第5話 渇

 コンタクトレンズを使っていると視力低下につながるという言説がある。おそらく自分の視力に合わないものを使い続けると、ということなのだろうが視力が悪い今も裸眼か眼鏡を使い続けている。外の世界に出れば視力が悪いことによる弊害は大なり小なりあるのだろうが、家に引きこもっている分には概ね問題なかった。もとより、目の中に異物を入れる感覚がどうにも慣れない。


 先日ついにインスタグラムをアンインストールした。たったそれだけのことなのだが随分気が楽になった。他の人の充実した生活っぷりを見せつけられるだけで自分がどれだけ苦しんでいたのかやっと分かった。嫌なら見なければいい話だ。よく言われることではあるのだが、離れるまでが大変だった。自分の生活の中の素晴らしい部分だけを切り取って載せているに過ぎないのに、そう割り切れる思考がなかった。他の人間にしてみれば迷惑な話だっただろう。彼らは別に見せつけているなんて自覚はないのだ。勝手に僻んでいる人間が存在していたことなど、彼らは今後一生知らなくてもいい話だ。

 SNSは時々しんどい。インスタグラムはその代表格なのだがラインもツイッターも比較する他者が現れた瞬間に劣等感優越感が生まれ、どのみち自己嫌悪へとつながる。離れる時期が必要で、それが今であるというただそれだけの話。


 普通に生きている分、褒めてくれる人はいない。大いなる偉業を成し遂げて、あるいは天性の才能を生かして初めて人は褒められる。誰にも見られていないのに他者からの評価には人一倍敏感だった。あるいは、他の人間が評価される様にも注意を払っていた。そこから得られるものは何もない。何もないのに。

 普通が一番大変だった。普通に生きることのハードルがあまりにも高すぎる。多くの人間がこなしている当たり前は簡単にこなせる代物ではない。何もすごくはないのだができれば褒められたい。しかし、褒められたいと願う割に人を褒めることが苦手だった。難儀だと思う。


さよならを言うのがこんなにもつらい相手がいるなんて、僕はなんて幸せなんだろう、とは某ディズニーキャラクターの台詞らしいが、今以上に荒んだ生活をしているときにツイッターでこの引用を見てやっと心が救われた気がした。あの別れにも意味があったとようやくそこで割り切ることができた。

 言葉は偉大だ。人を殺すことも救うこともできる。

 いつか救う側の人間になれるだろうか。

 

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