千切れ夢《side:美鶴木科戸》
「うわ……気持ち悪。まだ生きてた」
頭上で声がする。
意識が少しはっきりしてくると、自分の頬や腕に砂が付いていて身体中ザラザラしている事に気付く。部屋が汚すぎて足裏が汚れることを嫌った母親が最近は土足で部屋中を歩き回っているからだろう。
ゴミに埋もれながら床に転がっていた科戸は何とか顔を上げた。聞こえてきた声には嫌悪感が含まれている。その事実に既に心をズタズタに切り裂かれていたが、それでもまだ性懲りもなく期待した。
自分を見る目の中にほんの少しでも親愛の情が含まれてはいないかと。
「とっくに死んでると思ったのに」
「……」
芽を出した期待はすぐに踏みつけられて、泥にまみれてグチャグチャになった。
おかあさん、と心の中で呼んだ。
すると飛んできたのは返事はではなく、飲みかけのビール缶だった。
「こっち見ないで、気持ち悪いから」
缶は頭を直撃し、科戸は顔を上げることも叶わなくなった。ビールか血か、ぬるい液体が額を流れる感触がした。
「あんたがいたらアタシは一生幸せになれない」
それは母の口癖だった。
「死んだら近所の川にでも投げ捨てたらいいの?遊んでたら足滑らせましたーとか言って。駄目かなぁ……。雪女なんだから死んだら溶けていなくなればいいのに」
はぁ……とうんざりとした溜め息。
「本っ当、めーわく。あんたって生きてても死んでても迷惑。鬱陶しい……」
おかあさん。
「次にくる時までにちゃんと死んでてよ。もうこれ以上面倒かけないで……」
ギィィィと開いて、ガチャンッと閉まる扉の音。
遠ざかる足音、一度も立ち止まることなく。
科戸を世界から締め出す音。
科戸はまた独りぼっちになった。
ハッと目を開けると、そこはゴミだらけの室内ではなかった。顔を上げるとがらんと開けた視界、そして視線を下げると爆風で吹き飛んだと思われる残骸に囲まれていた。
八年前の爆発事故の現場となったアパート。科戸はその前で裸足で座り込んでいた。
「……」
まだパチパチと音をたてて至る所から煙が上がっている。熱風が瞳を舐めるのも気に留めず、その光景を凝視していた。
その時ぼんやり座り込んでいた科戸の膝の下の地面が不自然に盛り上がり、ころりと小石が転がったのが見えた。
何が起こるのか、何となく想像がついた。
案の定盛り上がった土から勢いよく生えてきた腕が科戸の首を掴み締め上げてきた。
……これは夢だ。
繰り返し悪夢を見せられている。
科戸は身体から力を抜いてぱたりと後ろへ倒れんだ。
土から這い出てきた、頭が半分吹き飛んだ母親が馬乗りになって首を絞めてくる。眼窩から飛び出た目玉が怨嗟の念を込めてこちらを見ていて、滴り落ちる怨念がぼとぼと科戸に降り注ぐ。
夢だけど、ただの夢じゃない。科戸の記憶と罪悪感を基にした
(ああ、でもこれがあの日の記憶を基にして作られているのなら……)
科戸がポケットをまさぐってみると、やっぱりあった。軽くて、耐久力はなさそうな硬さ、オモチャの宝石みたいに透きとおっている。
科戸の手のひらにすっぽりと収まっているのはどこにでもある使い捨てのライターだった。
「……」
八年前、母はこうやって科戸の首を絞めていた。その時の自分が何を考えていたのか、今はもう思い出せない。
怖かったのだろうか。
それとも悲しかったのだろうか。
母親に対する感情は一つではなく、幾層にも重なりあって心の奥底へ沈んでいる。
目を閉じた瞬間、ふっと身体が軽くなった。
「……」
目を開けると今度は銀世界が広がっていた。三度目の夢は科戸が物心ついた時から暮らしていた山奥の風景だった。懐かしい景色の中に、科戸の大切な人が立っていた。
「……ばあちゃん」
白髪まじりのを髪を結い上げて、ピンと背筋を伸ばした姿は思い出の中の祖母そのものだ。
けど祖母のいる場所には簡単には行けない。二人の間には川が流れていて、向こう岸に行くための橋も見当たらない。
「ばあちゃん!」
叫んでみるがこちらに気付く様子はない。
「ば……」
その時祖母の身体が黒い影に包まれた。
祖母の身体が変質していく。芍薬のような立ち姿の人だったのに、今は重い荷を背負わされたかの如く大きく腰を曲げ、口から赤い塊を吐きだした。
科戸は向こう岸に渡る為に、目の前の川に足を踏み入れた。水位はそれほど深くない川ではあるが刺すような冷たさだった。ガチガチと歯を鳴らしながら、必死で水を掻き分けて進む。
「……!」
その時急に誰かに足を引っ張られて科戸はつんのめった。
「……っ!」
鼻から水を吸い込んでしまって咳が止まらなくなる。生理的な涙が浮かび、視界が霞んだ。もたついているとまた強い力で水の中に引きずり込まれ、思わず咳き込むと歪な球体となった空気がボコッと口から出ていった。咳き込むと次は自然と吸い込んでしまうもので今度は大量の水を飲んでしまう。
うっすらと目を開けるとぼやけた視界の中に水底に広がる長い髪が見えた。わかめみたいに漂うその中心には見覚えのある白い女の顔。
(お母さん)
こちらを睨み付ける瞳はどこまでも暗い。
なるほど、これは厄介だなと思った。
これは母親を殺し続ける悪夢なのだ。
科戸の心が壊れるまで。
「!」
急に身体が浮上した。
誰かが科戸の腕を掴み、岸に引き上げてくれたのだ。
飲み込んだ水を吐き出そうと咳き込む。岸に上がっているというのに気管に溜まった水で溺れそうになる。
「大丈夫だよ。落ち着いて」
優しい声と決して押し付けがましくない掌が科戸の背中を擦ってくれた。
「水を全部吐いてしまって。それからゆっくり息をして」
それは冷えきった身体を隅々まで温めるような声だった。
誰だろう。
科戸の過去にこんな声の主はいない。
「怖いものはいなくなった。安心して」
悪夢に続く悪夢。からの急な転換。この温かさは次の悪夢に繋がる罠なのだろうか。
「目覚めの悪そうな夢だね。貴女の望む夢に変えてあげようか」
「……」
濡れ鼠状態で、土下座しているようなポーズのまま科戸は首を振った。
百人、千人、一万人の母親を殺しても、科戸が壊れることはない。科戸は心の凍った、冷たい雪女だから。
……もう起きないと。
そう思った時、まるでそれが聞こえたかのような返事が返ってきた。
「そう。じゃあ戻っておいで」
呼吸を整えてようやく顔を上げた時、そこには誰もいなかった。
祖母の幻影も三途の川も母も何もかもが消え去り、眩しいほどの白い雪景色が広がっているだけだった。
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