車中にて《side:玄葉ナキ》
白い紙の上に印字された文字は乱れることなく整然と並んでいる。当然だ。
そこに記された彼女の生い立ちがどれだけ波乱に満ちたものであっても。
美鶴木科戸の生い立ちを語るならば、まず科戸の祖母と母親について知っておかねばならない。
美鶴木科戸の祖母がそうであったらしいと資料には書かれていた。雪女の血が流れる美鶴木家の系譜の中で燦然と輝く才能の持ち主であったと。
才能豊かな女傑。
不協和音が生じたのは未婚のまま子を孕み、その子を産んでしばらく経ってからのことだった。順風満帆だった彼女の人生に予想外の問題が降ってきた。それは親なら誰しもがぶつかる、当たり前で平凡な悩みであったかもしれない。しかし彼女にとって己の努力ではどうにもならない問題というのは初めてのことだったのだろう。
……我が子が、娘が彼女の才能を受け継いでいなかったのである。
努力しても期待通りに育たない、という事実を彼女は受け入れることができなかった。
彼女は娘の才能を開花させることが娘の為になると本気で信じていたに違いない。故に厳しく育てる。
しかし娘が大きくなるにつれて反抗するようになると、母子の関係はどんどん悪化していき……やがて娘は家を飛び出した。
再び娘と母親が顔を合わせたのは、それから三年後のこと。娘は腕に赤ん坊を抱いていた。
『今度は失敗しないといいわね』
そう言い捨てた娘は赤ん坊を置いてまた姿を消した。
……こうして美鶴木科戸は産まれてすぐに祖母の家に預けられ、そこで暮らすことになる。人里離れた山奥での祖母と二人っきりの生活がどのようなものであったかまでは報告書には書かれていない。
科戸の人生に転機が訪れたのは七歳の時。
祖母が急死したのだ。
科戸は母親に引き取られ、祖母の家から遠く離れた町の、六畳一間の古いアパートに移り住むことになった。
しかし科戸の母親がそこに帰ることは滅多になかった。母親は毎晩飲み歩き、異性の友人の家に泊まることが多かったからだ。時折気紛れのようにアパートに帰っては少しの食料を置いて、また出ていった。
「……」
ナキは資料をぱらりと捲る。
文字をなぞる指先が止まるのは、科戸が十歳の誕生日を迎えた日の記述。
『アパートで爆発事故。巻き込まれて母親が死亡』
爆発の原因は不明。
科戸は通行人に運良く助けられたが、大怪我を負い暫く入院している。
……その後退院した科戸の面倒を見る親族がいなかった為養護施設に入り、今年の春、十八で施設を出るまでそこで過ごした、とある。
「車に乗っている時にそんなものを読んでいると気分が悪くなるよ」
信号待ちをしている車内でハンドルを握る位空が言った。前回会った時は子供の姿だったが、今日は青年のなりをしている。会う度に姿形が違うなど吸血鬼にとっては当たり前の事だ。
和泉から依頼を受けて一週間後、ナキは深際邸へ向かう車の助手席にいた。この変わり者の吸血鬼はお抱えの運転手を雇える金と身分を持っているくせにどこに行くにも自分で運転したがる。
「まぁ、確かに気分は悪くなったな」
ナキは窓枠に片肘をつき、無愛想に言葉を返した。
「……」
「玄葉さん、怒っているんだね」
「別に」
「見ず知らずの少女の為に、愛されなかった少女の為に、燃えるように怒る君はとても美しいよ」
「死ね。生き返ってもう一回ひどい目にあって死ね」
「刺々しいなぁ」
信号が赤から青へと変わる。
過ぎ去っていく景色を眺めていると、位空が口を開いた。
「爆発事故の怪我は命に関わるものではなかった。けれど母親からネグレクトを受けていた科戸嬢は衰弱が激しく、助け出された時、骨と皮ばかりだったそうだよ」
「……爆発事故の原因は本当に分からないのか?」
「ガス漏れでもなく、爆発物が持ち込まれた形跡もない。けれど科戸嬢は混血だからね。妖怪の異能を使えば普通の子供にはできないことができる、かもしれない」
「混血って雪女だろ。爆発なんて起こせるか?」
「十歳の虐待された子供は疑えない?もし罪があったとしても無罪かな?」
「そんなこと言ってない。勝手に人の心情を捏造するな」
「当時から一番疑わしいのは彼女はだからね。子供とはいえ徹底的に調べられているはずだよ。けど彼女の妖力はそれほど強いわけではなく、まぁ身体に不調が出れば抑制剤を処方しましょうというレベル。爆発を起こせそうな特殊な能力も認められなかった」
「なら」
「ダメだよ、玄葉さん。報告書に目を通しただけで、そんなに彼女に同情的ではね。あなたはぶっきらぼうに見えて、実は心根の優しい善人だから、そうやってすぐに憐れむ」
「お前……今日はやけに絡むな」
ナキは違和感を覚えて位空を見た。位空は真っ直ぐに前を見ている。
高い鼻梁から形の良い唇までの完璧なラインは彫刻のようだ。他人を誑かす為にどれだけ嘘臭い笑顔を張り付かせるた所で、彫刻に感情や温度は宿らない……はずだが、今のこいつは不機嫌そうに見えた。
心が露出している。
感情の揺らぎが陽炎のように立ち上っている。そして一瞬、世にも奇妙なものを見た。
「……」
見間違えたのだろう。
と、ナキは結論付けた。ほんの一瞬姿を見せた感情は、この吸血鬼に何より縁遠いものだったからだ。
この男が……不安など、感じる訳がない。
「……」
「どうしたの、玄葉さん」
「あ?」
「僕から目が離せなくなっちゃった?勿論いくらでも見つめてくれても構わないけれど」
……やはり見間違えただけだったのだろう。いつも通りだ。いつも通り、のらりくらりとふざけた態度、こちらを最高に苛つかせてくれる。
「まぁ、そんなに怒らないで。機嫌をなおして。あちらではお行儀よくいてもらわないといけないからね」
深際邸への訪問の表向きの理由は定期的な面会ということになっている。位空が深際このかの後見人を務めているから怪しまれる心配はないが、本当の目的は美鶴木科戸に会う為だ。和泉からの情報では、今日の午後、科戸が屋敷を訪れるらしい。
「美鶴木科戸は施設を出た後、一人暮らしを始め、診療所の受付として働いているんだったな」
「そう。病院が休みの日よく屋敷を訪れるらしい。今日も来るみたいだね」
「お前がこのか嬢に面会するのは別にいいとして……俺は何だ?使用人か?何か設定あんの」
「うん。ちゃんと考えてるよ、心配しないで。まぁ……このかさんも俺と二人きりより誰かいた方が好都合だろうから歓迎してくれると思うよ?」
「好都合?」
「僕何故か彼女には小さい時から嫌われているんだよね」
「へぇ?お前が?」
ナキは正直少なくない驚きを覚える。相手が子供とはいえ、女から位空が嫌われるとは珍しいこともあるものだ。軽い衝撃の後、むくむくと不信の芽が芽吹いてきた。
「お前……笑えない事をしでかして、それを見られたんじゃないだろうな。母親に横恋慕して手を出そうとしていたとか、父親を脅していたとか……」
「あはは、まさか」
快活に笑って見せるが果てしなく胡散臭い。もし深際このかが、こいつの笑顔が信用できなくて嫌いだというなら幼いながらとても見る目があると言えるだろう。
「玄葉さん」
位空に名前を呼ばれた。
「思ってること、全部顔に出てるよ」
聞き流していると、ふとあることに気付いた。先程からずっと同じ景色が続いている。景色というか、壁が。
車が滑るようにカーブを曲がり、それから静かにエンジンを止めた。
「深際邸に到着、と。さて、では行こうか」
「……」
見上げると、広大な緑の庭園の向こうに陽光に照らされた白亜の屋敷が見えた。
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