第14話 襲撃

 ヴィラードはちょうど外出から帰ってきたところだった。正面扉を開けたところで、鋭い口笛の音を聞きつけた。

 鋭く強く長い、救援を求める音だった。


(裏かっ!)


 認識と同時に廊下を駆け抜けながら剣の柄に手をかけ、通用口を蹴破って飛び出す。座り込んで頭を庇っている環と、中途半端な姿勢で振りかぶっている、フードを目深に被った黒衣の男の姿が視界に映った。


「――はっ!!」


 ヴィラードは強く地を蹴って鋭い斬撃を刺客に見舞い、勢いを殺さずに二人の間に滑り込んだ。

 斬り飛ばされた刺客の左の肘から先が地面を転がる。動きを止めていた刺客がヴィラードから距離を取った。

 その隙にヴィラードは環を振り返る。


「タマキ、もう大丈夫だ」


 呼びかけると、蒼白な顔をした環が、二、三度瞬きして詰めていた息を吐きだす。強張こわばっていた肩から力が抜けたのが見て取れた。

 上から下までざっと視線を走らせ、致命的な外傷はなさそうだと判断する。


 ヴィラードは辺りを見回した。空は異様に黄昏たそがれていて、不自然なほど静かだ。通常なら、救援を求める口笛にギルドの団員たちが気づかないはずがない。


(結界か?)


 ヴィラードはそう当たりをつけた。魔力で閉ざされている空間を結界と呼ぶ。

 つい通り過ぎてしまったり、よく注意していないと気づきにくい程度の軽いものから、どれだけ注意を払って探していても見つけられない、入り込めない強固なものまで、結界にはいくつかの種類がある。

 魔力の気配に敏感な魔術師であれば結界の存在に気づきやすい。あるいは逆に、魔力に耐性を持っている者の場合は、人を遠ざける結界の効力自体を受けにくい。

 ヴィラードは騎士団時代の経験から、魔力にある程度の耐性を持っていた。


(これが虐殺のつるぎというやつか?)


 黒衣の刺客を見ながら、ヴィラードはギムレストが言っていた呪いの一部を思い出した。

 目の前の刺客は無事な右腕一本で剣を構えている。片腕を斬り落とされているのに痛がる様子はなく、切断面は炭のように黒かった。板金鎧の腹部に開いた穴も黒く、傷口から血は出ていない。


 視界の両端に見えるカイラムとマディリエは奇妙な刺客相手に苦戦していた。攻撃は通っているようだが、致命傷を与えられていない。


「貴様たちは何者だ? 目的を言え」


 フードの奥の刺客は無言で、ヴィラードの問いかけに答える様子はない。


「だんまりか。まあいい、体に聞くさ。壊れた扉の弁償代は高くつくぞっ!」


 ヴィラードは言い終わる前に突撃した。

 通用口の扉を壊したのはヴィラードだ、という突っ込みはマディリエとカイラムが忙しい今、誰からも入らなかった。


 刺客までの距離を瞬時に詰め、苛烈な突きを放つ。刺客は身をかわし、ヴィラードの攻撃を打ち払おうと腕一本だけで方向を逸らそうとして、力負けして体が流れた。


 すかさずヴィラードは大きく踏み込んで、体勢を直す隙を与えずに連続した斬撃を嵐のように浴びせる。白刃が縦横無尽にひらめいて、刺客を追い詰めていった。


 防戦一方に追い込まれた刺客は、一撃一撃打ち込まれるたびに板金鎧が音を立てて削られ、白刃を受けた刃はこぼれ、切り裂かれたマントはぼろきれと化していく。

 ついに喉元をかすめた鋭い切っ先が、マントを留めていたベルトごとフードを吹き飛ばした。その下から、頭部全体を覆う黒い仮面があらわになる。

 その仮面の不可思議な模様を見て、ヴィラードは刺客の正体を知った。


(なるほど、帝国の幽鬼かっ!)


 満身まんしん創痍そういになりながら、たじろぎもせず手向かってくるのは命じられた使命を果たすためだ。息も乱さず、死の恐怖にひるまないのは、既に死んでいるからだ。

 死してなお、タルギーレの残した呪いに囚われ操られる傀儡かいらい

 帝国の幽鬼と呼ばれる、魔物になり果てた騎士の姿だった。

 ヴィラードは騎士団時代に、帝国の幽鬼と対峙たいじした経験がある。


 ヴィラードは自分がぼろぼろにした亡国の騎士を静かに見据えた。


「貴様が守る、血の帝国は滅びた」


 ぎこちなく振りかぶる刺客の腕を、ヴィラードは下からの斬撃で肩から断ち斬った。そのまま流れるように向きを変えた、恐ろしく速く深い一撃が水平にひらめく。

 剣舞のように鮮やかな動きで、胴体から斬り離された刺客の腕と首が宙を舞う。


「もう休め」


 ヴィラードの声には憐みが含まれていた。


 落ちた首は転々と転がり、胴体は糸が切れた操り人形のように膝から崩れる。


『きゃっ!』


 ドサリという落下音と環の短い悲鳴に振り向くと、環の近くに剣を持ったままの腕が落ちていた。


「おっとすまない。タマキ、怪我はないか?」


 急いで駆け寄り、片膝をついて顔を覗き込むと、引きつった顔で腕を凝視していた環が、ハッと我に返って何度もうなずく。


『大丈夫。私、大丈夫です』


 言葉はわからないが、おそらく無事を告げているのだろうと思われる。相変わらず顔色は蒼白だが、恐慌をきたしている様子はない。側に付いていなくても問題はなさそうだ。


「悪いが、もう少しだけ待っていてくれ」


 ヴィラードの言葉に、環はきょとんとした。


「すぐに終わる」


 安心させるために肩を叩いて笑いかけ、立ち上がって帝国の幽鬼をまたいで移動する。今度こそ動かぬむくろとなった帝国の幽鬼は、輪郭がぼやけ、影に溶け始めている。放っておいても、もう何の心配もない。


 ヴィラードは苦戦している若い二人へ向かって声を張り上げた。


「カイ、マディ、そいつらは帝国の幽鬼という魔物だ。残念だが普通の武器では倒せんぞ」

「うわーっ! マジっすかー!」

「ちぃっ! 通りでっ!」


 二人は攻撃をかわしながら、盛大に不満を漏らした。

 通常のはがねで鍛えた刃物では、この魔物に致命傷を負わせることはできない。マディリエとカイラムが苦戦しているのはこれが理由だった。

 通常の武器で戦うなら、胴体と四肢をバラバラに切り離す覚悟が必要となる。身動きできない状態に追い込まない限りは動き続けるのだ。


 魔剣であれば通常と同じ攻撃が有効となる。もし一撃で仕留めたいなら、ヴィラードがやったように首をねるか、胸の中心にある魔石を砕けばいい。

 しかし魔剣は高価で流通量が少ないため、若いマディリエとカイラムは持っていない。


「なんだ、まだ平気そうだな」


 悲壮感の欠片もない頼もしい反応に、ヴィラードは軽く笑い声を上げた。

 ちらりと環に視線を走らせると、溶け始めた帝国の幽鬼を気味悪そうに見ていたが、何かに気づいたように手帳を取り出し、猛然と書き込みを始めた。周囲の様子など気にする素振りもない。


「……ふむ」


 たおやかな見た目とは裏腹に、意外にも肝が据わっているようだ。彼女に対する認識を改める必要がありそうだと、ヴィラードは思った。


===================================


 環に襲い掛かろうとしていた刺客に向かって、とっさに自分の剣を投げつけてしまったカイラムはその後、予備のショートソードで何とか攻撃をしのいでいた。


 直後に駆け付けたヴィラードのおかげで環のことは任せられたがしかし、間合いの短いショートソードで相手をするには、骨の折れる手練れであった。


 しかも、繰り出される連撃をかいくぐって、苦労して攻撃を与えても、動きは鈍らず血も流れない。決して敵わない相手ではないのに、期待した手応えが得られぬまま、無意味に刺客の体の穴が増えていく。


「刺し傷、切り傷、なんでもござれかっ! うらやましい体質だなぁ、この野郎っ!」


 苛立ちからカイラムは吠えた。とうに絶命しているはずの刺客の攻撃は止むことがない。


(急所の攻撃に意味はあるのか? 俺は一体、なにをやってるんだ? ちくしょう、こうなったら、みじん切りなるまで斬ってやらぁっ!!)


 と、なかばやけくそな覚悟を決めたところに、ヴィラードの助言が入ったのである。そうとわかればカイラムの行動は速い。


「その、見た目で、魔物とかっ! すっかり騙された……ぜっ!!」


 攻撃を受け流しつつ、刺客から放たれた打突をかわして懐に飛び込む。ショートソードの柄で顎を打ち上げ、板金鎧の腹部に体重の乗った蹴りを思い切り叩き込んだ。刺客が後ずさりして生じた隙をついて、後ろに飛ぶ。


おさっ! お願いしますっ!」


 カイラムが着地した場所のすぐ横に、ドスッ、と剣が突き刺さる。魔力を帯びたヴィラードの剣である。


「あざっす!」


 元気よくお礼を言ったカイラムは、ショートソードを収めて素早くヴィラードの魔剣を引き抜く。ひと振りして土を飛ばし、地を蹴って刺客へと迫った。


「今度こそ、よろしくなっ!」


 自分の剣より短いそれを、豪快に振り回して猛烈な勢いで振り下ろした。受け止めきれなかった斬撃が、刺客のガントレットをえぐって鉄片を散らす。大きくよろめいた刺客が数歩後退した。この戦い始まって以来の光景だった。


「効いてるみたいだな、こうでなくっちゃ」


 ようやくまともな反撃に転じたカイラムは、ヴィラード仕込みの連撃を容赦なく打ち込む。ヴィラードの魔剣は、動きの鈍り始めた刺客の硬い板金鎧を、ものともせずに引き裂き、貫く。


(いいなぁ、魔剣っ! 俺も欲しいっ!)


 何合も斬り結び、確実にダメージを蓄積させながら、カイラムは吞気な感想を抱いた。もはや目の前の刺客はカイラムの敵ではなかった。

 打ち下ろされる一撃を逆に弾き返して刺客の胴ががら空きになる。


「――っよっと!!」


 すかさず長い足で強く踏み込み、渾身の力で振り下ろした斬撃が決め手になった。ビュッ、と風を斬る音に続き、板金鎧を斜めに斬れ込みがはしる。

 剣を弾かれた格好のままで動きを止めた刺客は、あお向けにどう、と倒れた。

 輪郭がぼやけ、どろりと溶け始める。


「うわぁ、溶けるんだコイツ……。確かに人間じゃねえや」


 亡骸なきがらから離れて振り返ると、環に襲い掛かっていた刺客は、いくつかの塊に別れて影の中に消えかけていた。滅多に本気を出さないヴィラードの手で、ズタボロにされた挙句、可哀想に斬り分けられてしまったのだろう。


「相変わらず、えげつな……」


 カイラムだってそこまではしない。というか、出来ない。腕や首は、そう簡単にポンポン斬り飛ばせるものではない。

 しかしヴィラードであれば、四肢と言わず胴までも真っ二つに出来るであろう。なにしろ、でたらめに強いのだ。かつて斬り込み部隊で若くして副隊長を務めていた実力は伊達ではない。


「相手が悪かったよな……」


カイラムは消えゆく刺客に少し同情した。


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 時は少し戻り、カイラムがヴィラードから魔剣を受け取ったころ、マディリエは突き出された刺客の剣の下をさかのぼるように自身の細剣を打ち込んでいた。板金鎧といえども関節部分は空いている。

 狙いすました一撃が、寸分たがわず刺客の脇の下を鋭く穿つ。


「――チッ!」


 筋肉を貫いたにも関わらず、刺客はいささかも動きが衰えない。細剣を引き抜きながら、マディリエは舌打ちをした。

 刺客越しに、ヴィラードがブーツから引き抜いたハンティングナイフを、マディリエに向かってひらひらと振っているのが見えた。


(あのナイフも魔剣だっての!? いいとこのお坊ちゃんはこれだから……)


 湧き上がるひがみはひとまず横に置くとして、なんとか間に立ちはだかるデカブツを避けて、あのナイフを受け取らねばならない。


「上へっ!!」


 マディリエは叫ぶ。ヴィラードが空中で回転させたナイフの刃を持った。あとはタイミングだ。


 マディリエは繰り返される刺客の突きを身をひねってかわす。重い剣の一撃を、細い剣でまともに受け止めようなどしたら、刃が折れてしまう。

 刺客の打突を左右にかわし、上段からの斬撃は背後に飛び退しさって避ける。はたから見れば有効な手立てを講じられないマディリエは、だんだん追い詰められているように見えた。

 刺客の攻撃が激しさを増し、後ろに跳躍したマディリエが着地でバランスを崩して細剣を取り落とす。刺客が大きく剣を振り上げた。


(――かかった!)


 マディリエは下半身のバネを溜め、極限まで集中力を高める。そして恐ろしい速さで打ち下ろされる剣の腹を蹴って高く跳躍した。


 バシッ――


 タイミングよくヴィラードから放たれたナイフを刺客の頭上を飛び越えながら受け取り、軽業師のように身をひねって落ちながら、逆手に持ったナイフを刺客の盆のくぼに突き刺し引き抜く。

 猫のようにひらりと着地すると同時に、手を軸に素早く体を回転させて、かかとで刺客の足を払った。転倒した刺客に飛び掛かり、心臓にナイフを突き立てた時には、すでに刺客は動きを止めていた。


「……ふん。動きが単調なのよ」


 マディリエは体を起こしながら呟く。連続した突きで相手の体勢を崩したところで上からの斬撃という刺客の攻撃パターンを、マディリエは見切っていた。

 だからあえてバランスを崩したように見せかけて、ここぞ、という場面を作ってあげたのだ。


「溶けていく……片付けの手間が省けるわね……」


 身も蓋もない感想を呟き、マディリエは裏庭を見回す。カイラムも戦闘を終えていた。


 ナイフを返しにヴィラードへ近寄ると、呆れたような顔が出迎えた。


「振り下ろされる剣を蹴って飛ぶとは、なかなか非常識な光景だったぞ」

おさに言われたくありませんけど。これ、ありがとうございました」


 マディリエたちより遅れてきたのに、板金鎧ごと刺客をあっさりバラバラにした非常識な人物が何を言うか。


「ところでタマキは?」

「ああ、無事だ」

「そうですか、ありがとうございます」

「気にするな。間に合ってよかった」


 ヴィラードが刺客を一人ほふった後も環の側に留まっていたのは、カイラムとマディリエに任務を遂行させるためもあっただろうが、新たに現れるかもしれない刺客を警戒していたのも大きい。


 本来それは、護衛についたマディリエたちの役目だった。

 後出しで刺客が追加されるという反則があったとはいえ、結局、マディリエとカイラムだけでは環を守れなかった。表情には出さないが、それがひどく腹立たしい。


「タマキは部屋に避難させます」

「そうしてくれ。ギムレストはどうした?」

「解析があるとかで自宅に戻ってます」

「ふむ、呼び戻すか。帝国の幽鬼が出たことで相談せにゃならんからな」

「この魔物たちですか」

「ああ、こいつらにタマキが狙われているなら厄介なことになる。お前たちにも説明が必要だろう。場合によっては護衛の数を増やす」

「…………」


 マディリエは眉根を寄せた。自分たちだけでは力不足と言われたようなものだ。ヴィラードが軽く肩を叩いてくる。


「そんな顔をするな。お前たちの腕が悪いと言っているんじゃない。少人数でどうこう出来る相手じゃないんだ。ひとまず、タマキを休ませてやってくれ」

「……わかりました」


 マディリエはうなずいて、座り込んだままの環に近付いた。


「タマキ、大丈夫?」

『あ……、マディリエさん』


 手帳を開いて何かを考え込んでいた環が顔を上げる。マントのフードは後ろに落とされていた。


「……ちょっと、また顔色が悪くなってるんじゃない?」


 部屋にいたときよりも血の気が引いている。


『え? あの?』


 マディリエは環の顎を掴んで額に手を当て、次に喉元の脈に触れた。


(体温が低い。脈は早いけど、乱れてはいない。だとすると……)


「どこか怪我でもした?」

『あ、あの、なにを……、ちょ……』


 狼狽の声を上げる環を無視して、マディリエは環の体を遠慮なく確かめていく。怪我をしているのに、興奮していて流血に気づかないことはよくある。右足首を押さえたときに、環が悲鳴を上げた。


『痛いっ!』

「ここね?」


 スカートをめくって、ショートブーツを慎重に脱がす。足首が赤くなっているが、骨に異常はなさそうだ。内部で出血しているようにも見えない。左足のショートブーツも脱がせてみたが、こちらは問題ない。


「……転んだときにひねったんでしょうね。あとは膝の横を打ってる……これはあざになりそう……」

『いた、あの、あんまり触らないで……』

「うおっ! マディリエ! なにしているんだ、早くしまえ!」

「……はあ?」


 環の悲鳴に寄ってきたヴィラードが、膝上までまくり上げられた環の足を見て慌てている。


「今さらなに言ってんです? 最初に会ったときもスカートはこんなものだったでしょ?」


 押さえられた痛みで涙目になっている環も、恥ずかしがっている様子はない。単純に痛みでそれどころではないのかもしれないが。

 ヴィラードは顔をあさっての方向に逸らしながら、チラチラ視線を送っている。


「長さとか、そういう問題じゃない。めくれているのが駄目なんだ」

「はぁ……駄目なのはおさの頭ですよ。ただの怪我の確認行為に下心を挟まないでください。ガキじゃないんですから」

「なに? 怪我をしていたのか?」

「足をひねっただけみたいです。歩かせないで運びますから、心配いりません」

「あ、だったら俺がはこ……」


 途端に近寄ろうとしたヴィラードに、マディリエが道端の馬糞を見るような目を向けると、ヴィラードは動きを止めた。


(さっきまでは、まともだったのに……)


 戦闘の最中や指揮を取っているときは別人のように引き締まっているのに、それ以外の場面で”か弱い女”が出てきた途端、どうして鼻の下を伸ばす気持ち悪い中年男に成り下がってしまうのか。


 いい年をしたヴィラードが未だに独り身なのは、この豹変ぶりが原因の一つだとマディリエは思っている。

 戦闘中の頼もしい姿にうっとりと見とれていた女は、付き合っていくうちに鼻の下を伸ばしたヴィラードとの落差についていけないと言って去って行った。

 最初から鼻の下を伸ばしている状態のヴィラードに近付くような女は、むしり取れるだけむしり取ると、あっさりと手の平を返す。

 マディリエにしてみたら、仕事中は観察力と洞察力に優れたヴィラードが、何故あんな一目瞭然の嘘泣きに騙されるのか理解できない。


 環に至っては、馴れ馴れしく近寄ってくるヴィラードを見ただけで胸焼けを起こしたような顔になり、今も背に庇われて目の前で圧倒的な強さを見ていたはずなのに、見とれるでもなく手帳を開いて、別の何かを考え込んでいる有様だった。


 今では依頼に女が絡むたび、ヴィラードが何日で振られるか、ギルド員たちの間で賭けが行われている始末だ。マディリエとカイラムは噛んでいないが、すでに環についても賭けられている。

 エルー神殿から荷馬車に乗り込む際に、さっそく情報を集めている阿呆どもに声をかけられたが、無言で睨みつけると、すごすごと引っ込んでいった。


 ヴィラードはマディリエとカイラムの恩人である。

 その恩人には幸せになって欲しいし、できればまともな女と一緒になって欲しい。まともな女に好かれるためには、鼻の下を伸ばした気持ち悪い中年男から、せめて、ただの気持ち悪い中年男くらいにはなって貰わないと話にならない。

 それゆえマディリエは、ヴィラードが鼻の下を伸ばすたびに、ゴミクズを見るような視線でたしなめているのだった。


「カイ! こっちに来て、タマキを運んで」


 視線だけでヴィラードを遠ざけたマディリエがカイラムを呼ぶと、溶けゆく刺客を眺めていたカイラムがやってきた。


「どした? あー、足をやっちまったか。転んでたもんな」

「顔色も良くないし、歩かせたくないの。部屋に連れて行って手当するわ」

「それがいいな。タマキ、抱えるから大人しくしてろよ?」

『え、ええ? 待って待って、大丈夫、歩けます!』


 カイラムが膝の下に腕を差し入れようとして意図に気づいた環が、必死に首を振って手だけで這って逃げようとする。しかしマディリエが腕を組んで、


「タマキ、止まれ! 動くな!」


と命令すると、環はぴたりと動きを止めた。特訓の成果が出ている。


『あのう、私、本当に大丈夫なので……』


 情けない顔で懇願しても、何を言っているのかさっぱりわからない。


「タマキ、動くな」


 マディリエがくり返すと、諦めたように肩を落とした環は、


「……はい。わたし、りかい」


としぶしぶ降参した。


「うーん、犬のしつけみたいだな」


 という、失礼な感想を漏らすカイラムに環は向き直り、非常に申し訳なさそうな顔で、おずおずと両腕を差し出した。


「カイラム……おねがい……」

「よっしゃ、大人しくしてろよ」


 今度こそカイラムが抱き上げて、環が遠慮がちに胸元を掴む。


『お、重くてごめんなさい……』


 恥ずかしそうな上目遣いの囁きに反応したのはカイラムではなくヴィラードだった。


「おね、おねがい……だと? なんて羨ましい……。なんで俺じゃないんだっ! くそぅ!!」


 マディリエが振り返ると、ヴィラードは片手で頭をきむしってくやしがっていた。


「ああ、もう、嫌になる」


 ギルドの頭目とは思えない情けない姿に、マディリエはうんざりと天をあおぐ。異様な色に歪んでいた空は、すっかり元に戻っていた。


「軽いなぁタマキ、もう少し肉付けた方がいいんじゃね? 飯食ってる?」

『残業が続いて、ご飯代わりに栄養ドリンクがぶ飲みしてたんです。ほんの出来心というか……』

「段差あるからしっかり掴まってろよ」

『一応セーブはしてたんです。高いのを飲み続けると安いのに戻れないって言うし、でも何度か魔が差したことがあって……』

「しかし、肝が冷えたぜ。大事にならなくてよかった。怖い思いさせてごめんな」

『今、すごく後悔してます。ほんとごめんなさい。重くてごめんなさい』


 ヴィラードの醜態に気づかないカイラムと、体重の言い訳に忙しい環は、互いに何を言っているのかわかっていない、まったく噛み合わない会話を交わしながら建物に消えていく。


「俺が運んだっていいじゃないかっ! 俺だってあんな目で見つめられたいんだっ!」


 と、一人で往生際の悪い主張をしているヴィラードを置き去りにしたマディリエは、環のショートブーツを持ってカイラムたちの後に続いた。


 恩人のヴィラードが普通の中年男になれるのは、まだまだ遠く険しい道のりを行かねばならないようだと、冷めた目で思った。

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