お茶会の招かざる客《side:玄葉ナキ》
応接室のソファーに浅く腰掛けた
「大丈夫?」
彼女の正面、ナキの隣に座った位空が科戸の顔を覗き込む。
「気分悪い?緊張してるだけかな」
「や、大丈夫です。すみません」
「甘いものを口にしたらきっと気分も落ち着くよ。チョコレート食べる?それともこっちの焼き菓子?紅茶に蜂蜜をいれようか?」
「位空さま。科戸は人見知りな所がありますから、グイグイ来ないでくださいませ」
ケーキスタンドを指差し矢継ぎ早に話しかけてくる位空から守るように、すかさずこのかが言った。
このかは波打つ亜麻色の髪と空色の瞳をもつ凛とした雰囲気の少女だ。位空相手に堂々と胸を張っている姿は幼いながらも屋敷の主人としての風格がある気がする。
「そうですね……皆さん神々しいくらいお綺麗でどこを見たらいいのか分からなくなります」
科戸が冗談を言っているとも思えない困り顔でそんなことを言った。
「私にまで緊張するの?」
「このかさんはまだ威圧感のない美貌で、まだ取っつきにくい感じも少なくて、今はただ可愛いです。大丈夫です」
『まだ』と『大丈夫』にだいぶ含みを感じるが、それが科戸の素直な気持ちなのだろう。
つん、とこのかが横を向いた。少し怒っているように見えた。
「外見で判断されるのは悲しいな」
一欠片も悲しそうではない声でそんなことを口にしたのは位空だ。
「僕はとっつきにくい顔をしているかもしれないけど、内面はなかなか愛くるしいものだよ」
「お前……よくもいけしゃあしゃあと」
「ねぇ、科戸さん。僕は貴女をとって食うような悪い吸血鬼ではないから、あまり緊張しないでくれると嬉しいな?」
「え、鋭意努力します」
「ありがとう」
恐縮する科戸の前で位空の手が動き、白い皿の上に茶葉を練り込んだクッキーと小さな貝の形のマドレーヌをのせていった。マドレーヌからは微かにレモンの香り。焼きたてなのだろう。
トン、とその皿は科戸の前に置かれた。
「え、すみませんありがとうございます」
「いいえ」
困ったような笑顔を見せる科戸に位空は蕩けるような微笑みを送った。
ナキの経験上、それを直視した人間は呆けたような顔になって言葉を失うものなのだが、科戸の反応は少し違った。彼女はふと笑顔を消すと、美術品を鑑賞する顔付きになった。
「位空様は……本当にお日様の化身みたいですね。直視すると一瞬で眼底を焼かれて日光網膜症になりそうです」
「……?悪口かな?」
「え?……すみません、礼讃したつもりだったのですが」
「そうなんだ?褒め言葉にしてはエッジが効いてるね」
「……すみません。口下手で……」
「口下手ともちょっと違うわよ科戸は」
「そうでしょうか」
呆れたようなこのかの言葉に科戸は首を傾げる。そんなやり取りを位空はじっと見つめていた。
いや、見ているというより……。
(何だ?)
思えばこの瞬間は性能の良いさとりの目を持つナキにとって珍しいシチュエーションである。ナキを除いた三人のうち、二人の心が見えないのだから。
このかの素直な心だけがナキの目に映る。科戸を純粋に慕う気持ち、位空の微笑みを胡散臭いと思う心(見る目あるな)。
科戸と言えば気弱そうな外見とは裏腹に強靭な精神力の持ち主らしく凍った心に綻びは見えない。位空は相変わらず、胸にぽっかりと開いた穴は底の知れない奈落の闇。
なのでナキは常人になったようなつもりでこの場を観察するしかない。それでふと思うのが位空への違和感だ。
(いつもより口数が少ないか?)
いつもなら甘ったるい言葉をで他人を酔わせて情報やら好意やらを吸い上げているところである。
いやまぁ全然喋らなくていいんだが。喋ったところでナキを苛立たせるだけだから黙っといてほしいんだが。できれば永遠に。
とは言え今日の位空には何と無く違和感を感じる。
まさかとは思うが美鶴木科戸に一目惚れとか。
…………ないか。
そんな血の通った人間のような真似が、まさかコイツにできる訳がない。笑顔に見惚れて口を挟めないなど、
その時、扉を叩く音が聞こえた。開いた扉の向こうから姿を見せたのは執事の和泉だ。
「お話し中申し訳ございません」
「どうしたの?」
「美鶴木様と話がしたいと訪ねて来られた警察の方がいるのですが……」
「警察?科戸に?」
このかが訝しげに眉をひそめた。
「八年前の爆発事故について話が聞きたいそうです。いかがいたしましょうか」
「爆発事故?」
このかの視線が科戸に向けられた。彼女は八年前のことを知らなかったようで戸惑った顔をしていた。
「爆発事故って?それに八年前って……随分昔の話だけど……」
「八年前、母が死んだ爆発事故は私がやったんじゃないかって疑われてるんです、ずっと」
「え?」
「アポもなく突然訪ねてくるなど非常識だと追い返しましょうか、美鶴木様」
和泉が言った。実直な執事はやや挑戦的な目付きで科戸を見ている。
「いいえ。このかさんが許してくれるなら、その刑事さんをここに呼んでもいいですか?」
「いいの?」
「はい、勿論」
「……分かったわ。呼んでちょうだい」
指示を受けた和泉が退室する。
来訪者が姿を見せるまでの間応接室には静粛な雰囲気が漂ったが、一度だけ位空の面白がるような声が挟まった。
「どうなのかなぁ、科戸さん。普通はね、突然刑事が訪ねてきたらもっとオロオロするものだよ。例え心当たりがなくても、何となくね」
「……」
科戸は困ったような微笑みを返答とし、視線をそらした。
刑事が訪ねてきた、と聞いた時も美鶴木科戸に顕著な反応は見られなかった。
表面的な態度も、心の変化も。
心は相変わらず凍ったまま小揺るぎもしなかった。
コンコンコンコンコン。
……ノックが多い。癖強いな、と扉に目をやり、そして現れた刑事を見てナキは内心「げっ」と思った。科戸がスッと立ち上がる。
「やぁやぁ皆さんどうも。これはこれは九堂様。お久しぶりですな。毎度どうも」
歳は五十代半ば。カマキリを思わせるひょろ長い手足と、蛇を連想させる切れ長の瞳を持った男だった。入室してくるなり特に中身のない挨拶を口にしながら、その場にいる全員の顔を陰湿な視線で舐めた。
「いやはや、九堂様。こんな所で貴方に会えるとは。ご歓談中失礼しますよ」
「ああ、どうも。構いませんよ、今日はまだ悪巧みをしていた訳ではないので」
ナキも柔らかい声音で適当な返事を返す。
「はは、まるでいつもはしているかのような口ぶりですな。ああ、これはこれは。すみませんね、突然押しかけたりして。私は佐久間と申します」
佐久間の視線は位空の隣にいたナキを素通りして今度はこのかに向けられた。
「ごきげんよう、佐久間さん」
「ははは、そんなに睨まんで下さい。何も貴方のお友達をいきなり逮捕したりしませんから。なかなか苦労されている人ですからな。近況を聞きに時々会いに来ているんですよ、ねぇお嬢さん」
最後に視線を向けられた科戸は佐久間とこのかを交互に見て、年下の友人を安心させるように微笑んだ。
「お気遣いありがとうございます」
深々と科戸が頭を下げた。本当にそう思っているような丁寧な所作だった。
そんな彼女を見る刑事の眼差しはとてもではないが境遇に同情して……などいう優しいものではない。
佐久間というこの刑事とは何度も会ったことがある。探偵のような情報屋のような何でも屋のようなことをしているナキと吸血鬼として混血に関わる位空、自分達は刑事と顔を合わせる機会が多い。
(刑事にも色々な考え、種族がいるが……)
この男は混血そのものを嫌っている。それが心からも思考からも読み取れる。職業柄ナキの能力を知りえている佐久間はこうして内心を探られていることも虫酸が走るほど嫌なはずだ。
昆虫か爬虫類系の妖怪の血が混ざっているとしか思えない外見の癖に、こいつは正真正銘純粋の人間だから。
それ故に佐久間は妖怪の血を持つ者全てを警戒している。混血は妖怪の性質に引っ張られて犯罪を犯すことも多く、持って産まれた力を悪用すれば被害は甚大になる。吸血鬼ほどの力がなくとも、その辺にいる混血でもただの人間からすれば脅威になりうるという訳だ。
近年子供が産まれると必ず血液検査を受け、混血か否か、また混血だった場合はその血の濃さを調べられるようになった。生体情報は国のデータバンクに登録され、力の強い混血は管理対象に指定される。混血はA~D、そしてSの五段階に分類され、B以上の濃い妖怪の血を持つ者は定期的に医療機関を受診し抑制剤の投与を受けなければならない。
尚、全てのS、一部のAなど抑制剤の投与を持ってしても力の暴走が懸念される者については吸血鬼による
しかし科戸はその制約の外にいる。彼女はCランクの混血で服薬も受診も義務ではない。基本的に普通の人間と同じ生活をしてもよいとされているが、それが佐久間には気に入らないのだ。こいつは全ての混血は管理されるべきだという考えを持っている。
美鶴木科戸の身辺調査の報告書にも佐久間のことは言及されていた。八年前の爆発は事故として片付けてられ、とうに捜査は終了しているというのに数ヶ月に一回科戸の前に現れては事件のことを聞いていく。
「ここにくる前に孤児院に寄ってきたんですが、院長先生がまた遊びにきてほしいと仰ってましたよ。毎月の寄付はありがたいが無理はしないように、ともね」
彼女が例え軽微な犯罪でも罪を犯せば管理対象になるから何がなんでも犯罪者にしたくて付きまとっているのだ。科戸が本当に母親の死に関わっているならこの男のほど煙たい存在は他にないだろう。
しかし科戸の表情に苛立ちは見当たらなかった。世間話でもしているかのような表情だった。
「わざわざお礼を言っていただくほどの金額でもないのですが……」
「いやいや、昔は何度も孤児院を脱走して大怪我して帰ってくることもあった子供が立派になって……と涙ぐんでおられましたよ」
そんなことしてたのか。結構意外だ。
「……孤児院?」
その時ポツリと呟いたのはこのかだった。
「科戸は孤児院……に、いたの?」
「はい」
このかは驚いた顔で科戸を見ていた。
「ああ、知らなかったんですか?お姫様。普通親を亡くした子供はこれまで通りの生活は出来なくなるんですよ」
慰めるような優しい声で佐久間が言った。
「大丈夫。貴方に孤児院に行けなんて誰も言いませんから」
「おい」
思わず咎めるような声を出すナキを佐久間は鼻で笑う。
(おや、浮いた話を聞かないと思ったらSランクのさとり殿のタイプは幼女でしたか)
地獄へ堕ちろ蛇野郎。
わざわざはっきり聴こえるように内心で呟く佐久間にこちらも内心で罵る。蛇野郎はさとりではないが大体通じたはずだ。
刑事の勘か何か知らねーが子供を傷付けて美鶴木科戸の反応を確認すんな。
「私……ダメね。想像力がなくて、無神経なことを言ったことがあるわね、きっと」
このかはショックを受けていた。自分の想像力の欠如、それから科戸が過去を話してくれていなかったことに対しても、少し。
教えられていないんだから知らなくて当然だし配慮に欠けた発言があっても仕方ないと思うが、多感な少女はそう思わなかったらしい。知らずのうちに友人を傷付けていたのかもしれないという後悔と、友人からそれほど信頼されていなかったのだという失望。少女は傷付いていたが、それを悟られまいと気丈に顔を上げていた。
「……」
科戸はじっとこのかを見ていたが、やがて口を開いた。
「美鶴木科戸、雪女の混血Cランク。産まれてすぐに祖母に預けられ、祖母と死別してからは母親と一緒に暮らしていた。その母親は八年前爆発事故で死亡。不審な点が幾つかあった為に未だに私の関与が疑われている。天涯孤独になってからは孤児院に預けられ、十八になるまでそこで過ごしていた」
「し、科戸?」
突然自らの経歴を話し出した科戸にこのかは戸惑う。佐久間も面食らった顔で科戸を見た。
「こんなものです。言葉にしてしまえば、私なんて」
「科戸」
「でも一番最初に話してしまえば良かったですね。仲良くなってからは」
不意に、科戸が言葉に詰まった。
「……仲良くなってからは、言えないものなんですね。何だか……嫌われるんじゃないかと思って、私のようなのは」
ピシッ、とひび割れる音とともに光が煌めいた。
ナキにしか見えない輝き。科戸の心を閉じ込める分厚い氷の一欠片が砕け落ちたのだ。
「……」
輝く氷の変化に気を取られていると、視界の端で黒い影が動いた。
俯く科戸の頬に触れたのは位空だ。驚いた科戸が顔を上げる。
「ああ、ごめん。泣いているのかと思って」
「いえ……」
「そう?ねぇ、佐久間刑事」
位空が扉の前に立つ佐久間に目を向ける。
「何ですかな」
「仕事熱心なのは結構ですが……貴方の言動は他者を追い詰める所がありますね。もしかして科戸嬢の職場にももう押しかけているのでは?そのせいで科戸嬢が仕事が続けられなくなったり、人間関係に亀裂が生じるようなことになればどう責任をとるつもりなんです?」
「いやいや、そんなつもりはありませんよ」
「勿論そうでしょう。貴方は市民の安全を守る警察官ですから。熱意を持って愚直に取り組んでおられる、というだけで」
「……」
「ただ科戸嬢もまた守られるべき市民の一人であるということをお忘れなく」
「ええ、ええ。忘れておりませんとも。なるほどなるほど分かりました。とりあえず一先ず今日は退散しましょう。先程も言ったとおり、今日はお嬢さんの近況を伺いに参っただけですからな。ははは」
佐久間は無意味に笑い、このかに向かって頭を下げた。
「いやはや、失礼なことを申し上げたなら謝りますよ。突然お邪魔してすみませんでしたね」
とっとと帰れ。
「お嬢さんもすみませんね。休みの日に私の顔なぞ見せて」
「いいえ、お会いできて嬉しかったです。佐久間さんは優しい方ですから」
「……」
「……」
「……」
おい、どっちだ?
嫌味か?
天然か?
判断つきかねて何となくこのかを見ると、大人びた少女は反応に困った表情のまま固まっていた。理解の範疇を越えたのだろう。
「ふむ……思わぬ評価ですな。お嬢さんには嫌われていると思ってましたがね」
「え?嫌ってません。多分佐久間さんと私は嫌いなものが似ていると思うので……共感できるところがあります」
「ほう、嫌いなものですか。何です?」
「悪人」
「ほう……」
鋭い視線を受け止めて、科戸は控えめに微笑んだ。
「なるほどなるほど。ところでお嬢さん、足長おじさんとの文通はまだ続けているんですか」
「はい。時々」
「はぁそれは良かったですね。心の支えがあるのは大切なことです」
「足長おじさん……?」
不思議そうなこのかに科戸は説明する。
「私が勝手にそう呼んでるだけです。爆発事故の時、炎の中から私を助けてくれた人と、ずっと手紙のやり取りをしているんです」
「へぇ。どんな人?」
「優しい方です。助けてもらった時、私は意識が朦朧としていて顔も覚えていませんし、名前も知らないんですけど。でも手紙の文面がとても温かいんです。今までくれた手紙、全部宝物です」
「そうなんだ。その人に会ったことはないの?」
「はい」
「どうして?」
「どうして……どうしてでしょう?多分……いや、分かりません」
「貴女にとって、根拠のない優しさに縋りつくのはリスクの高い行為なのかな」
独り言のように呟いたのは位空だ。
「あ……そうですね。理由なく優しいのなら、理由なく優しくなくなるかもしれない。会ってみて嫌われるかもしれない。それが怖いんでしょうね」
「貴女が頭を空っぽにして、身も心も委ねられるようになるのは……どんな時なのかな」
「洗脳かよ」
「信頼とか安心とか、そういう話だよ?」
「信頼。安心。お前が言うと何か不穏なんだよな」
「君って僕に期待し過ぎだよね」
「してねぇよ」
「……」
「でもいつか……会ってお礼が言いたいです」
ポツリと秘密を打ち明けるみたいに小さな声で科戸が言った時、再びノックの音が聴こえ一同は扉を見た。現れたのはまた和泉で、しかし今度は大きな花束を抱えていた。
「なぁに?綺麗ね」
「お嬢様のご学友の皆様から届きました」
「まぁ。しばらく休んでいるものね」
寂しそうにこのかが言った。本来溌剌としたこの少女にとって身辺のゴタゴタで学校に行けないのは不本意なことだろう。
巨大な花束には様々な花が使われていたが、『元気』のイメージなのか黄色やオレンジ、ピンクの花が多かった。黄色いカーネーションが所々に散りばめられている。
「メッセージカードもついてるわ」
微笑んだこのかが花束を受け取ろうとした瞬間、科戸がハッとした表情で立ち上がった。
「このかさん!」
「え?」
駆け寄った科戸が手を振り上げバシッと花束を払いのけた。
きゃあっとこのかから悲鳴が上がる。
何かが科戸のポケットから落ちた。それは科戸の足に当たり、ナキの足下にまで滑ってくる。
(……ライター?)
科戸は喫煙者なのか?煙草の匂いはしなかったが。
「このかお嬢様!」
顔色をかえた和泉がよろめくこのかを支える。
「何のつもりですか!」
怒鳴り付ける老執事の顔は睨み付けた表情のまま固まった。
「科戸……っ!」
このかが叫んだ。花束を払いのけた美鶴木科戸の左腕に
しかし科戸は自分の腕を見ていなかった。科戸の視線は床に落ちた花束を見ていた。自由に動く右手を流麗に振ると蒼い輝きが放たれ、次の刹那には花束は氷に封じ込められていた。
それからやっと科戸は自身の左腕に目を向けるが百足はふっと霞のように掻き消えてしまう。
一瞬の出来事だった。
「科戸さん。見せて」
位空が科戸の腕を取りワンピースの袖をまくりあげる。科戸の腕には百足が締め上げた痕がくっきりと残っていた。
ただの鬱血ではない。
呪詛だ。
「科戸……」
震える声が聞こえた。このかは血の気が引いて白くなった顔で動けなくなっていた。
「わ、私のせいで」
「違うだろ。こんなモンを送りつけつきた奴のせいだろ。あんたには何の咎もない」
「ふむ。それはそこの青年が言うのが正しいですな」
氷漬けの花束を検分していた佐久間も口を挟む。
しかしこのかは首を振った。青ざめた顔で、激しく。
「全部私が、全部。私が『早く帰ってきて』なんて言ったからお母様もお父様も、事故に。科戸も、私のせいで」
駄目だ。外野の声が全く聞こえていない。何も見えていない。虚空を凝視するこのかの心に黒い炎が巻き付いていく。
心の焦げる匂い、爛れて、グジュグジュと血が溢れる……。
もう一度声をかけようとした時、落ち着いた声が聞こえた。
「花束に蠱毒。古典的ですね」
ゆるゆるとこのかが顔を上げる。
位空に腕を見せながら、科戸はのんびりと何でもないことのように笑った。
「……科戸」
凍った心を抱く娘の心理はナキにはまだ見えない。けれどその一挙手一投足がこのかの心を守る為のものだとナキには分かった。
「このかさん。大丈夫ですよ。少しも痛くありません。それに私は奥深い山奥で暮らしてましたから、虫なんてへっちゃらです。寝ていたら天井から百足が落ちてくるなんてざらにありましたよ」
「嫌だなソレ」
「あはは、ナキ様意外と恐がりですね」
年下の少女を安心させる為だけに科戸は笑っているのだ。
「平気ですよ、このかさん。念の為今夜は僕のクリニックで様子を見ることをお勧めしますが、イタズラ程度の軽い呪いです。貴方を驚かすことが目的だったんでしょう」
「ね?大丈夫ですって」
ふんわり笑う科戸を固い表情で見ていた和泉が口を開いた。
「美鶴木様」
「はい?」
和泉は深く、深く頭を下げた。
「このかお嬢様を守ってくださり、ありがとうございました」
「そんな」
科戸が困ったように頬を掻く。
「では科戸さんはこのまま僕がさらっていきますよ。いいですか、佐久間刑事」
「ああ、まぁそうですな。改めてお話を伺うことになるでしょうが、先ずは手当てが先ですな」
位空に問われた佐久間は口早にそう答えると、内ポケットからスマホを取り出し電話をかけはじめた。応援を呼ぶつもりなのだろう。
「あ、じゃあちょっと行ってきます。また連絡しますね!」
このかに向かって明るく声をかけた後、科戸は位空にエスコートされながら部屋から出ていった。
長い廊下を、体調を気遣う位空に言葉を返しながら進み、途中擦れ違うまだ事情を知らない使用人達の不信感たっぷりの眼差しに笑顔で挨拶し、エントランスを抜けた先でじゃれついてきたマリーの頭を嬉しそうに撫で、そうして辿り着いた車の後部座席に乗り込んだ瞬間、科戸は倒れ込んだ。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
「いえ。すみません……お手間をかけまして……」
目を瞑ったまま、ほとんどうわ言のような科戸の言葉。
「……」
何がへっちゃらだ。
何が、イタズラ程度の呪いだ。
嘘つきどもめ。
雪女の氷心、さとります。 のむらなのか @nomurananoka
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