邂逅《side:深際このか》
今日は朝から騒がしかった。
自分の後見人である九堂位空が来訪するからだ。
いつも以上に入念に掃除された屋敷、磨き上げられた銀食器、いたるところに飾られた花、頭から爪先まで美しく整えられた自分……。
何もかも完璧にしなくてはならない。
位空は後見人というより庇護者である。
彼の後ろ楯を失えば、この家はあっという間に他家に取り込まれてしまうかもしれない。だから位空の機嫌を損ねるわけにはいかない。
のだが、このかはやる気がでない。
勿論、わざと非礼をはたらくような真似はしない。自分を愛し育ててくれた両親、慈しんでくれる使用人たち、みんなを悲しませるようなことはしない。
しないが、積極的に媚を売る気もなかった。
このかは位空が嫌いである。昔からだ。父の友人としてこの屋敷に訪れている頃から、彼の目が嫌いだ。生まれながらの王のような目。それなのに愚者を気取っているような振る舞い。
そのことを生前の父に話すと、父は困り顔で諭すように言った。
(……なんて、言っていたかしら)
思い出せない。その後抱き締めてくれた腕の中の温かさだけ、はっきりと覚えている。
……父の力強さも、匂いも、母の優しい声も、料理の味も、忘れないように、絶対忘れないように、毎日思い出しているのに、いつか忘れてしまうんだろうか。
喪失の悲しみも、痛みもいつか溶けて、失くなってしまうんだろうか。平気になってしまうんだろうか。
そう考えると、このかは急に目の前が暗くなって、足元がぐらぐらと揺れて、歩けなくなる。
「……っ」
その場にしゃがみこんで、このかは呼吸の仕方を忘れて溺れかけた。
「ま、ま。パパ……っ」
「このかさん」
「!」
急に至近距離から呼び掛けられて、このかは心臓が飛び出るかと思うほどに驚いた。
「ごめんなさい。ノックはしたんですけど、返事がなかったので勝手に入りました」
「……
「はい」
空から舞い降りてきた雪でさえ、もう少し自分の存在を主張している。そう思う程に気配もなくいつの間にか
覗き込んでいるのに彼女の表情が分からないのは、科戸の前髪が長すぎて目元まで覆ってしまっているからだ。
このかはゆっくりと手を伸ばし、科戸の前髪を掻き分けた。
黒髪の向こうの化粧っけのない
印象的なのはその瞳。冬の澄んだ星空みたいにキラキラとした黒目なのだ。……少し、マリーに似てる。
それを口にすると科戸は笑った。
「マリー?このかさんの所のワンちゃん?」
「……失言だったわね。犬に似てるだなんて」
「マリーはこのかさんの大切な家族でしょう?そんな大切な子に似てるって言ってもらえて嬉しいです」
おっとりとした口調でそう言い、目を伏せるように微笑む彼女は昔話なんかから想像する雪女のイメージからは程遠く、纏う雰囲気は緩かった。このかの手が離れるとまたパサリと前髪が落ちて表情を隠してしまう。
「科戸、前髪切ればいいのに」
「やー……ないと落ち着かないので」
「せっかく可愛いんだから、もっと晒したらいいじゃない」
「え。心臓止まりそうなくらい嬉しいです」
「受け止め方が重過ぎるわ」
「冗談でした?」
「本気よ、もう……」
「ふふ、お世辞でも嬉しいです」
「だからお世辞じゃ……はぁ、もういいわ」
怒り顔と呆れ顔の真ん中の表情で、このかは溜め息をついた。
「今日はお屋敷の皆さん忙しそうですね」
「そうね。私の後見人が来るから」
「何故そんな渋いお顔……?というかそんな大切なお客さんが来る日ですか?そしたら私」
「いてね、科戸」
「いや、邪魔でしょう」
「いてよ」
科戸が困った顔をしているので、このかは正直に白状した。
「お父様の友人だった吸血鬼族の方なの。少し……苦手なのよ」
「あらー」
「笑い事じゃないのよ?」
「どんな人なんですか」
「……いつもキラキラ笑ってて胡散臭くて、いつも甘ったるい言葉ばかり並べてて……とにかく嘘臭いの」
「ふふ。でもこのかさんのお父さんがこの世で一番信頼できると思った人なんでしょう?貴方の後見人をお願いするくらい」
「まぁ……それはそうなんだろうけど……」
ブスッとしている名前を呼ばれた。
「このかさん、このかさん」
「何?」
「まだ時間があるなら気分転換に散歩でも行きませんか?お日様の光を浴びて身体を動かしましょう。私、このかさんの家のお庭好きです」
柔らかい声だった。提案であって、強制ではない。嫌よ私は部屋の中で過ごしたい気分なのと言えば、分かりましたと同じ声音で返事が返ってくるだろう。
けれどこのかはその提案に乗ることにした。花が好きだった母の為に父が作った庭園を褒めてもらうのは素直に嬉しい。
「いいわね。行きましょう」
「はい」
立ち上がった科戸が扉を開けた。
メイドか誰かに散歩に行くことを言付けるべきだろうか。少し考え、まぁいいかと思った。
庭園を少し歩くだけだし、構わないだろう。
その判断をこのかが後悔したのは、部屋を出て一分後の事だった。
絨毯の敷かれた長い廊下を二人で他愛ない話をしながら歩いていると、後ろから声がかかった。執事の和泉の声だ。いつもは穏やかな老執事の声がこの時は焦りと怒気を孕んでいた。
「このかお嬢様!」
何、と振り返る暇もなかった。
気が付くと、このかと科戸を分断するように和泉が立ち塞がっていた。
「どこに行かれるおつもりですかな、美鶴木様」
怒っている。
いつも優しい分、怒った時はとても怖い。それをこのかはよく知っている。
仕事で忙しく、家を留守にすることが多かった両親。その代わりにずっと側にいてくれたのはこの忠実な執事だったのだから。
「あ……」
何と声をかけようか迷っている間に、先に口を開いたのは科戸の方だった。
「外の空気を吸いに、お庭に向かっている所でした」
「このかお嬢様が外に出るときは護衛が必要です。それが自宅の庭であっても、です。軽率な真似は控えていただきたい」
「はい。すみませんでした」
反論せず、深々と科戸が頭を下げた。
「こんなことを言いたくはありませんが、貴方とお嬢様では住む世界が違います。貴方の浅慮はお嬢様を危険に晒します」
「……っ」
科戸はこの屋敷のメイドではない。彼女はこのかの友人だ。いや、例え新人メイドであっても和泉がこんな風に一方的にしかり付けたことなどないのに。
科戸はこの家の事情など知らない。
このかの母親が人間であることも、得体の知れない組織がこのかを付け狙っているかもしれないことも、何も話していない。このかがこの家に閉じ籠っている理由は、莫大な遺産を相続したことで身辺がゴタゴタしているから、と科戸には話している。
科戸が責められる謂れはないのだ。
……悲しみやら悔しさやらが入り交じった衝動的な感情に突き動かされてこのかが口を開きかけた時。
面白がるような声が聞こえた。
「女性を泣かせるのは感心しませんね、和泉さん」
それほど大きい声という訳でもないのに、どんな音よりも優先的に耳に飛び込んでくる。一言一句聞き漏らしてはならない、そう思わせるほどの魅力的な声。
本物の吸血鬼というのは皆そうなのか。
「……位空さま」
廊下を悠然と歩いてきたのは、このかの後見人である吸血鬼だった。一種の暴力のような美貌の持ち主。
見るたびに背格好が異なる位空であるが、今日は二十歳くらいの青年に見えた。
後ろに誰か連れている……?
「こんにちは、このかさん。しばらくお会いしないうちに一段と可愛らしく……というより綺麗になりましたね。お母様によく似ている」
「ごきげんよう、位空さま。お褒めにあずかり光栄ですわ。ですが昨今あまり女性の容姿について言及なさらない方がよいのでは?セクハラだのなんだの面倒な時代ですから。位空さまが世の女性から反感をかわないか、とても心配です」
ああ、何と言う口の聞き方を……とでも言いたげに和泉が天井を仰いだ。しかし自分のような小娘に生意気な口をきかれたぐらいでは位空の微笑みは一片たりとも曇らない。
「不快な思いをさせてしまったなら謝罪します。お母様とよく似た清廉な美しさに、敬意を払いたいと思ったんです」
「……これから気を付けください」
「ふふ。……ところで、僕にそちらの可憐な……おっと失礼、お嬢さんを紹介していただけますか?」
「科戸のことは可憐なお嬢さんで問題ありません。実際可愛いのですから」
つんと言い放つと、位空の斜め後ろに控えていた青年が少しだけ笑ったような気がした。
勿論位空は科戸の屈託のない笑顔が可愛いことなど知らないだろう。もはや枕詞のように『可愛い』だの『綺麗』だのと言っているだけで、本当は他人の容姿に興味などないように思える。しかしそんな彼の称賛であっても科戸には浴びせてあげてほしいと思った。少しでもそれが科戸の自信になればいい。彼女はよく『自分なんか』っていうから。
「こちらは私の大切な友人、美鶴木科戸さんですわ」
「……」
紹介された科戸といえば、和泉に謝った後は自分の役目は終ったとばかりに気を抜いていたようで、戸惑った様子でこのかを見た。
「科戸。こちらは私の父の友人だった方で、今は私の後見人を引き受けてくださっている、九堂位空様」
「あ、はい。はじめまして」
先程謝罪した時より一層深く、科戸は頭を下げた。大抵の人は位空を見ると魂をぬかれたようにボンヤリしてしまうが、科戸はそもそもあまり位空の方を見ていなかった。顔を上げた時にようやく彼の顔を見て控え目に笑った。
位空は……その一挙手一投足をじっと見つめていたが、顔を上げた科戸と目が合うと結局「はじめまして。よろしく」とだけ言った。少し意外だった。てっきり無駄にキラキラした笑顔を振りまいて、歯の浮くような台詞を並べ立てると思ったのに。位空は誰にでも、いつもでもそうではないか。深際邸のメイドは全員ナンパ、いや……浮わついた言葉、ではなく、お褒めの言葉をいただいている。
しかし今日の位空はふいっと科戸から視線をそらすと、このかを見た。
「ああ、このかさんもさっきから気になっていますよね?今日は僕も連れがいるんですよ。紹介させてください」
位空が半歩身体を横にずらすと、彼の後ろに立っていた青年の姿がはっきり見えるようになった。
「玄葉ナキです」
名乗った彼を見て、このかは微かに息をのんだ。
ナキが……とても美しい青年だったからだ。このかも吸血鬼の端くれで、容姿端麗な吸血鬼たちを見慣れているはずなのに。
銀色の髪と藍紫色の瞳。ジャケットに包まれた均整のとれた体つき。二十代半ばに見える青年は人に慣れない孤高の狼を思わせた。温室で育てられた薔薇の如き美しさを持つ吸血鬼と違って、人知れず咲く野生の花、そういう類いの美しさだった。
位空と並び立つとまるで神話から抜け出した光景のよう。無意識に圧倒され、立ち尽くしてしまっていた。
……ただ一つ気になったのは首にチョーカーをしていること。
「……」
ふと、視線を感じた。
「……?」
頭を巡らせると科戸がこちらを見ていた。目元は見えないけれど「大丈夫?」と聞かれたような気がして……何だか背筋が伸びた。
この年上の友人を安心させたいと思ったら、自然と笑顔がこぼれていた。少しぎこちなかったかもしれないけれど。
このかはナキに向き直り、挨拶を口にする。
「はじめまして、ナキさま。深際このかと申します」
「よろしく」
「位空さまのお友達ですの?」
「いえ、恋人です」
爽やかに位空が言った。
途端、ドス、と鈍い音がした。
不思議に思いながら音源を見遣ると、ナキの拳が位空の脇腹にめり込んでいた。呆気にとられて位空の表情を確認するが、彼は楽しそうに笑っている。
「情熱的でしょう?」
「……こいつの、いつもの、常軌を逸した冗談だから気に留めず記憶から抹消してくれ、今すぐに」
殺意を含んだ声でナキが言うが、位空は振り返りナキの手を両手で包み込むようにして握った。
「ナキ、僕は君を誇りに思っている。恥じる事は何もない、むしろ君の存在を皆に自慢したいと思っている」
「し……っ」
し?
ナキは何かを言いかけて、少しの間を置いて、苦労してそれを飲み込んだ。ように見えた。
位空はナキの顔を下から覗き込みながら、手は握ったまま、優しく語りかける。
「君も種族の違いや身分なんか気にしなくていいんだよ。愛があればきっと乗り越えられる」
「何だその浮かれきって思考を放棄した、希望的観測のみの無責任な台詞は」
「そんなことはない。きちんと君を守りたいと思ってる。ああ……すみません、皆さん。僕と彼の間で、少し意見の相違があったようです。彼が誰のものか知らしめたくて、つい気がはやってしまった」
位空はナキの手を離し、するりと腰を抱いた。
ナキは……どうにもそうは見えないのだけれど、照れているだけで……本当は嬉しいのだろうか。
足元から巨大な毛虫が這い上がってきているのを堪えているかのような顔をしているけれど。
和泉はベテランの執事らしく目を逸らしている。科戸もそれに倣って不自然に目線を外したのが何だか可笑しかった。
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