【肆/妖精の女王】
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蛍さんの家は、懐かしい森の砂利道を抜けた場所に、鈴懸と胡桃の大樹に囲まれて、昔と変わらない姿で建っていた。
赤い屋根に煉瓦の壁、童話に出て来るような魔女の家。
鮮やかに記憶が甦る――部屋に置かれていたラベンダーポプリの匂いが、一瞬、辺りに香ったような気がして胸が騒いだ。
家の四方に広がるのは明るく開けた人工の森だ。等間隔で椎や橡(くぬぎ)や楢(なら)、柏や栗など、雑多な樹々が植えられ、豊かな下草が隙間なく繁っている。玄関アプローチとガレージに続く通路は煉瓦で舗装されているが、家の敷地と森を隔てる壁は無く、森に埋もれてしまいそうに見える。南に向いた前庭はイングリッシュガーデンになっていて、初夏に咲く薔薇が満開の見頃だ。そういえば、蛍さんは植物の世話が得意な人だった。庭に植えられた草花や、花を咲かせる樹々は瑞々しく手入れが行き届いている。
思い出に引かれて、家屋の向こう側、枝を広げている森の樹々に視線を転じる。裏庭は小高い斜面の森に続いていて、よくそこで鹿を見た。僕の部屋は二階の奥で、裏庭に面していたのだ。
この家で、九歳の僕は八月から十二月までの五か月間を過ごした。
あの五か月間は、僕の人生でもっとも穏やかで温かく幸せだった時期だと思う。蛍さんは夢に出て来る妖精の女王のように優しかったから。
家の西側に生えている大きな胡桃の樹を見上げて思い出す。蛍さんと一緒にこの胡桃の実を拾ってクッキーやガレットを焼いた。母さんが買ってくれなかった甘いチョコレートも、クリームたっぷりのケーキも、綺麗な本も、オモチャも、自転車も、万年筆も、蛍さんは買ってくれた。蛍さんは僕をとても可愛がってくれた。
怒鳴り声も、すすり泣きも聞こえない、静かで穏やかな家。
僕は蛍さんを好きだった。この優しい家に、ずっといたかったのだ。だから祖母が迎えに来た時、蛍さんに捨てられた、と――
ガチャッ、と錠を外す音が響き、玄関のアンティーク調の扉が開いた。
黒い麻のシンプルなワンピースを着た女性が現れる。
蛍さんだ。
「久しぶり、蒼依くん。大きくなったわね」
時間が巻き戻ったのかと思った。七年前と変わらない姿。肩のラインで切り揃えられた真っ直ぐな黒髪。清楚な印象の知的な美人だ。あの頃も、蛍さんはいつもスッキリしたデザインの黒い服を着ていた。
「お久しぶりです」
軽く会釈をすると、蛍さんは目を細めた。
「懐かしい。ずっと会いたかったわ。どうして遊びに来てくれなかったの?」
「あの、機会が無くて……」
そうよね、と優しい声音で言って、蛍さんは今度は朔良さんに顔を向けた。
「朔良くんも、よく来てくれたわね。東京から遠かったでしょう?」
「いえ、ご無沙汰していてすみません」
さすがの朔良さんも、蛍さんの前ではかしこまっていて少しはマトモに見える。さっき買い直したシャツはシンプルなカーキ色のボタンダウンで、袖を折って着崩すと意外と朔良さんに似合っていた。髪が淡いミルクティー色でさえなければ、落ち着いた大人に見えたかも知れない。
くすっ、と蛍さんは曖昧な笑い方をした。
最後に月ヶ瀬さんを見て、あら、と蛍さんは小首を傾げた。僕の友達も一緒に行くと祖母が電話で伝えてあるはずだが、女の子だとは思っていなかったのかもしれない。
「こちらのお嬢さんは?」
「Enchantée. Je suis vraiment ravie de vous rencontre.(初めまして。お会いできて嬉しいです)」
「え?」
思わず声を上げてしまった。
月ヶ瀬さんは謎の呪文を唱えて舞台挨拶のように胸に手を当てお辞儀をした後、顔を上げて、端正な微笑を浮かべた。長い黒髪がさらりと流れて綺麗だ。
「月ヶ瀬柊という。蒼依くんの親友だ。よろしく頼む」
蛍さんは、まあ、と言った後、上品な外見に似合わない軽妙な口笛を吹いた。
「すごいわね。どこの言葉? 何て言ったの?」
「フランス語で『初めまして。お会いできて嬉しいです』と挨拶させて頂いた」
月ヶ瀬さんはしれっと言い、蛍さんは僕に向かって片目を瞑る。
「面白い子ね。蒼依くんの彼女かしら?」
にっこり微笑んでそんな台詞を言われるとドキッとしてしまう。
「えっ? いえいえ、彼女だなんてとんでもない。ただの、と、友だ……」
どすっ、と脇腹に正拳突きを入れられる。すいません。
「親友です。僕の大事な親友の月ヶ瀬柊さんです」
うふふ、と蛍さんは声に出して笑った。
「愉快な親友なのね。良かったわ、蒼依くんが元気そうで」
さあ、どうぞ、と家の中に通された。
何ひとつ変わっていなかった。暖か味のある板張りの壁と、凝った組み木細工のフローリング。マントルピースに置かれた古い時計も、額に入れられた僕たち一家と一緒に撮った写真も、何もかも昔のままだ。廊下の突き当たりにブロンズ製の梟の置物を見付けて昔の記憶が溢れ出す。夜中にトイレに行く時に見ると怖かった。確か、蛍さんのお父さんの猟師仲間が外国で買って来てくれたものだったと思う。気に入っていないのだけど、と言いつつも、蛍さんはちゃんと磨いて手入れをしていた。
二階の元自分の部屋がどうなっているのか気になったけど、勝手に階段を昇って覗きに行くような不躾な真似は出来なかった。もう僕はこの家の子ではないのだ。
階段を見上げた瞬間、また記憶が甦った。
ああ、あれは冬の初め――
僕が風邪を引いて寝込んだ時の事だ。蛍さんはベッドの横に椅子を置いて、そこで林檎を剥いてくれながら、食欲が無いと言った僕をなだめる為に不思議な話をしてくれた。
「林檎をこうして横に切ると、ほら、お星さまがあるでしょう」
そっと差し出された林檎の断面を見て歓声を上げる。
「ほんとうだ」
芯の部分が五角形の星の形に見えた。
「これは魔女のしるしなのよ。林檎にはとっても強い魔力があるの」
「魔女なんて怖いよ」
僕が怯えたフリをして見せると、蛍さんは優しく微笑んでくれた。
「大丈夫よ。ケルトの魔女は善き魔女なの。物語に出てくるのは箒に乗った怖いお婆さんばかりだけど、本当は違う。箒は災厄を掃き清める魔除け。大昔の善き魔女は、癒しの魔法を使って人々を治療していたんですって。だから、風邪はすぐに治っちゃうわ」
そう言われて、渋々林檎を食べたら気分が楽になり、魔法は本当にあるんだ、と感心したのを覚えている。
あれも、僕が蛍さんに魔女のイメージを重ねてしまった原因の一つかもしれない。
思い出の影があちこちで踊り出し、目まぐるしく駆けて、廻って、弾けた。
「珈琲を淹れて来るから、ソファに掛けて待っていてちょうだい」
リビングの扉を開けて手の平でソファを指し示すと、蛍さんは僕たちを置いてキッチンへ行ってしまった。かつて自分も住んでいた家だから、蛍さんがどうやって珈琲を淹れるのか、この目で見なくとも手に取るように分かる。
大きな掃出し窓があるリビングは相変わらず広くて明るかった。テラスの向こうには森の瑞々しい景色が広がっている。高い天井には薪ストーブの煙突が伸びていて、乾燥させたラベンダーの束が掛かっていた。
リビングの端には蛍さんのワークスペースがあった。パソコンは新しいものに買い替えられていたけれど、大きな木の机と座り心地の良い椅子はそのままだ。あの頃、蛍さんは毎日午前十時から正午までと、午後一時から三時まで、パソコンに向かって何かの作業をしていた。お勉強をしているから邪魔しないでね、と。当時は子供だったから深く考えなかったけれど、この家で面倒を見て貰っていた五か月間、ずっと蛍さんは家にいて、仕事に行かなくていいのかな、と疑問に思ってもいた。
大きなトレイに珈琲カップを四つとチョコレートの箱を乗せて、蛍さんはすぐに戻って来た。それぞれに珈琲を配り、お好きにどうぞ、と箱を開ける。
つまらないものですが、とお定まりの文句を言って、祖母が持たせてくれた手土産の包みを差し出すと、ご丁寧にありがとうございます、と蛍さんは受け取ってくれた。
「送ってくれた梅酒、大事に飲ませて貰ってるわよ」
不意に言われてかしこまる。
「お口に合っているといいんですが……」
「とっても美味しいわよ。蒼依くんがお手伝いして作ってるんでしょう? 男の子なのにお婆ちゃんのお手伝いして偉いわね」
蛍さんも熊井さんと同じ事を言った。良い子ね、と撫でられた気がして心が揺れる。簡単にあの頃の気持ちに引き戻されてしまう。
父を殺して肉を食わせた――なんて、恐ろしい疑念を蛍さんに向けているくせに、僕は蛍さんが好きだ。
僕はこの家に戻って来たいのだ。なんて図々しい。
本当にこの人を疑っているのか、という事すら自信が無くなってきた。無意識の逆恨みなんじゃなかろうか。子供の頃の僕は、ただ真っ当に祖母に引き取られた事を、蛍さんに捨てられた、と勘違いして毎日泣いていたくらいだから……
やっぱり、こんなに優しくて綺麗な人が、父を殺して、その肉を僕に食べさせただなんて、有り得ない。
明るく清潔で心地好い家。陰惨な翳りなど、どこにも無い。
やっぱり、すべては僕の妄想だったんだ。
確信した。
月ヶ瀬さんも言ったじゃないか。
君から話を聞いた限りでは、水森蛍は、君の父上の失踪および母上の自殺とは無関係の、それどころか他人の子供を五ヶ月も預かってくれた、ただの善人だぞ――と。
昨夜の推理でも、蛍さんが父さんを殺す事は不可能だと証明してみせてくれた。
僕はいったい何に拘っていたのだろうか。くだらない思い込みを頑固に妄信し続けて、みんなに嫌な思いをさせてるだけじゃないのか。
母が父を殺したと思いたくないという――いや、きっと、父が失踪した事も、母が自殺した事も、二人のせいじゃないと思いたいという、自分勝手で、見苦しくて、みっともない我儘で、たまたま側にいただけの罪の無い蛍さんに罪を着せて、嫌な事から逃げていただけだ。こんなのただの八つ当たりじゃないか。情けない……
惨めさに目を閉じてしまいたくなった時、
「そう言えば、蛍さん」
図々しく朔良さんが話に割り込んできた。
「あの事があった後、農協の事務は辞めたって聞いたんですけど、今、何の仕事をしてるんですか?」
蛍さんは少し口籠る。
「恥ずかしいんだけど、株の取引を少し」
「おおっ、デイトレーダーってやつですか? すごいな。俺もやってみたい」
曖昧に微笑んでから、蛍さんは珈琲カップを持ち上げ口を付ける。
「外向的な人には少しツライかも知れないわね。家にいる時間がどうしても長くなるし、地味な勉強と情報収集を延々と続ける忍耐力が要るわ。一日の取引にかける時間を決めておいて、勝っても負けても深追いせずに切り上げる潔さも必要だし、自制心と勝負強さも必要ね。それに、ある種の諦めも。毎日同じことを繰り返せなければ自滅するから、気分に波がある人にはお勧め出来ないかな」
「ああ、なるほど。俺には無理っすね……」
あはははは、と朔良さんは頭の後ろを掻いた。
話の隙を見て、例の英文が書かれた便箋をテーブルの上に乗せ、そっと蛍さんの手元に滑らせてみた。
「あの、これ、誰が書いたか知りませんか?」
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