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 それで、蛍さんのお父さんは地元の名士で、市議会議員を務めたこともあり、趣味と地域への貢献という実益を兼ねて猟友会の会長もしていると言う事が改めて分かった。猟友会の活動は地域にとって重要らしい。鹿や猪が増えすぎると農作物が食害を被るので、誰かが害獣として駆除しなければならないのだそうだ。猟師のなり手は常に不足していて、蛍さんは大学卒業後、二十三歳で地元に戻り農協職員になった年に猟銃免許を取得し、公的機関を通して地元のお年寄りに頼まれて猪と鹿を駆除していた。男手が無いから一人娘の蛍さんがお父さんの仕事を手伝わざるを得なかったという事だが、蛍さん自身が害獣駆除の仕事をどう思っていたのかは分からない。それが僕の母の自殺によって中断されたという事は、朔良さんがさっき口を滑らせた話で分かった。

「蛍ちゃんは去年、猟銃免許を取り直したんだ。お父さんはもう七十歳近いのに、駆除の手伝いがいなくて困っちゃってたからね。免許は一旦取り消されても、五年経てば再度取得の申請が出来るんだ。もちろん、本人に問題がなければ許可は下りるよ」

 蛍さんが――

 一度は失効した猟銃の所持許可を再び申請して取得した。

 嫌な気分だった。表面的には何も悪い事ではない。制度的にも問題無いようだ。

 だけど、蛍さんの猟銃で母は自殺したのに、どうして……

 耳の後ろが灼けるようにチリチリした。

 もう行こうか、と熊井さんが気を遣ってくれて、やっと自分が黙り込んでいた事に気付く。すみません、と言って立ち上がろうとしたその時、入り口近くのテーブルに座っていた先客――年配のご婦人三人連れの内の一人が、いきなり朔良さんを指差して素っ頓狂な声を上げた。

「ちょっと、ほら、あれ、小日向さんとこの朔良くんじゃない?」

 他の二人も、くるりと僕たちのテーブルのほうを向く。

「まあ、いい歳して、なんていう髪の色なの。あの服もねえ。男が赤いパンダ柄ってどうなのかしらね。ちゃんと仕事してるのかしら」

「あそこの家は色々あったから、それであんな風なんでしょうね」

「嫌だねぇ、いい歳した男がふらふらしてちゃ」

 うるせえなぁ、こんな風で悪かったな、と朔良さんはぼそりと言った。

 ご婦人たちは朔良さんにぎろりと睨まれてもどこ吹く風で、今度は僕を指差した。

「あら、じゃあ、もしかしてあの男の子……」

「ああ、ええと、確か……蒼依くん……じゃなかったかね?」

「可哀想にねえ。お母さんがお父さんを殺して自殺しちゃったなんて」

「猟銃自殺でしょ。怖いわね。私にはとても出来ないわ」

 あっ、と思わず口元に手を当てた。

 なるほど、と理解した。

「お母さんがお父さんを殺して自殺しちゃった――」

 祖母が言っていたのはこの事だったのだ。地元では、僕は『母親が父親を殺して猟銃自殺をした可哀想な子』だったのだ。ああ、だから、祖母は山梨の土地を処分して東京にマンションを買ったのか。そうか。そういう事だったのか。

 気分が憂鬱に沈みかけた時――

「おい、噂話なら余所でやってくれよ。なんなら勘定は俺につけて出てってくれ!」

 なんと、熊井さんがすごい剣幕で怒鳴ってくれた。

「な、なによ、あんたが怒ることないでしょ」

「偉そうに怒鳴っちゃってなんなのよ」

「言われなくてももう帰るところよ」

 おばさんたちは本当に勘定を熊井さんに押し付けて出て行った。しかも、僕たちを指して噂話を始める前に蕎麦と天麩羅のコースはちゃっかり完食していた。

 ぴしゃん、と引き戸が締まった後、熊井さんは急にしおしおとなってしまい、厨房にいる店主のお爺さんにぺこぺこと謝り始めた。

「親爺さん、すまない。ここのお客を追い払ってしまった……」

 親爺さんは、かはっ、と笑った。

「ああ、いいよ、いいよ。あのお喋りくそ婆たちはいつもああなんだよ。誰がどうしたのこうしたのと厭らしい噂話ばっかりしやがって。まあ、図々しいくそ婆どもだから、明後日にでもなりゃ、またけろっとしたツラで蕎麦食いに来るよ」

 びしっ、とトドメに親指を立てる。

「それならいいけど」

 悪かったね……と言いながら、熊井さんはおばちゃんたちの食事代も纏めて会計を済ませていた。僕の為に――

「あの、蒼依くん……?」

 熊井さんは可哀想なくらい体を縮こまらせて、申し訳なさそうに僕の顔を覗き込んでくる。熊井さんは何も悪くないのに罪悪感なんて持たないで欲しい。

「大丈夫です。気にしないでください。それよりご馳走様です。すごく美味しかった。このお店に連れて来て頂いて良かったです。ありがとう、熊井さん」

 早口で矢継ぎ早に言ったら、がばっ、と熊井さんは僕を抱き締めてくれた。


   †††


 一旦、熊井さんのお宅へ戻り、朔良さんのピンクの軽自動車に乗り換えて次の目的地へ出発する前に、僕たちは熊井さんと奥さんに別れの挨拶をした。

 見送りの為、わざわざ庭に出て来てくれた熊井さんは少し言い難そうに、困ったような顔で言った。

「蛍ちゃんのことはそっとしておいしてあげて欲しいな」

 ああ、やっぱり、あの英文を書いたのは蛍さんなんだな……

 熊井さんの顔を見上げ、目を見詰める。大きな人だ。

「すみません。でも、僕はどうしても父と母の話を聞きたいんです。知らなくちゃいけないんです。七年前、本当は何があったのか」

 キッパリ言い切る。

 熊井さんは相変わらずの困ったような温かい笑顔で、うん、と頷いた。

「分かった。じゃあ、もう止めないよ。色々辛いだろうけど、負けずに頑張るんだよ」

 ぽん、とかるく肩を叩かれた。

 熊井さんには僕が頑張っていなかった事を見抜かれているのだろうな、と思った。

 人の輪に入らない。誰とも親しくしない。そうやって、考えたくない事からずっと逃げていた。波が立てば揺れてしまう。揺れれば考えてしまう。それが恐くて、父さんと母さんがいない理由を考えるのが恐くて、僕は無気力だった。このままではいけないと僕も思う。月ヶ瀬さんのお陰で、ここに来ることは出来たけれど、まだ何も変わっていない。見つけていない。解決できていない。

 僕は、何を頑張るべきなんだろう? 見付けるべきなんだろう?

 教えて欲しい――

「蒼依くん、オジサン、出来る事なら何でもするからね。いつでも、どこにいても、遠慮なく言ってくれ。なるべく早く駆け付けるよ」

 熊井さんは心地の好い手の平を、ぽん、と僕の頭に手を置いた。思わず涙が出そうになって困った。父さんが、熊井さんのような人なら良かったのに……

「ありがとうございます」

 朔良さんも熊井さんに挨拶をし、じゃあ、とピンクの軽自動車のエンジンを掛けた時、ふと気になって全開にしてあったウインドウ越しに訊ねてみた。

「熊井さんは、もう文芸サークルの活動はやめてしまったんですか?」

「ああ、いや、実は……」

 ははは、と照れ臭そうに熊井さんは頭の後ろを掻いた。

「年下の仲間と新しいサークルを立ち上げたんだ。自分は小説なんて書けないけど、若い子の世話をするのは楽しいよ。それに、この頃は少しだけ買ってくれるお客さんが付いたんだ。文学フリマのおかげだね。この歳になって二十代の子に混じって活動なんて少し恥ずかしいんだけど、でも、やっぱり仲間と本を作るのは楽しいよ」

 良かった。

 熊井さんには諦めたり捨てたり止めたりするのは似合わない。

 僕の両親のことなんかなんでもなかった感じで、幸せに生きて行って欲しい。


   †††


 蛍さんの家に向かう前に、朔良さんはシャツを買って着替えたいと言い出した。

 さっき蕎麦店にいたご婦人たちに、赤地に可愛いパンダがドバッとプリントされたシャツを貶された事が堪えたようだ。選ぶ人のセンスが変わらないのだから買い替えても無駄だとは思ったのだけど、朔良さんの気持ちを考えて黙っておいた。

「ちょっと待ってて、すぐ戻るから」

 観光客向けのショッピングエリアにピンクの軽自動車を停めて、朔良さんは財布を掴んで走って行った。たぶん、ショップ選びから間違ってるんじゃないかな、とも思ったけれど、それも黙っておいた。観光客向けのポップなデザインの服しか売ってない店で、いったいどんな服を買って来るのだろうか。少し楽しみだ。

 朔良さんがシャツを買いに行ってしまうのを確認した後、月ヶ瀬さんはキリッと眦を上げて僕を見据えた。

「どう思う?」

「え?」

「あの英文を書いたのが君の母上じゃないなんて、酷いと思わないか?」

「あ、ああ……」

 意図が分からなくてきょとんとしてしまう。月ヶ瀬さんは、歯痒い、と狭い車内で無理矢理に地団太を踏んだ。

「相思相愛の二人の間に割って入った図々しい奴がいたというコトだぞ。一角獣であるアリスさん以外が、虎である祐樹さんに、あんな言葉を投げかけて良いわけがない。許されない冒涜だ」

 あんな言葉……? そうだ、あんな言葉だ――

『もしも意に添わぬ事を強いられたら、虎はプライドの為に死ぬでしょう。もっとも、それが起こる前に、私は彼の首を斬り落とすでしょうが……』

 よほど深い憎しみがあるか、よほど深い関係でも無ければ、あんな言葉は出ない。

 月ヶ瀬さんは本気で怒っていた。ああ、もう、と言って拳で運転席のシートを叩く。

「実に不快だ。私は悔しいぞ、蒼依くん」

 僕は彼女の剣幕に圧倒されてしまって、うん、としか言えなかった。

 それにしても、と月ヶ瀬さんは話を変える。

「熊井氏は、あの便箋の英文を見せたら、わざわざ『メンバーにこんな字を書く人はいなかった』と言った。『分からない』ですむところをだよ。つまり、メンバーに心当たりの人がいたのさ。まあ、勿体ぶる事もない。どうせ水森蛍だ」

 ちっ、と舌打ちし、月ヶ瀬さんは苛々と形の良い爪を噛み始めた。爪が傷むともったいない、と心配になったのだけど、さほど強く噛んでいるわけではないようで、それならいいか、と放っておいた。

 月ヶ瀬さんは爪を甘噛みしながら低い声を出す。

「少し印象が変わって来たよ。水森蛍が祐樹さんを殺したという君の考えも、あながち的外れとも思えない。水森蛍は得体の知れない女だ」

 え、と理解が追い付かず、鈍い反応をしてしまう。

「酷い事件があったのに、また猟銃免許を取るなんて抵抗は無かったのだろうか?」

 言われて、さっき熊井さんからその話を聞いた時に感じた形容し難い不快感を思い出した。確かに普通とは言えない気がする。

「君から聞いた水森蛍は、優しく穏やかで柔和な女性というイメージだったが、この一事から受けるイメージは真逆だ。どう言ったものかな……『為すべき事は為す。責任は果たす』かな……そういった類の意思の強さを感じるよ」

 月ヶ瀬さんはピタッと爪を噛むのをやめて、見えない何かをキッと見据えると、宣戦布告のような強い声音で言った。

「私はね、もっともらしい理由を付けて、物事を勝手に納得するのが好きなのだが、情報を収集し論理的に検証する手間を惜しむような、怠惰で身勝手な思い込み屋の愚か者とは違うのだ」


†††

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