかし、わずかに後退しただけで倒れることなく立っていた。それどころか、空いた手で鎧に生えた剣の柄をむんずと掴むと、ためらいもせず引き抜く。そのまま無造作にカイラムの剣を放り捨てた。
『なんだそれっ!?』
カイラムの声が聞こえる。穴の開いた鎧から血は出ていない。
「いや……うそ……」
環は目の前で起きている現実離れした光景に、完全についていけていなかった。環の頭上でゆっくりと振り上げられる剣を茫然と目で追い、ふと、剣の柄頭の装飾模様に見覚えがあることに気づいた。
(あれって……儀式陣の……?)
考える間もなく打ち下ろされる剣に、とっさに両手を交差して頭を庇う。きつく目を閉じ、歯を食いしばって衝撃を覚悟した。――が、痛みも衝撃もやってこない。
おそるおそる見上げると、黒衣の鎧は途中で動きを止めていた。
(……なにが?)
環が眉をひそめた、そのとき――
ドンッ――!
重い音がして黒衣の鎧の片腕が跳ね飛ばされ、高く放物線を描いた。
一陣の風が吹いて、目を見開く環を庇うように、広い背中が黒衣の鎧との間に立ちふさがる。よく磨かれた幅広の剣を、軽々と片手で扱う男が振り返った。
『タマキ、もう大丈夫だ』
振り返ったヴィラードは気負うことなく笑った。
自信に満ちたその顔に、環は安堵して体中に入っていた力が抜けていくのを感じた。
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