第6話 心機一転

朝、俺はいつものように、工事現場へと赴く。

眠い目を擦りながら、缶コーヒーを啜る。

昨晩は夜更かししすぎて、寝たのは3時。そして、今日起きたのは5時30分。

ぎりぎり間に合うかどうかのところではあったが、なんとか朝のラジオ体操の時間には間に合ったので一安心して、ラジオ体操に参加したあと今は持ち場に着くために、工事現場の中を歩いている。そんな時、俺の後ろから声がかかった。


「速瀬さん。おはようございます」


その人は最近、同じ警備会社で働き始めた後輩の淵野辺さんであった。

淵野辺さんは、つい1ヵ月前にここの現場入りをした女性だ。

俺とは配置が違うので、一緒になることは、ラジオ体操の時くらいである。


「おはようございます。どうかしたんですか?」


「あ、はい。あっちの1番の片側交互通行なんですけど、1人遅刻してるみたいで、速瀬さん1時間だけ入れますか?私1人なんですよ」


俺の配置は6番。1番といえば、6番からはかなり離れている。ラジオ体操の広場からで言えば、向かう方向は真逆だ。

他の人に頼めと言いたいところではあるが、6番以外の現場の警備員はそこそこ忙しいのを俺は知っている。

上長は、今は暇そうにしているものの、いつも6番以外の休憩回しに駆け回っているので、ほぼ、勤務の時間は捕まることがない。

だからこそ、俺に声がかかったのであろうことは理解していた。


「あー…わかりました。じゃあ6番はまだ開けないんで、そっち入ります」


俺は淵野辺さんと共に1番の現場に向かう。

この淵野辺さんという人だが、なかなかこの工事現場では人気らしい。

淵野辺さんが作業員とすれ違う度にあっちから挨拶されているのがその証拠だ。

警備員は工事現場の作業員からはかなり邪魔者扱いされていることがあったりするので、あちらから挨拶をしてくることはまずない。


(まあ…そこそこ美人だし…納得)


俺も淵野辺さんは、美人だとは思うが、まったく興味を惹かれない。

その理由だが、なんとなく、淵野辺さんに裏があるのではないかと勘ぐっているからだ。そう思う点はいくつかあった。


まず、男だらけの現場に女の人が働きに来る。という点。

若干、男尊女卑の気配を感じたかもしれないが、俺が言いたいことはそうではない。

警備員という職務は俺が言うのもなんだがかなりきつい。

夏は暑いし、冬はまだ味わったことがないが、きっと寒い。

雨の日に傘なんてさせないし、時たま作業員から文句も言われる。そして、交通整備なんかしていたら、一般人からも文句を言われることもある。

そして何より足が痛くなる。これは重要だ。


以上のことを踏まえて考えると、わざわざ警備員なんていう職種を選ぶ女の人はかなり少なくなるだろう。淵野辺さんはそこそこに美人なのだ。他の職など探せばいくらでもある。

なのに、この職種を選んだということは、この仕事が好きであるか、男の人にちやほやされたいという可能性のどちらかだろう。


まだ怪しい点は残っているが、こうして淵野辺さんに勝手な憶測を立てているうちに1番ゲートへと辿り着いていた。


「じゃあこっちお願いしますね」


淵野辺さんから、案内された場所に立つ。

こっちって…十字路じゃないか…

淵野辺さん側の配置と比べれば難易度はかなり違う。

何せ4方向を見なければならないのだ。一方、淵野辺さん側は2方向。

さすがに、頼まれたのもあるし、淵野辺さんはまだ初心者だ。

俺がそれに文句を言うことはないが、俺だって十字路は1回ほどしか誘導したことはない。不安にはなるが、1時間だけという話だったので泣く泣く俺は、配置についた。


朝の道は混雑することなく、スムーズに誘導することができ、特にトラブルもない。

本当に1時間ほど誘導をしたあと、遅れてやって来た柏木さんに、挨拶をされる。


「いやぁごめんねぇ。昨日の飲み会でさぁ…」


「いえ、大丈夫ですよ。では俺はこれで」


現場を受け渡し、俺は自分の持ち場である6番ゲートに向かった。


柏木さん…えらく上機嫌だったな…

柏木さんは現場に入ると、すぐに俺なんかのことは忘れニコニコして誘導灯を淵野辺さんのほうに振っていた。

やっぱり柏木さんも淵野辺さんに好意を抱いているのだろうか。

皆、淵野辺さんが入ってからというもの、浮足立っている様子だ。俺が入った時は、若いねと一言あったくらいで他は何もない。

淵野辺さんに対しては、歓迎会とか言って、警備員の皆で飲みに行っていたらしい。俺は酒も飲めないし、そもそも誘われていない。

そう考えると、6番ゲートの主は、なんだか隔離されているような感じだ。


皆の輪を崩すほど俺は空気が読めない人間ではないので、いるかいないかぐらいの今のポジションが丁度いいので、飲み会の誘いがなかったことなどは気にしていない。


そんな思いに耽っていると、いつものようにガランとした様子の6番ゲートを目線が入ってくる。俺は溜息をつきながらゲートのほうに目をやると、1つ異変に気づく。

開いていないゲートの前で1人、誰かが蹲っているのだ。

体調を崩したのか?いや、それより…

俺は急いでその背中に駆け寄ると、反応があるかどうか確かめるためその背中に声をかけた。


「大丈夫ですか!?」


「ふぇっ?」


その背中が声を上げてびくりと体を震わせた。どうやら意識はあるようだ。

俺は、その人の無事を確認するため、ゲートを急いで半開きで開けるとその人の状態を確認するために正面に回り込む。すると、見知った顔が俺のほうをちらっと向いた。


「速瀬しゃん…」


そいつは昨日、俺を恐怖に陥れた珠希だった。

顔はぐしゃぐしゃになり、泣き崩れている。

いくらそんな珠希といえど、人がこんな風になっていたら事情を聞かずにはいられない俺はポケットからティッシュと取り出し、珠希に差し出しつつ尋ねた。


「どうしました?どこか痛いところは?」


しゃがみ込んで、目線を珠希と一緒にした俺は、優しく丁寧に接する。

珠希は俺の渡したティッシュで涙と鼻水を拭うと、顔をブンブンと横に振った。


「では、気分が悪いとか?」


同じく首を振る珠希。

ずっと泣いていたのか、制服のYシャツの腕のところはビショビショに濡れていた。


「あーえっと貧血ですか?」


「違う…」


珠希は、俺にティッシュを返すと、俺の方を上目遣いで見つめた。

少しうるっとした目と、少し赤く染まった頬に、俺は動揺する。


(騙されるな。動揺するな。可愛いと思ったら負けだ。)


俺は、珠希の無事を確認すると、立ち上がり珠希を見る。


「速瀬さん…どこに行ってたの…?」


「どこって…1番ゲートのほうですけど…」


「どうして…?」


「仕事です…」


至極当然の答えを言っている俺だが、なんだかこれではまるで、浮気の疑いをかけられている人みたいだ。彼女はいたことないが、こんな感じで問い詰められるシーンを漫画やアニメで見たことがある。

俺は具合の悪い訳では無い様子の珠希を放っておき、仕事の準備を始めた。


「仕事って、ここが持ち場じゃないの…?」


「それは、1番のほうが人足りなくて…。よくある話ですよ」


俺は半開きのゲートを完璧に開くと、ゲートの隅にカバンを置きに行く。

俺の言葉を聞いて安心したのか、珠希は俺の邪魔にならないよう立ち上がると俺の持ち場の丁度前にあるボラードに腰かけた。

どこかに行く様子もないので、俺はふいに珠希に話しかけてしまう。


「学校は行かなくていいんですか…?」


「へっ?あ…うん…夏休みだから…」


8月だし、そういえばそうか。だから登校してる人もあんまり見なくなったんだなぁ…。こんな時にも、登校してる人って、部活か何かだろうか。それとも補習とか?


いや、そうじゃない。

俺は自分で突っ込みを入れた。

なんで俺は自然にこいつに話しかけた?

こいつは友達でもなんでもなく、ただ単に俺のストーカーだ。


そもそも突っ込みどころを探したらキリがない。

なんでこいつは制服を着てるんだとか、なんで俺の目の前にいるんだとか、なんでわざわざ登校しようとしているんだとか…

しかし、そんなこと聞こうものなら話題が広がってしまう。

そうなれば、俺の足の痛みを和らげる行為どころか、いつものようにサボることもままならない。どうにかしてこいつを帰らせる方法を考えなければ…。

俺は、自分の中で作戦を企てる。


「ね、ねぇ…速瀬さん」


「な、なんですか?」


「昨日、渡したの…まだ使ってる?」


昨日貰ったものといえば、携帯灰皿だろうか?

使ってるということは、弁当のことではないだろうという予測はつく。

携帯灰皿は、値段のこともあり、普段使いするのは躊躇われた。

それどころか、中の吸い殻をきちんと捨て、中身を洗ってある。

次もし会うことがあれば、返そうと思っていたのだ。


「ほら…これ…返します」


俺はポケットから、携帯灰皿を取り出し、珠希に渡そうとする。


「き、気に入らなかった?」


「そうじゃなくて、高すぎます。こんなもの使えませんよ」


「で、でも私は使えないし…もしいらないなら捨てるか売って…」


そう言うのであれば、貰って極力大切に使うしかないだろう。

返されそうになった珠希は、少し涙ぐんでいた。

確かにプレゼントしたものを返されたりしたら、悲しい気持ちは分かる。

そもそも俺なんかにどうしてプレゼントを渡したりするのか

疑問だが、きっと元カレか何かの品なのだろう。

俺は仕方なく携帯灰皿をポケットにしまい込んだ。


「ずっと、ここにいるつもりですか?」


「う、うん…速瀬さんとお話したいと思って…だ、だ、だめ?」


こいつ俺にサボらせないつもりか…。いや待て…よく考えればこいつ…。

俺は珠希のことをじっと見つめた。

見た目は、誰にも似つかない。妙に整った顔立ちではあるが、そこは今別に掘り下げるところではない。注目すべきは制服姿というところ。

見るに、制服に着慣れていない様子のその着崩れ方にある考えが俺によぎった。


(夏休み…制服である必要がない。つまり学生ではない。そして、俺の警備を見守っている…まさか…)


俺の姿を視察しに来た警備会社の人間…!?

そう、俺の浅い考えはどんどんと斜め上の方向にいくのであった。


もし、俺の予想が正しければ、名前を知っていたり、妙に俺の詳細に詳しいところがある理由にも説明がつく。

昨日、見送りに来た理由はあまり思いつかないが、きっと視察がバレないように振る舞った行動なのだろう。

携帯灰皿をもらったのは、俺があれでタバコを吸ってしまうかどうか確かめるため…?

いや、公園は禁煙ではなかったはず…。いや違う。

俺は研修の時言われたことを思い出した。


『喫煙禁止でなくとも、近くの公園などで喫煙しているとクレームが入る可能性があるので、極力やめてください』


そうだった。そんなことを言われていたことを俺は今の今まで忘れていた。

そう考えれば、ここは慎重に答えなければならない。


「別にいいですよ」


警備会社の人間だと知れれば、自ずと体が強張る。

ここで足が痛い素振りなどしようものなら、即効クビになってしまうだろう。

それどころか、懲戒免職扱いになり、先の仕事につけなくなるかもしれない。


「ほ、本当?う、嬉しいな。何から話そうかなぁ…」


さて、どんな話題が来る?

タバコの件か?それとも他に俺をクビにするネタが上がっているのか?

体に緊張感が迸る。


「あ、アニメって、観たりする?」


「アニメですか…?」


なんとも拍子抜けの話題だが、ここから探りを入れようって魂胆か?

それともそういった話題で俺をリラックスさせてから答えやすくさせようという考えだろうか。俺は頭の中で思考を巡らせる。

アニメか…。いや、それは観てるどころの話ではない。

むしろ、好きなジャンルは見返すくらいには好きだし、時たまグッズを収集したりもするくらいは好きだ。しかし、相手は視察しに来た警備会社の人間。

油断して答えを間違えば、たちまち俺のクビは飛ぶだろう。

それは絶対に避けねばならない。


「そ、そうですねぇ。ドラ○もんとかなら見たことありますかね…」


「え…おかしい…」


珠希は、俺がそう言うと、顔を顰めた。

カバンから何かのファイルを取りだし、俺にそのファイルが見えないよう隠しながら見ている。どうやら俺の答えは間違っていたらしい。あのファイルはきっと俺のことを査定する何かなのだろう。何が書かれているかはわからないが、ファイルの中身を確認した珠希は、納得した様子で、ファイルをカバンにしまった。


「速瀬さん…う、嘘はよくないよ…」


「嘘なんてついてませんよ?」


俺は、思わず変な声で答えてしまう。額からは汗が噴き出ていた。

確かに俺は嘘をついた。アニメにはあまり詳しくないと。

いや、ドラ〇もんを観ていることは、真実なのだが、ドラ〇もんは、たまにある映画を見るくらいでそこまで思い入れはない。視察官の調べは、正確である。


「じ、じゃあ昨日、何か必殺技を叫んでたのは何?」


「ひ…必殺技…?」


早速探りを入れてくる視察官。俺は昨日のことを思い出す。

昨日はわりと真面目に警備をしていたはずだが…。

いやよく考えろ。ここで、そのまま答えてしまったら、また嘘をついたと俺の評価は地に落ちるだろう。この視察官がほしい答えを考えなければ…。


「そ、その腰にかけてる棒でこう…ギ○スラッシュって言ってたよ…」


珠希は、手振りも加えながら俺に説明をする。

それを見て俺はやっと思い出すと、段々と顔の熱が上がってくるのを感じる。

確かにしていた自分の恥ずかしい行為に、俺は顔を思わず伏せた。


(見られてた…しかも一番恥ずかしいところを…絶対クビだ…)


顔が赤くなった顔を次に青くする。俺は懇願するように珠希の顔を見た。


「も…申し訳ありません!」


「へ…?」


頭を45度下げつつ、精一杯謝罪の気持ちを込めて言う俺。

珠希は俺の謝罪に唖然としている。


「ど…どうして謝るの?」


理由が知りたい様子の珠希は俺の謝罪に慌てている様子だ。

理由が知りたいというのは当然だろう。きちんと上に報告しなければならないのだから。俺は、正直に謝罪の理由を答えた。


「誘導灯をあんな扱いをしてしまった上に、警備を怠ってしまいまして…クビだけはどうかご勘弁願いたいのですが…」


「え…え?クビ?な、何の話?」


白々しく反応をする珠希。そうか、もう遅いということか。

あんな行動をした後に来た視察だ。この場でクビを宣告されてもおかしくはない。

そもそも最初にアニメの話題を振ってきたところから尋問は始まっていたのだ。

まさかこんな形で誘導されてしまうとは…。

さすがは、若いながらもしっかりと視察しているだけのことはある。

俺は関心しつつも、今から宣告されるであろう懲戒免職に覚悟を決めた。


「え、えーっと…クビだなんてそんなこと私にはできないよ…?」


頭を下げ続ける俺に珠希は言った。


「私が速瀬さんのことをクビにすることなんて絶対しないよ…」


ボソボソと呟く珠希は、体をもじもじとさせる。

俺は下げている頭を元に戻し、考える。

クビになることはない…?

頭の中で色々な憶測が飛び交うが、全て無駄であった。

なぜなら、この珠希は速瀬の警備会社とはなんら関係ないのだ。そのことを俺が知るのはもう少し後になってからだった。


「そ…それよりも、話の続き…しようよ…」


話しを振られた俺は、頭を悩ませる。

話しの続き…だと…?

尋問はまだ続いているというのだろうか。

そうか確かに、あの時の行動だけでは、クビの理由には弱いのかもしれない。

まだ油断はできない。俺はごくりと固唾を飲んだ。


「は…話しの続きとはなんでしょうか?」


「ほ、ほらアニメの話。速瀬さん好きでしょ?私も好きなんだ…」


なるほど。その話を続けて、クビの理由をまた探るつもりだな?

しかし、そう簡単にはいかない。この視察官の機嫌を損なわず、なおかつ俺がクビにもならない方法…それは…。


「俺はアニメよりも漫画派ですけどね」


これならば、嘘ではないし、この女の思惑通りにはいかずに済むだろう。

しかし、珠希は動揺した素振りは見せない。話を切り返してくる。


「へ、へぇ…じ、じゃあオススメの漫画とかは、ある…?」


「あ…ありますけど…」


「じ…じゃあ何か教えてほしいな…」


それを聞いてどうするのだ。

いや、俺には考えつかない深い考えがあるんだろう。

人柄を探るための心理学的な何かだ。そうに違いない。

だとすれば、当たり障りのない漫画をおすすめするべきだ。そうなればこの視察官も俺が一般人であると断定するはず…。


「ワ〇ピースとか…ジ〇ジ〇とか…おすすめですね…」


どうだ?当たり障りがないところを極力述べたはずだ。

それに、この2つは大人気ながらも、俺が読んだことのある2つだ。

内容についてもし聞かれたとしても、答えられるし、何よりおすすめなのは嘘ではない。


「ワ〇ピースは名前だけは知ってるけど…ジ〇ジ〇っていうのは聞いたことないかも…」


な、なにー!?

くそっ選択を誤ったか?

極力、大衆受けしている漫画を述べたはずなのにこの視察官は知らないと言うのか。いや待て、落ち着け。こいつは知らないふりをしているだけかもしれない。そうでなければ、おすすめの漫画で人柄を探ろうなどとは企てないだろう。


「今日、帰ったら、読んでみるね…」


珠希は、そう言うと、自分のスマートフォンらしき、物をカバンから取り出し、何かを打ち込んでいた。

俺は、その行動を見て、ますます妄想が膨らんでいく。


(あのスマホで本部と連絡をとっているのか?少ないあの会話で何がわかったっていうんだ…いや待て…)


ワ〇ピースもジ〇ジ〇も少年誌。

それから導き出される答え、それすなわち。

少年誌→少年が読むもの→俺がそれを読む=子供。ということか?

つまり子供っぽいから、誘導灯を振り回すような行為をまた実行してしまうのではないか。そう予測して、もうそういう事態が起こらないよう予めクビにしておこうというそういう魂胆なんじゃないか…?


「ま…待ってください。他にもあります…」


俺は振り絞るように声を上げた。


「え、え?まだあるの?お、教えて」


「は、はい…。スパ〇ファミリーとかあとヒナ〇つりとか…」


ど…どうだ。

当たり障りがないところパート2。

そしてこの漫画達は、青年誌だ。俺が読んでいても問題はないし、なにより変なオタク感がない。

しかし、俺が述べた発言も珠希には刺さらず、ただ俺の言葉を受け流し、スマホに打ち込む手を止めない。

これもダメだというのか…

俺は消沈し、空を見上げる。


(短い人生だった…)


空は夏だというのに、どんよりとした厚い雲に覆われている。まるで今の俺の気持ちを体現しているようだった。

スマホに打ち終えたのか珠希は、俺のほうを見ているようだ。

俺はそんな珠希の目線など、知る由もなく上を眺めている。


「ど…どうしたの?」


「俺は…いつクビになるんですか?」


俺は珠希に尋ねた。

いくら視察官であれど、それくらいは教えてくれるだろう。


「え、えっと…さっきからクビって言ってるけどどういうこと?」


「なるほど…。わかりました。後ほどの連絡を待ちます…」


きっと珠希本人の口からは言いにくいのであろう。彼女はただの視察官だ。クビを宣告する上司ではない。

俺は虚ろな目になりつつも、そろそろお昼ご飯の時間になりつつあったため、昼休憩の準備を始めた。


昨日と同じく、俺の後を着いてくる珠希に、今日もお弁当を手渡される。

俺はそんな珠希に皮肉を言った。


「これが退職金代わりというわけですか?」


もちろん、4ヵ月しか働いていない俺にそんなものなど存在するはずもないが、すっかり精気を失っている俺はそんな言葉しか出てこなかった。


「退職金…?速瀬さん退職するの…?」


お前にさせられるんじゃ!と突っ込みを入れたかったが、今はそんな元気もない。

俺は弁当を受け取り、中身を確認する。


「た…退職するなら…う…うちで働く…?なんて…」


俺は珠希の呟きが耳に入らず、生返事を返す。


「それもいいですね…雇ってくださいよ」


頭がぼーっとしながら、ぼんやりと弁当の中身を見る。

ハンバーグ、プチトマト、きんぴらごぼう、ポテトサラダ。

どれも普通の色合いで美味しそうであった。

俺は、おかずに箸を伸ばすと、プチトマトを箸で器用に掬い、口に入れる。

なぜか目の前で1人で盛り上がっている様子の珠希をじっと見つめる。


「じ…じゃあ…明日、明日迎えに行くから」


何を言っているのかわからない俺は、その言葉に適当に返事をする。

プチトマトの酸味が口の中に広がって行く。

俺はその酸っぱさに思わず涙が零れそうになるのをぐっと堪えた。

そう俺は、もう明日から仕事がないのだ。

生きていくことがこんなに難しいことだったのかと痛感すればするほど、夏の生暖かい風は、俺の痛んだ足に響いた。











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