夢の跡《side:美鶴木科戸》

 「科戸さん」

 清涼な声で悪夢が断ち切られた。

 意識が急浮上する。

 目を開けてみればベッド柵の向こうに、こちらを見つめる位空の姿が見えた。

「……」

 鼻根の辺りにぬるい液体が流れるのを感じた。

 血?ビール?

 ここが本当に現実なのか確信が持てなくて、やや混乱しながら顔を拭うと指先を濡らす液体は赤ではなく透明だった。

「汗」

「涙じゃないかな」

「涙……」

 指摘されて初めて科戸は自分が泣いていることに気が付いた。

 パイプ椅子に腰かけていた位空が立ち上がり、枕元にあった箱からティッシュペーパーを抜き取って顔を拭いてくれる。頬を支える温かい手が心地よく、ぼんやりとされるがままになっていたがすぐに正気を取り戻した。幼い子供でもあるまいし。すみません、と恐縮しながら位空の手からティッシュを引き取った。

 辺りを見回すと目に映るのはベッド、白いシーツ、白い枕、白い布団。ソファー、テレビ。時間は分からないが窓の外は真っ暗だった。枕元についた小さな明かりだけが室内を照らしている。

「病院……?」

「大丈夫。このかさんの前では倒れなかったよ」

 こちらの混乱を感じ取った位空にそう言われた。もぞもぞと布団の中から左腕を引き抜けば、くっきり残った黒い痣が記憶を呼び戻してくれた。そういえばこのかさんの身代わりに呪いを受けたんたった。

「気分はどう?身体にどこか違和感はある?」

「いえ……」

「僕の顔見える?」

「はい」

「格好いい?」

「はい」

「うん。ちゃんと見えてるね」

 にっこりと笑う位空を見て科戸は瞬きした。位空の声は穏やかでこちらを気遣ってくれているのが分かった。彼の声が吐き捨てるような声でなかったこと、冷たい視線ではなかったことに自分でも意外なほどに安堵して、初めて彼に向かって肩の力が抜けた微笑みを浮かべることができた。

「ありがとうございます」

「……俺は何もしてないよ。このかさんを助けた勇敢な人は貴女だ」

「このかさんに優しい嘘を吐いてくれて……あの人がこれ以上余計な傷を負わないように話を合わせてくれました」

「嘘?ああ、ただのイタズラだって言ったこと?それならお礼は必要ないよ。あれは彼女の為に言った訳じゃないから」

 衣擦れの音がした。

 科戸が顔を上げる前に優しい掌が頭を撫でた。

「……」

 妙な感覚が胸を擽った。

 遠い昔にも……こんな風に撫でてもらったような気がする。不思議だな。そんな事実はない。脳みそが過去を改竄しようとしているのだろうか?

「僕はね?本来あんまり嘘は吐かないんだ。本当のことを言わない時はあるけど、基本的には正直者……誰かさんには『それが嘘だろ』と言われそうだけど。でもそれは多少の嘘は吐くんじゃないかな?生きていればそういう時もある。そうでしょう?」

 正直者と言ったにも関わらず、舌の根も乾かぬうちに多少の嘘は吐くものだと笑う。むしろ嘘を吐くと自己申告するのは正直者の証、とでも言いたげだ。

 それはちょっとペテン師の理屈じゃないかな……。

 どう返事をしようか迷っていると、先に位空が唇を動かした。


「貴女の吐く嘘は美しい」


 その一言で頭が冴えた。何故位空がそんなことを言ったのかは分からない。顔を上げて吸血鬼の双眸を見つめた。

「その嘘を一枚ずつ剥ぎ取って本当の貴女を見つけてあげたいな」

 何もかも知っていると言うような口ぶりだった。この人は何か知っているんだろうか?

 八年前、科戸が吐いた嘘について?

 この人はこのかさんの守護者だから、科戸がどういう人間なのか知る必要がある。そして科戸の人間性を判断するには犯した罪を並べてみるのが手っ取り早いだろう。例え一万回善行を積んだとしても一回殺人を犯したら、こいつは人非人だって、そういう判断になるはずだ。

「おや、目が覚めたって顔だ。眠気が去ったのなら少し話をしようか。このかさんについてと貴女の中に根付いてしまった呪いの話」

 位空はにこりと笑って話題を変えた。彼が何を考えているのか科戸には分からない。

 彼はとても美しい顔をしているけれど、顔ってただの皮だから。仮面だ。本当の顔は、心は見えない。

「深際邸に届いた花束だけど、結論から言うと学友の贈ったものではなかったよ。このかさんを元気付ける為にプレゼントを贈るっていう話はあったみたいで、その事は屋敷の者も聞いていた。だから花が贈られてきた時によく確認せずに渡してしまったみたいだね。けど実際は学友達はまだ何を贈るか話し合いをしている段階で、あれを贈ってきた人間は不明」

「そうですか……」

「それじゃあ今度は僕が教えてもらいたいな?どうしてあの花束に呪いが仕込まれていると気付いたの?」

 吸い込まれるような深い碧眼に見つめられて、科戸はふるふると首を振った。

「いえ、呪いとは考えてもみなかったです。ただ……黄色いカーネーションがたくさん使われていたので、珍しいなと思って注視していただけです」

「黄色?」

「黄色いカーネーションは贈り物には向かない花ですから。花言葉は『軽視』、『軽蔑』。あまり良くない意味なので。だから呪いとかじゃなくて……もしかしたら、このかさんが学校でいじめられたりしてるんじゃないかと、一瞬。けど位空様の話を聞く限りそちらは杞憂のようですね。早とちりで良かった……」

「良くはないね、貴女が呪われているんだから」

「私はいいんです。丈夫なので」

「そういう問題じゃないなぁ……」

 いや、百足に咬まれたのが自分で良かったと科戸は心底思った。

「次に貴女にかけられた呪いの話だけど、それは心を蝕む呪いだね。呪い自体に強い殺傷力があるわけではないが、心の中にある負の感情を引きずり出して増幅させる。匂いや痛覚まである生々しい夢を見たはずだ。その悪夢にもっと深く、重く心を囚われてしまえば永遠に目覚めることはできない。心の破滅は肉体の死に繋がる」

「……」

「一見回りくどく感じる呪いだけどメリットもあるよ。一番の利点は使われる術量が少ないから足がつきにくいこと。この呪いで人が死んでも痕跡を辿って犯人を特定するのは困難だろう。それに両親の死に少なからず責任を感じている今のこのかさんにはとても効果的な呪いだ」

「責任……」

「仕事で家をあけることが多い両親に早く帰ってきてって言ったんだ。家路を急ぐ深際夫妻の乗った車に居眠り運転のトラックが突っ込んできた」

「そんなのは」

「そうだね、ささやかな願い事だ。わがままにもカウントされない。けどこのかさんはずっと自分があんなわがままを言わなければと思ってる。清らかな少女の心が呪いに囚われ罪悪感に押し潰される様は、地に堕ちてもがく小鳥のように可憐だろうね」

「……位空様」

 吸血鬼に視線を投げると返ってきたのは完璧な微笑みだった。

「冗談だよ。今は貴女の話だ。呪いを解きたい。貴女の中に俺を招いてもらえる?」

「招く?」

「そう。その呪いが巣食っているのは貴女の心の中だ。外科的な治療を行う際に病巣を切って取り除くように、解呪するにはまず心を開いて呪いを見つけ、それから切除しないといけない」

「私の心に入るという事ですか?」

「うん。入れてくれる?」

「……」

「貴女の心の見られたくない場所には踏み込まない。ただ呪いを解きたいだけ」

 位空の口調に焦りは見えないが、思いの外眼差しは真剣で科戸が適当な言葉を並べて言い逃れることは不可能に思えた。もしかしたら本気で自分を心配しているのでは?と思ってしまうような声だった。

「え……っと」

「真剣に考える必要なんかない。どのみち断られたらアンタが寝てる間に不法侵入するつもりの悪辣な奴だから」

 唐突に割り込んだ声の主に科戸は視線を向けた。

「ナキ様。こんばんは」

「あー……身体大丈夫なのか」

「はい勿論。ここ数年で一番の絶好調です」

「息するように嘘吐くなよ。どう見ても顔色悪いだろ」

 呆れ顔の青年は廊下の薄闇から姿を現した。廊下に彼がいることは科戸も気付いていた。ナキも別に隠れていた訳ではないようだから、位空と話している最中も廊下からスマホの画面の光が見えていたり、「ああクソ禁煙か」という呟きが聞こえていたりした。

 科戸は位空のクリニックとやらの全貌を見ていないので建物の規模が分からないが、今院内にいるのは自分たち三人だけなのだろうか。

 とても静かだった。

「やぁ、玄葉さん。君って意外と健康的で規則的な生活を送っているから、もしかして今とってもお眠なんじゃない?」

「おい。馬鹿にしてんだろ」

「そんなことないよ。夜行性だった吸血鬼ぼくらも太陽を克服して久しい。今では昼型の生活をしている者も多いよ」

「どうでもいい」

「ひどいな」

 位空が楽しげに笑った。

「ああ、それでね科戸さん、話の続きだけど。どうやって貴女の心に入るのかっていうと」

「はい」

「簡単だよ。活きのいいさとりを一匹用意するだけ。妖力の高いさとりは心を読むだけじゃなくて心を視る。心の中に入る扉を見つけることが出来るんだ」

「でもさとりは……」

 さとりという種族は滅多に会うことはできない。心を読めることを知られるのはトラブルの元で、さとりだなんて堂々と名乗る人はいない。

「大丈夫。そこにいるから」

 それこそまるでさとりの如く科戸の心を読んで位空が言った。視線の先に立っているのはナキだ。

「だから言うなって」

 ナキが嫌そうに顔をしかめた。

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